忠実なる奴隷
一ノ宮がバギオの村へ向かった翌日、白河と柏木の二人も、馬車で彼の後を追った。
本来であれば、この地を治める地方官に護衛を出してくれるよう依頼したいところだったが、白河たちは単独で進むことにした。魔族との戦争が激化したことで、各地で騎士や兵士の動員・徴用がなされている。そのため、田舎町の地方官の手元には、治安維持に必要な最低限の人数しか残っていないことを承知していたからだ。
女性二人だけの旅には不安もあったが、柏木はもちろん、白河も強力な攻撃魔法を操ることができる。戦闘能力だけをみれば、なんの問題もなかった。それに、あと数日もすれば、一ノ宮が合流するはずなのだ。
この旅の間、馬車の操縦はほとんど、白河が行っていた。柏木の症状が、依然としてかんばしくなかったためである。一行から一ノ宮が抜けた後は、むしろ悪化しているようにさえ見えた。旅の途中、白河は柏木にたびたびヒールの魔法をかけたが、さしたる効果はなかった。聖女と七属性魔導師は、ぞれぞれに体の不調を抱えながら、旅を続けていた。
この日、白河はとある宿屋の、広い部屋の中にいた。
依然として、柏木の病状は変わらなかった。白河は、柏木に就寝前のヒールとキュアの魔法をかけ、いくぶんかは調子が良くなったように見える彼女が、自分の部屋に戻っていくのを見送った。ドアを閉め、ベッドに腰掛けた白河は、はぁ、と大きなため息をついた。
予定よりも、行程が遅れている。
いや、バギオへの旅程自体は、たいした問題ではない、と白河は考えた。遅れたと言っても、せいぜい一日程度の話だろう。問題は、その後だ。
バギオへの到着、一ノ宮との合流、上条の安否の確認。そしてその後に予想される、様々な後処理。対魔族戦線への復帰は、それが終わってからのことになるだろう。そうなると、少なくとも一週間程度の遅れは、覚悟しなければならない。魔族に魔王が現れた、こんな状況で。私たちが戻るまで、はたして戦線は維持できているのだろうか。
いや。それ以前に、私たちは戦線に復帰できるのだろうか? もしも上条の死が本当だったとしたら、勇者パーティーからは重騎士が抜けてしまうことになる。聖剣という武器が加わったとはいえ、壁役のいなくなった不安定なパーティーで、以前のような戦いができるのだろうか。
代わりの前衛を入れるにしても、上条の代わりとなると、かなりのレベルの騎士でなければならない。そんな人材が見つかったとしても、各自の連携をスムーズにするためには、ある程度の訓練期間が必要になる。そんな時間が、残されているのか? ……思いは千々に乱れて、なかなかまとまろうとしなかった。
白河は、進んで戦争に参加したいわけではなかった。しかし、そうしなければ元の世界に戻ることができないのであれば、それを拒むつもりはなかった。
この世界に召喚されて以来、彼女が考えてきたのは、「どうやって日本に帰るか」ということだけだった。
聖女などと呼ばれ、もてはやされ、一部の人にはあがめられていたが、白河はそんなものには興味はなかった。彼女が求めていたのは、かつては当たり前のように享受し、そして少しだけ、小馬鹿にもしていたものたちだ。ファッション、スイーツ、コミック、アイドル、SNSやネット、学校、そして家族……それらの背後にあったのは、絶対的な安全と安心だ。
もちろん、どんな社会にも問題や課題はあるだろう。それでも、自分が今いる世界とは比べものにならないほど豊かで、快適で、過ごしやすい場所だったのは明らかだった。
ふと、魔物との戦いで死んだという大高たちのことが、白河の頭に浮かんだ。特に親しくしていたわけではなかったが、かつては同じクラスで勉強していたクラスメートの死──この世界にいる限り、彼らと同じ運命をたどる可能性は、常にあるのだ。どのような手段をとっても、必ず日本に帰らなければならない。
彼女にこの強い願望があり、そしてその願いを叶えうるのがカルバート王国のみである限り、聖女であるはずの彼女は、実のところ、ただの奴隷に過ぎなかった。自らの意見を語るようでいながら、王国の命令には絶対に逆らうことがない。まさに忠実なる奴隷だ。
