プレゼントと極東情勢
1894(明治27)年1月26日金曜日、午後4時半。
「という訳で、遅くなってしまいました。申し訳ありませんでした」
皇居の表御座所。11歳の誕生日を迎えた報告のために参内した私の前には、もちろんお父様が立っている。その横にはフロックコートを着た爺がいる。ここまでは毎年の誕生日の報告と同じだ。いつもと違うのは、今年は私の横に、伊藤さんと大山さんが立っていることだ。これには理由があった。
華族女学校の授業が終わり、花御殿に戻って余所行きの着物に着替え、大山さんと一緒に皇居に出発しようとした時だった。
――増宮さま、オーストリアの公使がいらっしゃっていますよ!
突然、花松さんにこう声を掛けられたのだ。
――は?
オーストリア公使が一体私に何の用があるのか、全く見当がつかなかった。しかも、これから参内するのだけれど……。
――大山さん、どうしよう?
横に立った大山さんを見上げると、
――短時間だけご面会される、ということにしたらいかがでしょうか。今ならまだ、少し時間に余裕がありますゆえ……。
と答えられたので、「よし、じゃあそうする」と頷いたところまでは良かったのだ。
ところが、面会したオーストリア公使は、
――これを渡すようにと、フランツ殿下から言付かりました。
と、小さな箱を私に差し出したのである。
――あの、何ですか、これ?
通訳さんを介して尋ねると、
――王宮の庭園の温室に咲いております、四季咲きのバラの花で作りました砂糖漬けです。本日が、増宮殿下のお誕生日だとうかがいましたので……。
公使さんからとんでもない言葉が返ってきた。その後、一体彼にどう応対したのか、記憶が全くないけれど、大山さんにたしなめられたり止められたりはしなかったから、多分他人から見てもまともな返答ができたのだとは思う。
オーストリア公使が去った直後、私は応接室の椅子にへたり込んだ。
――梨花さま、大丈夫ですか?
――全然大丈夫じゃない……。
私は大山さんに力無く答えた。
――が、外国の人に贈り物をもらうなんて初めてだし、それに、バラの花の砂糖漬けって……一体なに?!
――食べ物ですよ。欧州では、花を砂糖漬けにして食べます。
――なにその、ロマンティックの結晶みたいな食べ物……こ、こんな、私の苦手なものを具現化しました、みたいな……。
――ほう、それなら俺も、バラの花の砂糖漬けを梨花さまに贈りましょうか。
――やめてください、死んでしまいます……。
大山さんの言葉に、私は頭をガクリと落とした。
――しかし、贈り物の相手がフランツ殿下ですか。これはどうするか、伊藤さんとも相談する必要がありましょう。
――お父様にも相談したいです……。
という訳で、枢密院にいる伊藤さんの所に使いを走らせ、このプレゼントの件について相談するため、皇居で落ち合う手はずを急遽整えた。その手間がかかってしまったので、予定より参内が遅くなってしまったのである。
「ははは……!」
私と大山さんから一部始終を聞き終わったお父様は、心底おかしそうに笑った。伊藤さんも爺も、必死に笑いを堪えている。
「もう、皆、笑い事じゃないですよ……私、本当にびっくりしちゃったんですから……」
「まあ、そなたが、娘らしい物事が苦手なのは承知しているがな」
お父様は笑いを収めた。
「しかし章子、前にも言ったことがあるが、そなたは“上医”になるのであろう。それならば、何があっても動じぬように、修業を積まねばならん。娘らしいこともまた然り、だ。昨年、フランツ殿下の答礼に行った時には、本当に見事な姫君ぶりだったのだから、そなたもやれば出来るのだぞ」
「うーん……お言葉ですがお父様、あの時は、何かおかしかったんです。心がふわふわしてしまって……」
あの日、兄が手を取ってくれた時から、フランツ殿下の挨拶が終わるまで、身体も心も宙を浮いているかのようで、自分が自分でないような感じがした。なぜあんな状態になってしまったのか、正直自分でも分からない。
「ですが、フランツ殿下に返礼をするか否かは、問題ですな」
伊藤さんが冷静に指摘した。
「あの、もう一度確認するけれど、バラの花の砂糖漬けって、食べ物、なんですよね?」
「食べ物ですよ。あんパンの上にも、桜の花の塩漬けが乗っているではないですか。あれと同じ感覚ではないでしょうか」
私の疑問に、爺が微笑みながら返す。
