コスパの悪い戦い
その日は、制圧した小部屋からかなり離れたところで、眠ることにした。
小部屋の中は魔物の死体だらけで、ちょっとあそこで寝る気にはなれない。臭いを嗅ぎつけて、別の魔物が来てもおかしくないからね。実際、一匹のスモールアラネアが中に入っていき(ぼくたちは既に部屋の外に出ていた)、一度出た後、改めて仲間を引き連れてきたことがあった。その後どうなったかは見ていないけど、たぶん、アラネアの死体を自分たちの部屋へ運び出したんだろう。
翌日、ぼくたちは一旦は引き返した分岐点まで戻って、そこを左に進んだ。こちらの道は、かなりの上り坂になっている。フロルが目印に置いてくれるはずの小石はまだなかったけど、上り坂なら、間違っている確率は低めのはずだ。
ぼくたちはしばらくの間、その道を進んでいった。魔物との戦闘は、基本的にはスルー。隠密スキルを使っていれば、まず気づかれることはなかった。通路で見かけるのはビッグアラネアばかりで(スモールアラネアは、だんだん見かけなくなっていた)、魔物のレベルがそれほど高くないこともあったんだろう。
これなら、意外に簡単に脱出できるかもしれないな……などと思いながら歩いている時、ふと気がついたことがあった。
「ねえ、アネット。アラネアって、基本的には大きくなると、強くなるんだよね」
「そうだね」
何を今さら、といった顔のアネットに、ぼくは疑問をぶつけた。
「だとしたら、どうしてアラネアが、この迷宮を支配できたんだろう?」
首をかしげるアネットに、ぼくは説明をつけ加えた。
「ここの通路は、幅も高さもせいぜい5メタくらいで、さっきからずっと変わらない。迷宮の道を最初に作った魔物、たぶんアントだと思うけど、そいつにとってはこれが便利な大きさだっただろう。でも、これだと大きなアラネアは入れないよね。クイーンアラネアは十メタにもなるって話だけど、だとしたらここを通るのは無理だ。つまり、強いアラネアは入ってこれないはずなんだよ。
だとしたらどうやって、今の主はどうやって迷宮の最深部まで行って、前の主を倒すことができたんだろう?」
「さあね。小さいけど強い個体がいたんじゃないかな。ここの主になっているのは、アラネアの変異種らしいし」
「でも、その小さな変異種が最深部を押さえたとしても、一匹で迷宮全部を支配するのは無理だろ。子供たちに任せざるを得ない。そうなったら、さっきと同じ問題が起きる。強い子供は、通路を通れないんだ。どうやったんだろう。もしかして、変異種がたくさん生まれたのかな?」
「うーん、それはないかな。そうなったら、さすがにかなりの異常事態だ。冒険者ギルドあたりが、大騒ぎしているだろう」
「そうだよねえ。ってことは、謎が残ったままになっちゃうんだけど……」
ぶつぶつとつぶやき続けるぼくに、アネットは思わずといった感じで、苦笑いした。
「それならそれで、かまわないだろ。通路には強い敵は出ない、ってことなんだから。謎を解きたいなら、迷宮を出てからにすればいい」
そんな調子で、一日は何事もなく進んだ。が、翌日の朝早くに、ちょっとした事件が起こった。
といっても、迷宮に異変が起きたとか、変異種のアラネアが現れたとか、そんなことではない。いつものように、隠密スキルをオンにして、ときおり現れる魔物たちをやりすごしながら、通路を進んでいたら、突然、アネットに肩をつかまれたんだ。それも、かなり強い力で。
「ど、どうしたの?」
「……あれ」
驚いたぼくが尋ねると、アネットは通路の前方を指さした。五十メートルほど先を、一匹の魔物がこちらにやってくる。でも、このこと自体は、かなり前からわかっていたことだ。探知スキルはオンにしていたし、アネットも探知は持っているから、彼女だって承知していたはずだ。何をそんなに驚いているんだろう?