この歪な構造を、白河自身も自覚はしていた。それでも白河の心は、戦争への復帰の遅れという目前の事態に、ただただ焦燥していた。
この時、ミシリ、と床がきしむような音が聞こえた気がした。
白河は顔を上げ、ドアの方を見た。そのまま耳を澄ませたが、それっきり変な音は聞こえてこない。彼女は顔を戻して、再び自分の考えに沈んだ。
その思考は少しばかり飛躍して、彼女の頭には上条のことが浮かんでいた。上条が死んだというのは、本当なのだろうか。彼が大高と同じ運命をたどった可能性は、ないとは言いきれない。それは、さっきも考えていたとおりだ。それでも、あの上条が……迷宮では、巨大なワイバーンの突撃を盾一つで防ぎ、逆にカウンター技で倒してしまったあの重騎士が、そんなに簡単に死んでしまうとは信じられなかった。
バギオの村で別れた時には調子が悪そうだったけれど、それは自分や一ノ宮、柏木も同じだった。上条の症状が三人に比べて強かったのは、純朴な彼の心が、迷宮最終層でのあの出来事に耐えきれなかったせいだろう。そう、白河は考えていた。だとしても、それが死につながるとは、とても思えないのだが……。
ここまで考えた時、白河は思い出したように、ヒールの魔法を詠唱した。魔法の効果が自分の体に染み渡り、思考の裏でずっと続いていた吐き気が、少し軽くなった気がした。
そういえば、一ノ宮はだいじょうぶだろうか。白河の思考はまた飛んで、先日別れたばかりの勇者のことになった。私の症状は一時は回復していたけれど、このところまた体調が悪くなって、たびたび自分にヒールをかけている。今日は特に、調子が悪いようだ。
一ノ宮は様々な魔法を使うことができ、水魔法のスキルも持ってはいるが、回復魔法はあまり得意ではない。今は、どうしているんだろう。マジックバッグに、王国から支給された高級ポーションをたくさん持っているから、心配はないと思うけれど……。
バタン、と大きな物音がして、白河はぎくりと身を震わせた。
何かが、倒れるような音に聞こえた。それに続いて、ガラン、カラカラ……と、何かが床へ落ち、転がるような音。間違いなく、空耳ではない。ここに戻ってこようとした柏木が、誤って転んだのだろうか? だが、いつまでたっても、彼女がドアを叩く音は聞こえてこなかった。
白河は立ち上がり、ドアを開けて宿の人を呼んだが、返事は返らなかった。
そうだった、と白河は思い出した。ここは宿の別館で、独立した別荘のような建物になっている。特別な来客があった時に使う建物で、そんな客の場合、たいていはおつきの従者がいるため、従者用の部屋も用意されている。その代わり、宿の人間はここには残っていないのだ。
これは白河たちが特別扱いを要求したわけではない。そもそも、自分たちが勇者の一行であることも、伝えてはいなかった。この街に到着する直前、襲ってきた山賊の一団を白河たちが壊滅させたことを知った宿の主人が、好意でこちらの部屋にしてくれたのである。こんな田舎の町には、盗賊退治のために騎士や兵隊が派遣されることは少ないのだ。ましてや、今は戦争中なのだから……。
そのまましばらく待ってみたが、何も起きなかった。白河は、ベッド脇に置いておいた魔法杖を手に取って、立ち上がった。
ドアを出て、柏木の部屋へ向かう。さして幅の広くない廊下にはランプの魔道具が設置されており、壁や床をほのかに照らしていた。白河は、隣にある従者用の部屋の前を通り過ぎ、まっすぐな廊下を歩いた。角を左に二つ曲がり、また従者用の部屋を過ぎれば、そこが柏木の部屋だ。
白河は、柏木のことが心配になっていた。彼女もさっきの音、そして白河の声を聞いているはずだ。彼女が反応しなかったのはなぜだろう。既に熟睡していて、音に気づかなかっただけなら、いいのだけれど……。
白河は廊下の角を曲がった。そこで彼女の目に入ってきたのは、開けっぱなしにされた、柏木の部屋のドアだった。白河はあわててドアに駆け寄り、中を覗いた。部屋の中は暗かった。ランプの魔道具が床に転がっていて、その光がドア側にしか届いていなかったのだ。それでも、廊下から入ったわずかな光が、部屋の奥側を照らしていた。
そのかすかな光で見えたものは、ベッドの前の床に倒れている、柏木の姿だった。