閑話 1894(明治27)年大寒:後藤新平君を送る会
※タイトルを修正しました。(2019年6月29日)
1894(明治27)年2月1日、木曜日。
ドイツの首都・ベルリンの一角で、ささやかな宴が開かれていた。
中心にいるのはベルリン大学の衛生学教授のハインリヒ・ヘルマン・ロベルト・コッホである。他にも、ドイツ各地で医学研究に従事している彼の弟子たちが集まっている。そして、コッホの隣にいるのが、本日の主賓・日本の内務省衛生局から留学していた後藤新平だった。
「とうとう君も、日本に帰ってしまうのか」
赤ワインのグラスを傾けながら、コッホ教授が後藤に話しかけた。
「はい、ベルリン在住の頃は、先生にお世話になり、本当にありがとうございました」
後藤は見事なドイツ語で答えると、コッホ教授に頭を下げた。
「いや、私は何もしていない。私の所にいた時、君を主に指導していたのは北里君だし……」
コッホ教授が答えると、
「その北里君も、日本に帰ってからの活躍が目覚ましいですな」
コッホ教授の横に座っていたエミール・アドルフ・フォン・ベーリングが言った。彼は、北里柴三郎とともに、破傷風菌とジフテリア菌の血清療法について研究したことがあった。
「そう、あのペニシリン、という物質でしたか。アオカビから、細菌に対抗できる物質が分泌されているとは……偶然の産物を見逃さず、見事に医学上の重大な発見に結び付けた。本当に北里君は素晴らしいよ」
コッホ教授は深く頷いた。
「製剤化されれば、歴史が変わりますな」
「ああ、既に我が国で進んでいるようです。東京帝国大学の櫻井先生が主導のようです」
ベーリングの言葉に、後藤がこう返した。
「ほう……。日本の製薬技術も上がっていますからな。アセチルサリチル酸とアセトアミノフェンの発見も素晴らしかったが、アルテミシニン……だったか?新しいマラリアの特効薬……あれも臨床試験が終わって、その報告が先週の“ドイツ医事新報”に掲載されていた」
「マラリアも、日本での研究の進歩がすさまじい。マラリア原虫の発見、そしてその感染経路の証明。まさか緒方君が、自分の身体を張って、マラリア感染実験をするとは思わなかった」
グライフスヴァルト大学の衛生学教授である、フリードリヒ・アウグスト・ヨハネス・レフラーが顎髭を撫でた。マラリア原虫の発見者である緒方正規は、ドイツに留学していた頃、レフラー教授の下で細菌学を学んでいたのだ。
「感染症の分野だけではないな。高峰譲吉博士のアドレナリンの発見もある」
ギーセン大学の衛生学教授であるゲオルク・ガフキーも頷く。「三浦謹之助君の血圧計の発明も大きかったが、その血圧を上げる物質が、早速生体内で見つかるとは……」
「それから、忘れてはいけないのは、森林太郎君のビタミンAですか」
一昨年、母子免疫を発見して有名になったパウル・エールリヒが言った。
「おお、そうだそうだ。あれも驚いた。新しい栄養素……しかし、北里君が日本に帰る前にやった追試実験でも、森君の最初の実験と同じ結果が出たし、あの推論は間違いなかろうと思うよ。エリーゼ嬢にも聞かせてあげたいのだが、なかなか会う機会がなくてね」
コッホ教授の言葉に、一同が静まり返った。それに気づいたコッホ教授は、
「それから、エックス線と、その撮影装置か。私はまだ論文を読んでいないのだが、あれも医学の歴史を大きく変える出来事になるだろう」
と慌てて言って、隣にいる後藤を見やった。
「しかし……ここ数年、君の故郷からは、医学上の重要な発見が相次いでなされている。それは一体なぜなのだろう。不思議に思うことがあるよ」
「国立の医科学研究所が設立されたのが大きいでしょう」
後藤はドイツでの師に答えた。「北里先生が所長になっておりますが、あの研究所が、国内の医学研究を主導して進めていると聞いています。それから、恐れ多くも我が皇室が、医科学研究所を後援されているのも、大きな力になっておりましょう。そのおかげで、研究資金が集まりやすくなったと聞いております。総裁は有栖川宮威仁親王殿下ですし、それから、増宮内親王殿下も援助をされているとか」
増宮、という名前が出ると、一同から「おお……」というどよめきが漏れた。
「あの愛らしい少女ですな」
「私も新聞で肖像画を見た。まるで天使のようだ」
ベーリングとレフラー教授が頷いた。
「しかし、羨ましいことだ。後藤君は確か、その姫君から留学資金を援助してもらっているのだろう?」
ガフキー教授が尋ねると、
「はい、その通りです。全く、恐れ多いことで……」
そう言った後藤は、感激でほとんど泣きそうになっていた。
「まだ写真でしか拝見したことがないのですが、愛らしいですし、それに何より、ご聡明であらせられます。3年前でしょうか、日本で脚気に関する討論会が開かれた時、ベルツ先生の誹謗中傷に及んだ相手方の医師の非を、その場で見とがめられて叱ったとか……」
「何と……その話は初めて聞いたぞ。養育係に、あの伊藤閣下がなっている、という話は聞いたことがあったが……」
エールリヒが呆然とした。日本の初代内閣総理大臣として、伊藤の名は世界に知られている。
「オーストリアの友人から、フランツ殿下が訪日した時に撮ったという彼女の写真を見せてもらったが、ハワイのカイウラニ王女を彷彿とさせる美しさだった」
「ええ、ええ、そうなのですよ、コッホ先生!」
コッホ教授の言葉に、急に後藤が立ち上がった。