「うん、とりあえず納得した……」
私はため息をついた。「ってことは、食べ物をもらったから、食べ物で返すべきかな……でも、見た目が綺麗で、日持ちのする食べ物って何かあるかな?」
「ならば、金平糖はいかがですか?」
大山さんの言葉に、首を傾げそうになったけれど、
「……ああ、確か、ルイス・フロイスから織田信長に金平糖が献上されたって話があったわね。そうか、戦国時代にあって、私の時代にもあったお菓子だから、この時代にもないとおかしいわ」
私は微笑して頷いた。
「あれならば、見た目もよろしいですし、日持ちも致します」
「わかった、じゃあ、大山さんの言う通り、フランツ殿下の贈答品のお返しに、金平糖を贈りましょう。お父様、それでいいですか?」
お父様に確認すると、
「構わん。伊藤、手配してやれ」
「かしこまりました」
お父様に命じられた伊藤さんは、まずお父様に、ついで私に頭を下げた。
その後、私と伊藤さんと大山さんのために、表御座所に椅子が運びこまれた。
「そなたが、大山と伊藤と一緒にここに参るのは、滅多にないことゆえ、今の情勢について確認させてほしい。特に、朝鮮と清の情勢を、な」
と、お父様がリクエストしたのだ。と言っても、朝鮮や清に関する私の“史実”の知識は、伊藤さんよりはるかに薄いから、私はいなくてもいいと思ったのだけれど、いつのまにか、大山さんが私の右手をしっかり握っていたので、表御座所から逃げられなかった……じゃない、退出できなかった。
「やはり、朝鮮の東学の勢いは衰えぬか」
改めて人払いをした後、私たちが椅子に掛けると、お父様が大山さんに尋ねた。
「はい、東学を奉じた農民の反乱が、多発しております」
「これは“史実”の通りじゃな」
伊藤さんが頷いた。
(ええと……)
頭の中の知識を、慌てて引っ張り出す。確か、数年前から朝鮮では、農民の反乱が恒常的に起こっている……去年の1月、伊藤さんにそう教えられた。
「ただし、“史実”と違うのは、東学の唱えていることですな」
「?」
伊藤さんの言葉に、私は首を傾げた。
「ええと……確か、東学党が掲げていたことって、“西洋と日本の排除”でしたよね、確か……」
前世の参考書の知識を必死で思い出しながら、伊藤さんに尋ねると、
「その通りなのですが、この時の流れの中では、ちと異なりました」
伊藤さんが微笑しながら答えた。
「昨年の1月、ちょうどわしが大磯で療養していた頃、東学党は王宮まで押し寄せ、各国の公使館やキリスト教会に“斥洋”と書かれた紙を貼って回ったそうです」
「あ、あれ……?」
(日本は?日本は排斥しなくていいんですか、東学党のみなさん?)
キョトンとした私に、
「後々のことを考えれば、朝鮮は“史実”の山縣さんの言う“利益線”ではありません」
大山さんが噛んで含めるように話し始めた。
「朝鮮に介入し続ければ、それはやがて清との、ついでロシアとの戦争を招きます。戦争の結果、新しい国土を得たとしても、それを守るため、更に広大な利益線が生じます。それも、“史実”で軍が帷幄上奏を濫用する大義名分となったのでしょう。ですから既に、我が国は朝鮮から手を引いています。一昨年、日清修好条規を改正し、日清で秘密同盟を結んだ時も、“日本は今後朝鮮に一切関知しない”という文を明記しています」
「ええと……つまり、日本の朝鮮への介入がなくなっているから、日本は東学党を刺激しないで済んでいる、ということかな?」
「おお、良く出来ました、増宮さま。まあ、簡単な1手詰の問題ですな」
「伊藤さん、政治を将棋で例えるの、やめてください……。陸奥さんと会った時のことを思い出しちゃうから」
「初対面で、完膚なきまでにやられておりましたからな」
伊藤さんが、抗議する私にニヤリと笑った。
「あれ?でも、日本が東学党を刺激しないで済んでいるのに、東学を奉じた農民の反乱が起こっているっていうことは……朝鮮の政治が“史実”よりも腐敗しているということ?」
「朝鮮の政治……特に、官職の売買や汚職、それに伴う地方官の住民の搾取は、伊藤さんの“史実”の記憶と照らし合わせると、変わらずひどい、ということになりましょう。単に、反乱の矛先が変わっただけ、と見るべきです」
大山さんが静かな声で答えた。
すると、
「それから、朝鮮の宮廷の中にも目を向けるべきですな」
伊藤さんがこう指摘した。
(はにゃ?)
