交際
私が夫と付き合い出したのは、奇妙なきっかけでした。あるいは、それは私から見ると奇妙に見えるだけで、夫からすると普通の事なのかもしれません。
私はその頃、ある人と付き合っていました。以前の職場で一緒になった人でした。彼は、私より一つ年下でした。その頃に、彼の浮気が発覚して、私は悩みましたが、どうしても彼への嫌悪感が拭えず、別れを切り出しました。
彼は、私をなだめようと色々な事を言いました。私も随分と悩みましたが、結局は別れる事になりました。あとから知りましたが、私と別れ話をしている間も、彼は浮気相手と会い続けていたようです。あとから友人が教えてくれました。
そんな事があって、私は、一人になりました。私は職場の仲のいい子に彼について色々と愚痴りました。その子はごく普通の穏やかな性格だったので、話を聴いてくれる相手としては格好の相手でした。
その子は、夫と仲が良かったようです。それで、夫に、私が彼氏と別れたという話がその子経由で伝わったのでした。ある休憩時間に、休憩室で、たまたま夫(ここでは未来の「夫」ですが)と一緒になった時に、夫は次のように私に話しかけました。
「なんでも彼氏と別れたんだって? 聞いたよ」
夫はとても軽い感じでした。夫とはそれほど仲が良いというわけでもなかったのに、いきなりそんな事を聞いてきて、私は少しは憤ってもよかったのですが、そのあまりの自然な質問に、素直に答えてしまいました。
「ええ。彼が浮気してしまって」
私は言ってしまうと、口に出すと、改めてそれが"事実"だというのを痛感しました。というのは、私の心の奥では未だに、彼が実は浮気していなかったのではないか? 全ては嘘だったのではないか?という一抹の希望が残っていたからで、改めて口に出すと、やっぱり事実だったと、自分でも何故かがっかりした気持ちになりました。
「そうなんだ。それは残念だったね」
夫は言いました。ですけど、それほど心情がこもっているようにも感じませんでした。ですが、夫の次の一言は私を驚かせるものでした。
「…残念だったね。それだったらさ、"僕"と付き合う?」
私は唖然としました。たいして話してもいないのに、どうしてそんな事を言うのだろう? 私をからかっているかしら? 私は不思議に思って、夫の目を見たら、夫は口元は笑っていたものの、目は比較的真面目に見えました。
「藤沢さんは、私をからかってるんですか?」
「からかってないよ。僕はいつだって真面目だよ。冗談を言っている時も、僕は真面目さ。…いや、冗談を言っている時が僕は一番、真面目なんだ」
私はもう一度、夫の表情を見ました。目は真剣だけれど、口元は笑っている。(この人は何を考えているんだろう?) 私には不思議でしたが、不気味だとは感じませんでした。私は咄嗟に、次のように口走りました。
「考えさせてくだい」
どうして私がその時、即座に断らなかったのか、あとから考えてもわかりませんでした。私は、夫に微かに好意を持っていたのでしょうか? …いやいや、どう考えても、そんな気はありませんでした。ですが、咄嗟のその言葉に、私は断る事ができませんでした。
「わかりました」
夫は、笑みを止めて、真面目に言いました。夫は「それでは、仕事があるんで。また」と言って、立ち上がって、部屋を出ていきました。私はその背中が、はじめて大きな意味を持つものに見えだしました。(どこまで本気なのだろう?) 私は考えてみましたが、夫は底のないような人で、結果としては、私の手に負えるような人ではありませんでした。