テンペスト
中空に浮かんだフロルの体は、再び光に包まれた。
さっきまでのような、ぼんやりした光ではない。目がくらむくらいに力強い輝きが体から放たれて、周囲の床や壁を白く照らした。そして光が収まった時、そこに浮かんでいたのは見たことのない大人の女性だった。身長はぼくよりも高いくらいで、腰まで届く長い髪の毛、背中には透明な光の羽根が二対浮かんでいる。人間離れした美しい顔立ちが、なんだか作り物めいて見えた。
ぼくは思わず声に出していた。
「もしかして、フロル……なの?」
「ええ、私ですよ、ユージさん」
美しい精霊は、小さくうなずいて見せた。
「本当? でも、どうしてそんな格好に?」
「どうして、と言われても、これが本来の私なのです。さきほどまでの少女の姿は、魔力が不足している時に使う、かりそめの形です。今回は魔力の不足が激しかったため、長い時間、あの形をとることになってしまいました。その上、あの姿では判断力も低下してしまうため、魔物に捕らえられてしまうことにもなりました。ですが」
彼女は、その薄い唇に柔らかな微笑みを浮かべた。いつもとは言葉遣いが違うし、ほっぺがぷにぷにした、小さな女の子の面影はまったく残っていない。けれどその笑顔を見た時、彼女は間違いなくフロルだなと、納得することができた。
「ですが、そのおかげで、私は契約者を見つけることができました」
フロルはそう言うと、マザーアラネアのいる部屋の奥の方へと顔を向けた。左の掌を、魔物に向けてゆっくりと突き出す。
「今日は、百年ぶりの契約者であるユージのため、私の力を振るうことにしましょう」
彼女の手から風が生まれ、あたりの空気が複雑に動き始めた。
いや、あれはただの風ではない。
「精霊術」のスキルを持っているおかげだろうか、ぼくには見てとることができた。あれは、魔力の流れだ。風の属性を帯びた魔力が、彼女の左手の前に収束し、そこからあふれ出た力が、風になっているんだ。魔力の収束は、今まで見たことがないくらい巨大なものになっている。なのにまだ、フロルは魔法を発動しようとはしない。彼女はいったい、どんな魔法を使おうとしているんだろう。
何かを感じ取ったのか、クイーンアラネアは素早く後退して、部屋の中央まで戻った。もう一頭のクイーンアラネアも、じりじりと後ろに下がり始めている。ただ、マザーアラネアだけは、元いた場所にじっと構えて、動こうとしなかった。
フロルは手を上げた姿勢のままだけど、魔力の蓄積はさらに高まって、いまにも爆発するのではないかと思われるほどになっていた。その圧力に抗うかのように、マザーアラネアは大きな雄叫びを上げた。
「ギギギッ!」
マザーアラネアは大きく口を開き、ブレスを吐き出した。さっきぼくが食らいかけたのとは強さも勢いも段違いの、おそらくは、この変異種の魔物が本気で放った攻撃なんだろう。青白い光を伴った魔力が、大人の姿のフロルに襲いかかる。二頭のクイーンアラネアも、マザーに続いた。巨大なアラネアたちは、まるで焦っているかのように、五発、六発と連続して、巨大な魔力の塊を吐き続けた。
だけどそのブレスは、フロルの前までくると、そこに透明な板でもあるかのようにはじかれ、散らされて、やがてかき消えた。うち一発はぼくの方にも向かってきたけど、そのブレスもやはり途中で力を失って、こちらまで届かなかった。
「障壁を張りました。あなたがたは、その後ろに隠れていてください」
ぼくたちに向けてこう言った後、フロルはマザーアラネアに語りかけた。
「その本来の姿から離れてしまった、哀れな魔物よ。理《ことわり》の元に帰りなさい」
手の前に集められた魔力の高まりが最高潮に達し、フロルは静かに魔法の名前を口にした。
「《テンペスト》」
この空間を満たす空気が、ぴんと張りつめたように感じられた。
次の瞬間、ボス部屋の中央に一条のつむじ風が発生し、それは見る間に大きくなって、部屋全体に広がった。地面の土ぼこりが巻き上げられて、轟音と共に旋回する。たちまちのうちに、部屋の中は薄暗くなり、激しい暴風に包まれた。巨大な体躯を持つクイーンアラネア、マザーアラネアも、吹き飛ばされないように、足を縮めて体を低くするのがやっとのようだ。
突然、一匹のクイーンアラネアの外殻に、一本の亀裂が入った。続いて二本、三本。魔物は叫びを上げるように口を開いたけど、風の音にかき消されて、その声はほとんど聞き取ることができなかった。ぼくの背中に抱きつきながら、アネットがつぶやいた。
「……いったい、何が起きているの?」
「『ウィンドカッター』のような風の刃が、あの嵐の中に入っているみたいだ。威力は、比べものにならないと思うけど」
フロルが張ってくれた障壁のおかげで、ぼくとアネットのまわりには、そよとも風は吹いていない。だけど、ぼくたちの目の前にあるのは、まさに地獄絵図だった。
密閉された空間の中、暴風は減衰することなく、それどころか風と風が増幅し合うように、ますます激しくなっていった。その強烈な暴風に交じって、無数の風の刃が乱舞している。三匹のアラネアの体には、数え切れないほどの傷がつけられ、それは今も増え続けていた。その傷口からは、陰圧に吸い出された魔物の体液が漏れ出て、宙を舞っていた。
とうとう、クイーンアラネアの足の一本が、完全に切断された。バランスを失った魔物は、がくがくと震えたあとにいきなりひっくり返って、腹部を上にした。腹部の外殻はあっという間に切り裂かれて、中にある臓腑も、さんざんに切り刻まれたらしい。その傷口から、大量の体液があふれ出した。
「うわあ……」
凄惨な光景に、ぼくは思わず目をそらしそうになった。でも、これはもとはといえば、ぼくたちのための戦いだ。しっかりと、見届けるべきだろう。
やがて、もう一匹のクイーンアラネアも仰向けになって、一匹目と同じように、腹部を風の刃でえぐられた。残ったマザーアラネアだけが、うつ伏せの体勢を保ってる。しかし、全身が傷だらけの上に、すでに足のほとんどが、もぎ取られていた。複眼のうちの一つは、大きく陥没している。さっきからほとんど動きがなく、その体には、既に戦う力は残っていないように見えた。
だが、マザーアラネアはつと頭を上げると、首を震わせながら、大きく口を開いた。そして、おそらくは最後の力を振り絞って、ブレスを吐きだした。
けれど、その攻撃には、さっきのような力強さはなかった。
フロルの障壁の前に、ブレスはあっけなく消失した。マザーアラネアはがっくりと頭を垂れ、大きな眼から力が失われた。そしてそれきり、この巨大な魔物は動かなくなった。
空気中に充満していた魔力が、ふっ、とかき消えた。
それまで荒れ狂っていった暴風が、急速に衰えていく。それとともに土ぼこりも収まって、視界が徐々に回復していった。そうして眼前に現れたのは、さっきまでは魔物だったものの残骸だった。
そこら中に散らばっている、ばらばらに解体されたクモの足や胴体の切れ端。これは出入り口の穴にひしめいていた、大小様々のアラネアたちだろう。二匹のクイーンアラネアの体も、ほとんど原形を残さないまでに破壊されていた。マザーアラネアだけは、かろうじて形を保っていたけれど、まったく動く気配のない頭部と、閉じることのない二つの目には、生気は感じられなかった。
ボス部屋の中には、生きている魔物は、一匹も残っていなかった。