「伊藤」
お父様が苦笑しながら、伊藤さんを呼んだ。「きちんと教えてやれ。章子がまた、表情で“分からぬ”と言うておる」
「おや?昨年、大磯で説明したはずですが……」
伊藤さんがニコニコ笑っている。でも、その笑顔には、何となく凄みが漂っている。本能的に危険を察した私は、頭をフル回転させた。
「ええと、今の国王のお父さんと、国王の正妻さんが対立していましたよね……」
先代の朝鮮国王・哲宗は男子を残さずに亡くなってしまい、現在の朝鮮国王は、傍系から養子に入った人だ。その実父の興宣大院君と、国王の正妃の閔妃が争っている、とは伊藤さんから聞いた。現在の国王には、その2人の争いを収める力は無いそうだ。“史実”の日清戦争の後で、閔妃が殺され、大院君が擁立されたという事件があったのは私も前々から覚えてはいたけれど、この2人が長年争っていたということは、昨年1月の大磯での拷問……、じゃなかった、伊藤さんのお見舞いの時に初めて知った。
「それで、今は興宣大院君が失脚していて、閔妃が実権を握っていて、ええと……」
私が両腕を組んで考え込むと、
「もし梨花さまが興宣大院君と同じ立場に置かれたとして、今が戦国の世ならば、権力を取り戻すために、どのような手を打たれますか?」
横から大山さんが尋ねた。
「戦国の世なら……そうね、閔妃の部下の勢力を、お金か地位をエサに切り崩すか、あるいは、自分の味方になる別の勢力を引き入れるか……」
そこまで言って思い付いたことがあって、私は大山さんの方を振り向いた。
「まさか、興宣大院君と東学党が結びついている……?」
「その通りです。どうやら東学党の中に、興宣大院君の息が掛かった者がいるようです。その者たちの扇動もあってか、東学を奉じる農民たちは“斥洋”とともに、閔妃打倒を叫んでいます」
大山さんが微笑した。
(うわー……)
私はため息をついた。“史実”で、そんなことがあったのだろうか?それは分からないけれど、農民反乱を自分の権力奪回のために利用しようとするとは……。
「食えない御仁じゃ。“史実”では、自分が朝鮮国内の実権を握ったら、東学党を操って我が国の軍を追い出そうとしていた。どうやら、自分が権力を手に入れるためには、なりふり構わないらしい。それは閔妃もそうであったが」
伊藤さんもため息をつく。言葉の矛先が私に向いていない所を見ると、どうやら私は、伊藤さんのカミナリを回避することが出来たらしい。
「閔妃の今の後ろ盾は、清であったな?」
お父様が伊藤さんに尋ねる。
「さようでございます。東学党の勢いが増し、朝鮮の軍だけで収めることができない状況になれば、当然、閔妃は“史実”通り、清に助けを求めるでしょう。“史実”では我が国も朝鮮に出兵しましたが、今回は出兵致さぬゆえ、清の新しい国軍の初陣になりましょうな」
「清の……新しい国軍?」
私が首を傾げると、
「清の国軍は、昨年大きく編成替えをしまして、軍隊の訓練を西洋式に改変しました」
と、大山さんが言った。「西太后が亡くなって以降、清も徐々に生まれ変わりつつあります。数年後の憲法発布を目指して、今準備をしているところだとか」
「なるほど……清の近代化が進んでいる訳か……」
確か、“史実”の日清戦争の日本の勝因の一つに、清の近代化の立ち遅れがあったと伊藤さんに聞いた。その近代化が、この時の流れでは、何年か早く進んでいる。
「そうなると、ますます、清と戦争をしたらいけないわね。こっちの味方に引き込んだ方がいい。もし、日露で争いが起こったら、ロシアに対する牽制ぐらいはできるでしょう。まあ、清をそういう方向に誘導したのは、あなたたちよね?」
大山さんが満足そうな表情で頷いた。
「あと、日本の安全のためには、列強、特にロシアが、朝鮮に変なちょっかいを出さないようにしていかないといけないのかな?閔妃や興宣大院君が、東学党だけじゃなくて、列強と結びついたら厄介ね」
