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 何かに導かれるようにして私は深夜の坂を駆け下りていきました。海と、住宅街の間にある道路、そこには深夜だというのに車やトラックが次々に通り過ぎていました。

 

 (彼らはまだ動いているんだ)

 

 私は道路をまたいで、砂浜に足を踏み入れました。。そこに夫の影がどこかにないか、見ようとしました。しかし、夜の中で人影を探すのはあまりにも難しい。

 

 私は砂浜を歩く事にしました。最初に右に行き、いなければ左に、順に見ていこう。どうして夫が砂浜にいると思ったのか、後から考えても私にはわかりませんでした。何となく虫が知らせたのかもしれません。夫と長年一緒にいた事によって、夫の不思議な在り方が微かに、私の感覚で捕捉できたのかもしれません。

 

 夜の海はどこか恐ろしかったです。昼の海と違って、波が激しいように感じました。月の光が煌々と照って、月光を波は反射して輝きました。私はこの無限の海の向こうにも誰か人がいるんだなと考えると、何だか不思議な気がしました。海の向こう、遠くにタンカーが接岸しているように一瞬見えましたが、すぐに消えました。あれは、私の目が見た幻影だったのかもしれません。

 

 歩いているうち、私は微かに揺れ動く人影を見かけました。それが人なのか、ただの影なのか、近づかないとわかりません。近づくうちに、それが立って遠くを見ている人だとわかりました。

 

 シルエットがどこか夫に似ている。そんな事を考えながら近づいていくと…やっぱり、夫でした! 夫は、ダウンジャケットを着て、じっと夜の海を眺めていました。近づく私には気づいていないようでした。

 

 私はもう涙目でした。私はすぐに心細くなります。夫を見つけて、心から嬉しかった。それと共に(こんなところで何をしているんだ!)という怒りが湧いてきました。浮気を疑った事はすっかり忘れていました。

 

 私は音を立てて、夫に近づき「周ちゃん」と声を掛けました。ですが、夫はこっちを見すらしません。

 

 その時、月の光に照らされて、夫の顔がはっきりと見えました。斜め横からでしたが、非常にはっきりと見えました。

 

 その時の夫の顔、表情を私は死ぬまで忘れないでしょう。夫はまるで能面のような表情でした。目が、死んでいるのです。目が全部黒目になって、ただずっと見えない何かを眺めている。海の向こうにいる幻の妖精を見ている、そんな顔でした。

 

 少なくとも、夫がこの、私達が住んでいる現実世界ではない、どこか違う世界を見ているというのは私にとってほとんど確実であるように感じました。私はその時、一瞬ですが、夫が全く別の誰か、いや、この世界の他人ではなく、別の世界の別の誰か、あたかも宇宙人のような、そんな存在に感じました。それほどまで夫は忘我の表情、姿勢をしていました。

 

 私は近づき、肩に手をかけました。片方の肩に手をかけ揺さぶりました。

 

 「周ちゃん、どうしたの? どうしたの?」

 

 私は泣きそうでした。夫はそれでも海を見続けていました。数秒後になってやっと我に帰ったらしく、「どうした? こんなところで? 何をしている?」と言いました。夫は、まるで、この地球に今さっき降り立ったかのような、そんな口ぶりでした。

 

 「こっちこそ、聞きたいわよ。何してるのよ? こんなところで?」

 

 私はその時に、わっと泣き出してしまいました。感情が昂ぶって、どうしようもなかったのです。夫は私の肩を抱いて、「大丈夫だよ、どうしたんだよ」と言いました。

 

 私は次第に気持ちが落ち着いてきました。気づいたら、夫はいつもの眠そうな、おとなしい、ごく普通の目に戻っていました。さっきまでのガラスの目ではありませんでした。

 

 「何してるのよ」

 

 私は自分が泣いた事への照れ隠しで、夫に腹を立てました。ですが、夫はいつもの優しさに戻っていました。

 

 「悪かったよ。帰ろう。風邪引くよ」

 

 その時、私は夫の手に触れたのですが、驚くほどに冷たかったので、思わず手を引いてしまいました。

 

 「周ちゃん、手が冷たいよ」

 

 「手が冷たい? …ああ、冷えたみたいだな」


 夫は手を擦り合わせました。ポケットに手を突っ込んで、私に顎で前を歩くよう指示しました。私は言われた通り、歩き出しました。でもすぐに私は、歩くペースを落として、夫と隣同士になりました。

 

 その時、私は夫に尋ねました。どうしてこんな深夜に海を見つめていたのか、と。だけど夫はまともに答えようとはしませんでした。

 

 「別に、大した理由はないさ。ただ、ふと、夜の海が見たくなってね。夜の海が好きなんだ。荒涼としていて、不毛で、生命の影がなくて、虚無そのもので…まるで"人生"みたいだと思ってね」

 

 そう言う夫の口ぶり、それから夫の視線を見ていますと、またさっきまでの能面のような表情に戻っていきそうだったので、私はそれ以上、何も言いませんでした。夫の言っている意味は少しもわかりませんでしたが、私はそれ以上は何も聞きませんでした。

 

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