ぼくが目線だけで、あれがどうかした? と問い直すと、彼女は真剣そのものの、いやそれどころか、ちょっと狂信的な熱意さえ混じったような目つきで、こう答えた。
「通り過ぎるのを待って、仕掛けるよ。いや、背後からだと逃げられるかもしれないから、挟み撃ちの方がいいか。私があいつの前に現れるから、ユージは後ろから攻撃して。万が一にも逃げられないよう、まずは足を狙っていこう」
「え? 攻撃するの?」
「うん。あれ、間違いなくゴールドボアだよね。絶対に倒そう」
ゴールドボアというのは、ソードボアより一回り大きい、地球のクマくらいの体格のイノシシだ。「ゴールド」と名前が付いているけど、体は金色と言うわけではなく、少し黄色がかっているかな、くらいの色だ。
アラネア以外の魔物に会うのは久しぶりというか、この迷宮では初めてかもしれない。あの体格なら、ビックアラネアくらい蹴散らすのは簡単だろうから、迷宮の中にいること自体は、そこまで不思議ではなかった。
「でも、どうして? 向こうはこっちに、気づいてないよね。魔物はできるだけスルーするんじゃなかったの」
「何言ってるの、ゴールドボアだよ。ユージはあいつの肉、食べたくないの?」
アネットは、信じられないといった顔つきで答えた。そういえば、とぼくは思い出した。ゴールドボアという魔物は、肉が非常においしいのだそうだ。金色でもないのに「ゴールド」と名前にあるのは、肉がおいしいために、実際の色よりワンランク上の呼び名が付けられている、という話を聞いたことがある。
たぶん、アネットは食べたことがあるんだろうな。そして、実際においしかったんだろう。気持ちはわからないでもない。ここに来てから、クモ肉しか食べていないから。しかも、味付けは無しで。いくらカニや鶏モモに似ている(気の持ちようによっては)とはいっても、もう飽き飽きしていることは間違いなかった。
まあ、気持ちがわからなかったとしても、血走った彼女の目を見たら、嫌とは言えなかっただろうけど。
ぼくがうなずくよりも早く、アネットは行動を起こしていた。見事な隠密ぶりを見せ、音も立てずにぼくの斜め後ろ、通路反対側の壁沿いに位置取る。ゴールドボアはゆっくりと、こちらに近づいてきた。そして、何かに気づいたような素振りもなくぼくの横を通り過ぎ、ぼくとアネットの間の位置に入った時、アネットの声が響いた。
「投擲!」
「グワオゥ!」
ゴールドボアの悲鳴が上がった。アネットが隠密を解いて、ナイフを投げつけたんだ。食への執念のなせるわざか、彼女のナイフは見事、ゴールドボアの右目に突き刺さっていた。ボアは突然の攻撃にひるんだ様子だったけど、次の瞬間には、怒りの雄叫びを上げて、アネット目がけて突進しようとする。そうなる前に、今度はぼくが、ボアの背後から切りかかった。
「強斬」
これまであまり使ったことのない、斬撃を強化するスキルを使って、ボアの右足首を狙った。これだけの巨体だと、胴体を切っても簡単には致命傷になりそうもない。皮下脂肪も厚そうだしね。そこで、足を攻撃して機動力をそぐことに決めてあったんだ。スキルの効果もあったのか、小剣は脂肪の薄いふくらはぎの下を深く切り裂き、刃の先が骨にまで達した。
足を大きく損傷したボアは、突進しようとした体勢が崩れて、前のめりに倒れ込んだ。その隙を狙って、アネットはボアに向かって走り込みながら石を投擲、そして大きくジャンプして、小剣の刃を下に向けた。
落下の勢いを使って剣を突き刺し、一気に勝負を決めようというんだろう。だけど、ゴールドボアは素早く反応し、体を小さく丸めた。アネットの投げた石は、浅い角度でボアの毛皮に当たって、受け流されたようにはじかれてしまう。そして再び身を伸ばしたボアは、カウンター気味にアネットの体を突き飛ばした。
「きゃっ!」
「アネット!」
派手に吹っ飛ばされたアネットだったけど、ぼくの呼びかけにすぐさま「大丈夫!」と返事をして、立ち上がった。よかった、ケガはしていないようだ。彼女の方を向いたままのボアに、ぼくはもう一度、強斬スキルを乗せた剣を放った。今度の狙いは、左の後ろ足だ。剣が当たると、まるで小さな爆発が起きたように、ふくらはぎの肉と皮がはじけ飛んだ。
ゴールドボアは怒りの形相でぼくをにらみつけたけれど、やがてふらふらと倒れて、腹ばいの格好になった。二本の後ろ足を傷つけられて、立っていることができなくなったんだろう。
こうして機動力を奪った後は、戦いらしい戦いにはならなかった。
ボアの背後に回って、剣を振るう。厚い脂肪に阻まれて、大きく傷つけることは難しかったけど、それでも小さな傷はできて、そこから血があふれ出た。ボアは必死に攻撃者の方に向き直ろうとしていたけど、ぼくたちの動きの方が早い。しかも、こちらは二人いるんだ。ちょっとずつ位置を変えて、交代で攻撃するだけでよかった。
こう言うのって、あんまり気持ちのいい戦いじゃないけどね。向こうも諦めようとしないから、しかたがない。かなりの時間、まったく一方的に、相手を切り刻む状態がつづいた。
そしてとうとう、ゴールドボアにも最後の時が来た。アネットの一撃を食らったボアは、頭を力なく地面に落としたかと思うと、ゆっくりと体が横倒しになって、筋肉の守りの薄い、腹部をさらけ出した。血だらけのお腹は、まだ大きく上下している。そろそろ、とどめをさしてあげた方が良さそうだ。
アネットも、同じことを思ったんだろう。
「ボクがいくよ」
と言うと、さっきと同じように高くジャンプして、小剣を魔物の腹に深く突き刺した。ちょうど、心臓のあるあたりを狙って。ゴールドボアはぴくり、と大きく一度痙攣をして、それきり動かなくなった。
「終わったね、アネット」
ぼくはアネットに声をかけた。
終わったといっても、まだ解体の手間が残っている。じきに他の魔物もくるだろうから早めにやらないといけないし、マジックバッグはまだ秘密にしているから、解体した肉もたくさんは持ち歩くことはできない。この戦い、ちょっとコスパが悪かったんじゃないかなあ。
ま、いいや。終わってしまったことは、考えてもしかたがない。作業を始めよう。ぼくは、アネットから取り上げたナイフの一本をバッグから取り出して、さて、どこから刃を入れようかと腕を組んだ。ところが、いつまで経っても、アネットは立ち上がろうとしない。ゴールドボアのお腹に、もたれかかったままだ。
「アネット、どうかした? 早く解体を始めようよ」
だけど今度は、返事は返ってこなかった。
アネットの頭ががくん、と落ちて、彼女の体が地面に崩れ落ちた。