「ほう、増宮さま、なかなか見えていらっしゃる。一体、いかがなさったのですか?」
「あの、伊藤さん、多分あなたが期待している状態じゃありません。私にはまだまだ、政治や外交の感覚がないから、さっきの続きで、戦国時代で合戦や謀略を仕掛ける感覚ならどうなるかな、という風に考えているだけで……」
というか、その考え方で、状況がある程度解釈できて、伊藤さんがほぼ満足できるようなことが言えてしまうという状況がおかしい気がする。
と、
「梨花さま」
大山さんが私に声を掛けた。
「それでよいのですよ。いつぞや申し上げたこと……お忘れになられましたか?」
「……?!」
私は、目を瞠った。
そう言えば、大山さんと君臣の契りを結んだ直後の頃、確かに彼とそんな話をした。「少しは謀略の機微を知っておかれた方がよい。“上医”を目指すならなおさらだ」ということを言われた記憶があるけれど……。
「い、いやでも、大山さん、これって近代戦の話だよね?戦国時代の合戦や謀略の知識なんて、私の時代からは400年以上、今だって300年ぐらい前の代物で……」
(あれ?)
不意に、何かが繋がった感じを覚えた。陸奥さんと話していた時に襲われた感覚……それに似ているような気がする。
(戦国時代は、せいぜい都道府県のレベルの広さの国同士の争いの話。でも、近代戦になると、もっと広い国同士の争いの話。あれ?でも、なんでこんなに、似てる……?)
ここまで頭が回ったところで、お父様の机の上の時計が、5時の鐘を打って、私は現実に引き戻された。
「む……。いかんな。もう5時か。これから、黒田が来ることになっているのだ」
お父様が言った。
「議会のことでしょうか?」
伊藤さんの言葉に、
「うむ。衆議院を解散するか否か、その相談でな。大隈と山縣と、それから勝も参る」
お父様はこう返した。
初めての衆議院選挙が行われたのは、今から4年前の7月だ。そこからの議会運営自体は非常に順調だったのだけれど、今月の梨花会で、議員の任期満了に伴う形で7月に選挙をするべきか、それとも衆議院を解散して、選挙を前倒しで実施するかということが少し話題になった。その時には、「予算と商法の成立までは待つ」という結論になったのだけれど……。
「そうか、予算も商法も成立したから……」
「それに、朝鮮の情勢も影響はしてきましょうな」
私のつぶやきに、伊藤さんが付け加えた。「今後、東学党の乱は広がる。“朝鮮に出兵しろ”などという声が世論に出る前に、さっさと選挙を終わらせておいた方がよいかもしれぬ」
「伊藤、大山、このまま残って相談に加われ。……章子は、美子の所に行け。そろそろ、天狗さんが待ちくたびれてしまうだろう」
お父様が命じた。
「はい、是非そうさせてください」
私が立ち上がって、慣れない思考でいっぱいいっぱいになった頭を下げると、
「美子に会ったら、帰ってゆっくり休め。苦手なことをさせたゆえ、そなたの頭から、湯気が出ておるわ」
そう言って、お父様がクスクス笑った。
※バラの花の砂糖漬け……スミレの花の砂糖漬けと並んで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇后エリーザベト(エリザベート)が好きだったとのことですが、成書を確認できていません。申し訳ないです。章子さんが苦手そうなので敢えて突っ込んでみました。
※日清戦争前の実際の朝鮮事情については、超簡略化して書いています。あと、興宣大院君は「大院君」だけで呼ばれることも多いのですが、哲宗の父も「大院君」と追叙されていて、年代が近くてややこしいので、あえて「興宣大院君」と書いています。ご了承ください。




