まるで奇術のように
エドモンドは、しばらくぼくの顔をじっと見つめていたけれど、やがて諦めたように言った。
「ところで、おまえが持ち込んだマザーアラネアの魔石は、うちのギルドで買い取らせてもらっていいんだな。オークションにかけるという手もあるぞ。時間はかかるが、その方が高く売れる可能性は高い」
「いえ、そちらで買い取ってください。その代わり、ちょっとお願いがあるんですけど」
「なんだ」
「マザーアラネアの魔石が持ち込んだのがぼくであることを、隠してもらいたいんです。それから、しばらくの間でいいので、魔石が持ち込まれたこと自体も秘密にしてもらえれば。大金が入ったことを知られたら、変な騒ぎに巻き込まれそうなので」
「うむ。それはかまわないが、迷宮から出てきた冒険者がいることは既に噂になっているし、クイーンアラネア、マザーアラネアの魔石がなかったことも、調査に向かった冒険者の口から広がっていくだろう。あまり意味はないと思うぞ」
「ですから、しばらくの間だけでいいんですよ。この街では、ぼくは冒険者としてほとんど働いていなかったので、顔は知られていないでしょう。もう少ししたら、この街を出ていくつもりですから、それまでの間、隠れていられれば」
ギルド長は小さく嘆息すると、
「まあ、いいだろう。そのベッドはどうする? 売るつもりなら、それも引き取るぞ」
と顎をしゃくって、ぼくの足下に置いてあったクモ糸のベッドを指した。
「これは、ぼくの方でもらっておきます。ふかふかで、上手くたためれば、夜営に便利そうなので」
「夜営か。そういえば、おまえはかなり長い期間、迷宮の中にいたことになるな。いったい、何を食べていたんだ? あの迷宮は、アラネア以外の魔物は、ほとんどいなかったはずだが」
「ですから、そのアラネアですよ。アラネアの足の肉です。あの魔物、大きさによっても違ってくるみたいですが、鳥肉にも似た味がするんですね。調味料が何もなかったので、その点では苦労しましたけど」
これを聞いたエドマンドは、初めて驚きの表情を見せた。
「おまえ、あれを食ったのか……生きるためとは言え、苦労したんだな」
うん、やっぱりこの世界の人は、クモは食べないのが普通みたいだ。
話は終わりのようなので、ぼくはベッドを抱えて、立ち上がった。あー、これ、どうしようか。こんな変な格好でギルドを出たら、目立ってしかたがないな。かといって、ここでマジックバッグを使うのは避けたいし。
ちょっと困った顔になっていたのだろう。エドモンドはニヤリと笑って、こんなことを言った。
「身を隠していたいなら、ここを出る時にも、なるべく人目に付かないようにしていった方がいいぞ。そんなスキルを持っているなら、だがな」
どうやら、ぼくがスキルを隠していることは、気づかれていたようだ。しかたがないか。あんな魔物の巣から無傷で帰ってきた人間が、「剣」のスキルしか持っていないなんてことは、普通では考えられないからね。
ギルド長のお言葉に甘えて、ぼくは隠密のスキルを発動して、裏口からこっそりとギルドを出た。以前に泊まっていた宿を訪ねると、幸い部屋は空いていたので、念のため以前に泊まったのと同じ部屋を選んで、一週間分、先払いで借りることにした。ぼくは部屋に入ると、そのままベッドに倒れ込んだ。
今日は、あまりにも多くのことがあった。
小部屋からの脱出、アラネアの群れからの逃走、マザーアラネアとの対峙。大人になったフロルの登場と「テンペスト」の大魔法、そして、地上への帰還……あの閉ざされた迷宮の中では、そもそも一日がどこから始まったのかがわからない。ぼくたちは何時間戦い、何時間走り回ったんだろう。そもそも、今はいったい何時なのか、朝なのか夕方なのかもわからなかった。
あとどれくらい眠れば、次の朝になるんだろう……と思ったのを最後に、ぼくは深い眠りに落ちていった。
◇
翌日、窓から差し込む朝日に起こされたぼくは、何日ぶりかのちゃんとした朝食を取ってから、ライヘンの滝に向かった。
まだ眠たそうなフロルに場所を確認して、隠してあったバッグを回収する。滝壺近くの木立の中には、ぼくのバッグと、見知らぬ小さなバッグがあった。小さい方は、アネットの持っていた物だろう。ぼくは自分のバッグを背負い、小さなバッグはマジックバッグに入れて、宿に戻った。
その翌日、遅く起きたぼくは街の商店を回って、食料やクナイなどの消耗品を補充した。ちょっと体がだるかったこともあり、買い物を終えるとすぐに宿に戻って、その後は一日中、部屋にこもっていた。
その翌日は、冒険者ギルドに向かった。二、三日たったらもう一度顔を出せと、ギルド長に言われていたのを思いだしたんだ。すると二階の応接室に通され、ギルド長からマザーアラネアの魔石の売却価格が告げられた。代金は百二十万ゴールド、大金貨にして十二枚。地球のお金にすれば、一千二百万円ほどだろうか。かなりの大金なので、実際に代金を渡すのは、ちょっと先になるそうだ。
それから、貴重な魔石を持ち帰ったという功績により、冒険者ランクがBランクに昇格することになったと言われた。ランクが上がるのはいいことだし、百二十万ゴールドという値段も、魔石一個の値段としては破格の数字だ。だけど不思議と、あまり心が動かなかった。
ギルド長から、「なんだ、感動がないな。大丈夫か?」と言われたほどだ。ぼくは、ちょっと疲れているみたいですとだけ答えて、すぐに宿に戻った。
四日目、五日目、六日目も、何もせず、何事も起きずに過ぎていった。
迷宮で受けたケガの影響や、迷宮踏破の疲れが残っているんだろう。そんなことを、自分への言い訳にして、ぼくは食事の時以外、ほとんど部屋の外に出なかった。そしてただただ、時が過ぎていくのを眺めていた。
その次の日。宿の食堂で、ぼくは数人の男たちから変な目で見られた。ぼくと目があうと、男たちはさっと目をそらして、なにやら小さな声で話をしだした。魔石を持ち帰り、大金を手に入れた冒険者の話が、街中に広がっているのかもしれない。今日で先払いした宿代の分が終わるし、そろそろ、この街を出なければならないんだろうな。本来なら。面倒ごとを、避けたいのなら。
そして、その日の夜。
ぼくはお湯で体を拭き終わったあと、ぼんやりとベッドに腰掛けていた。階下から、酒を飲んだ冒険者たちが騒ぐ音が聞こえてくる。すると、かすかに窓の木戸がきしむ音がした。ついでバタンと音をたてて、乱暴に木戸が開かれた。ぼくは驚いて、窓に目をやった。
まるで奇術で現れたかのように、アネットが窓の縁に腰掛けていた。