「内務省の職員の中にも、増宮殿下を慕う者が非常に多いのです。それで、内務省内に増宮殿下を称える会が結成されておりまして、我輩もその会員なのですが……」
「な……!」
「何だと……!」
コッホ教授たちが立ち上がった。
「君……!それを早く言いたまえ!」
「写真は?!写真を持っていないか?!」
色めき立つ一同に、
「日本国内で出回っている分しかありませんが……」
後藤はそう言って、カバンの中から小さな冊子を取り出し、中を開いて見せた。出席者が席を立ち、一斉に後藤の周りに群がった。
「おお……隣の少年は、日本の皇太子殿下か……」
「はい、皇太子殿下の立太子の礼の時の写真ですね」
「この集合写真は……初めて見る。伊藤閣下がいるのは分かるが……」
「同じく、立太子の礼の時に撮られた写真です。これは、内務省の友人が苦労して手に入れたものですが、留学の餞別代りに、と我輩に譲ってくれました」
一同の求めに応じ、冊子の中の写真に、後藤は次々に説明を加えていった。その言葉に出席者たちは感嘆の声をあげたり、頻りに頷いたりしている。
「しかし、最近の写真は無いようだね?」
一通り写真を見せられたコッホ教授は、満足げな表情を浮かべながらも、少し残念そうに後藤に尋ねた。
「そうなのですよ」
後藤も、やや気落ちしながら頷いた。「殿下の新しい写真を、郵便で内務省の仲間たちが送ってくれるのですが、ここ半年ほど、その郵便がパッタリ途絶えました。先ほどコッホ先生がおっしゃった、フランツ殿下訪日の時の写真、というのもまだ目にしていないのです。一体、どうなっていることやら」
「まあ、日本に戻れば、写真もドイツよりは多く出回っているに違いない。直接お目に掛かる機会もあるのではないかな?」
コッホ教授が慰めるように言うと、
「確かにそうです。留学費を出していただいた、そのお礼を申し上げなければいけません」
後藤は深く頷いた。「殿下がどのように我輩の名前を御存じになったのかわかりませんが、この恩は忘れられるものではありません。留学して身に着けたこの数々の事項を用いて、日本と増宮殿下のために、我輩、粉骨砕身して尽くす覚悟です!」
「その意気だ。頑張り給え、後藤君」
「ありがとうございます、コッホ先生」
こうして、留学を終えて日本に帰国する後藤を送る宴は、和やかなうちに終了したのであった。
一方。
「……これで全てか」
東京、霞が関にある内務省の庁舎。その中にある大臣室で、密談する3人の男がいた。
内務大臣・山縣有朋。
内務次官・原敬。
そして、東宮武官長兼中央情報院総裁・大山巌である。
「ですな」
山縣内務大臣の質問に、大山武官長は短く答えた。
「衛生局がほぼ全て……他部署にも結社員がいるとは……」
原内務次官がため息をつく。
「勤務の合間の休日に、わざわざこのようなことをするとは、な……」
そう言いながら山縣大臣が、机の上に何枚かの写真を置く。それには、長い黒髪を高い位置で一つに束ね、和服に女袴を召した増宮内親王が、和服に袴姿の皇太子に手を取られながら、店に入っていく光景が写されていた。ただ、連続してシャッターを切られたと思しき写真群の1枚には、視線をカメラに向けた大山武官長と皇太子が写り込んでおり、そこで連続写真は終わっていた。
「梨花さまに気取られぬとは、隠密行動の方も多少の心得があるということ。事が事でなければ、褒めてやりたいところでしたが」
大山武官長が、凄みのある微笑を見せる。
「確かに。しかし、この心得、使うとしても、国家に役立つ方面で使ってもらいたいものだ。衆議院の選挙の準備もしなければならない、この忙しい時に……」
山縣大臣が厳しい表情で言った。
「問題は、結社員に後藤新平がいることです」
増宮内親王を称える会に入っていた内務省職員のリストを、原次官は摘まみ上げた。「結社員どもの供述によると、後藤から新しい写真の入手を依頼されて、増宮殿下の隠し撮りに及んだと……。ここ半年ほどは、中央情報院の監視網に引っかかり、奴の手元には写真は届いておりませぬが、確か増宮殿下は、後藤新平を“梨花会”に入れたがっておられる」
「危険すぎる。何としてでも、増宮さまをお守りせねば……!」
拳を握りしめる山縣大臣に、
「こうしたらいかがでしょうか、山縣さん?」
大山武官長が口を開いた。
「伊藤さんに聞いたことがあります。後藤は“史実”では非常に有能な行政官でしたが、計画が余りにも壮大に過ぎることがあり、御するのが難しい場合があった、と……。万が一、後藤が暴走しようとしたり、梨花さまの写真を隠し撮りしようとしたりするようなことがあれば、この件を梨花さまにばらす、と脅して御するのはいかがでしょうか」
「よい案だと思います、大山閣下」
原内務次官が頭を下げた。
「大山どの、思い付いたのだが、この結社員たちも、隠密行動の心得があるのならば、中央情報院で鍛え直してもらった上で、“留学”と称して、間諜として各国に入り込ませて内情を探らせるのはどうだろうか?」
「よいですな、山縣さん。ただ、話し合うのは、梨花さまがいない“梨花会”の席での方がよろしいでしょう」
「では……招集を伊藤閣下に相談しますか」
「だな」
「そうしましょう」
原、山縣、大山の順に頷くと、3人の男たちは一様に厳しい表情になった。
ドイツ留学から帰国する後藤新平。その行く手に待ち受けるのは、喜びか絶望か――。
まだ彼は、知る由も無かった。




