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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第14章 1893(明治26)年秋分~1894(明治27)年清明
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閑話 1893(明治26)年冬至:ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフの場合

 ロシアの首都・サンクトペテルブルグでマルクス主義運動家として活動し始めたばかりのウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフが、酒場でその男に声を掛けられたのは、1893年の9月初めのことだった。

「あなたが、弁護士のウリヤノフさんですか」

 真面目そうな男の肌の色は、東洋人に特有のものだった。

「いかにもそうだが……」

 ウラジーミルは怪訝な表情をした。

「なぜそれを知っている」

「あなたの容貌を、仲間に教えてもらったのです」

「仲間?」

「ええ、ウリヤノフさん」

 男は頷いて、囁いた。

「私の仲間というのは、ヴェーラ・フィグネルのことです」

「!」

 ウラジーミルは目を瞠った。

 ヴェーラ・フィグネル。革命組織・“人民の意志”の最後の生き残りにして、先帝・アレクサンドル2世の暗殺犯の一人。シュリッセリブルク要塞に収監されたが、革命組織が要塞を爆破したことにより脱走した。多くの逃亡犯と協力者が逮捕され、ロシアの革命組織が壊滅状態に陥った中、ただ一人、彼女だけは官憲に捕らえられていない。死んだという噂もあったし、外国に渡ったという噂もある。しかし、彼女の名は、伝説的英雄として広まっていた。

「生きているのか、彼女が!」

 思わず大きな声で言ってしまい、

「失礼、興奮して。君、同志フィグネルに会ったのか?」

ウラジーミルは小声で言い直した。

「はい」

 東洋人の男は頷いた。「彼女は今、私の故郷にいます」

「待て、あなたの故郷というと……中国か?日本か?」

 ウラジーミルは、彼女が脱走に成功した直後に流れた噂を思い出していた。当時、ニコライ皇太子が世界歴訪の旅に出ており、その命を奪うため、彼女が東洋に渡ったという噂だ。皇太子が立ち寄った東洋の国は、中国、そして日本だ。

「あなたが私に同行して、彼女の元に行ってくれるなら、明かします」

 男はこう言った。

「同行すれば?」

「フィグネルさんが、あなたを探していらっしゃる。私はその呼びかけに答えて、わざわざこの国に来たのです」

「何?」

「アレクサンドル・イリイチ・ウリヤノフの弟を探している……と言えばお分かりですか」

「!」

 アレクサンドル・イリイチ・ウリヤノフ……それは、自分の兄の名前だ。“人民の意志”に入り、今の皇帝の暗殺計画を立てたが、官憲により摘発され、今から6年前に絞首刑に処された。だから、ウラジーミルは進んで革命に身を投じたのだ。兄がやろうとしたことを継いで、大好きだった兄を殺した皇帝を、兄と同じように惨たらしく殺すために。

「彼の話は、牢獄にいたころ、風の噂で聞いた、と。そして、彼の弟が革命を志して活動している、と脱獄後に聞いたということで」

 ウラジーミルは黙っていた。

「いかがですか?」

「悪くはない話だ」

 ウラジーミルは頷いた。今、サンクトペテルブルグのみならず、ロシア全体の革命活動が、完全に停滞してしまっていた。シュリッセリブルク要塞爆破に手を貸した革命家たち――ロシアの革命家のほぼ全てだったのだが――が、全員官憲に逮捕されてしまったからだ。

(ほとぼりが冷めるまで、一度外国に避難するのも良い手かもしれない)

「よろしい、貴君に同行しよう」

「そう言っていただけると思っていました。では早速に、手配をします」

 東洋人の男はニヤリと笑った。


 東洋人の男と一緒に船を乗り継ぎ、東洋の国――日本に着いたのは、12月の下旬のことだった。

「しかし、彼女が日本にいるとして、……彼女は皇太子を暗殺できなかったわけか」

「まあ、そうなります」

 日本の首都・東京に着き、ウエノという駅から鉄道に乗り込んで、座席に腰を落ち着けると、ウラジーミルは、この道中、一番聞きたかったことを東洋人の男にぶつけてみた。

「外国の皇族の暗殺未遂事件が起これば、この国でも大騒動になるだろう。しかし、どうもそんなことは無かった様子に見える」

「そう見えますか」

 東洋人の男は言った。そう言えば、この男も名前をウラジーミルに名前を明かしていない。一度、名を尋ねたことがあったが、“あなたの国の方は発音できない名前です”と答えられてしまった。

――ですから、私のことはイワンとでも呼んでください。

 そう言うので、彼のことはイワンと呼んでいる。東洋人の名前ではないと思うのだが、まあ、いいだろう。

 東京から北に延びる列車は、次第にのどかな田園風景の中へと入っていく。

「しかし、恐ろしい国だ、この日本というのは」

 目的地に列車が着くころ、ウラジーミルは呟いた。

「恐ろしい?」

「そうだよ、イワン。このサムライの国は外国に対して、ほとんど門戸を閉ざしていて、開国したのが今から40年前。アジアの他の地域のように、植民地にされてもよさそうなものなのに、独立を保っていて、我が国にまだない憲法まで作り、議会も順調に運営されている。治外法権も、来年の末には撤廃されるという。鉄道まで作ってしまっている……一体、何がこの国にこんなに力を与えているのだ?」

「私なりに答えはありますが……それは、フィグネルさんの口からお聞きになる方がよいかもしれません」

 男が言った瞬間、列車が減速し始めた。

「さあ、この駅です。降りましょう」

 “フキアゲ”という駅に降り立つと、ウラジーミルたちのために人力車が差し回されており、彼らはそれに乗り込んで“オシ”と呼ばれる街に向かった。そこにヴェーラ・フィグネルがいるそうだ。

 人力車は街の中心部にある広い日本家屋の前で止まった。門柱に何か、木の看板が掛かっている。人力車の車輪の音を聞きつけてか、玄関から書生が現れて、ウラジーミルたちを中に案内した。

「ああ、来たわね」

 ウラジーミルたちが招じ入れられた部屋の中に、一人の女性がいた。黒に近い茶色の髪を後ろでまとめ、彫りの深い顔立ち……間違いない、彼女だ。伝説の革命家、ヴェーラ・フィグネルだ。

「ど、同志……」

「あなたがウラジーミルね。ヴェーラ・フィグネルというわ。よろしく」

 無表情に、素っ気なく言う彼女の側には、日本人の男性が立っていた。ウラジーミルについてきた“イワン”に声を掛け、労をねぎらっているようだ。

「こちらの男性は?」

「大山サンというわ。私の日本での後援者みたいなものかしら」

「え……」

 ウラジーミルの顔が曇った。伝説の革命家は、この日本人の男の愛人になってしまったのだろうか?

 彼の表情から何を考えたのか察したのだろう、ヴェーラ・フィグネルは冷たい目線でウラジーミルを見た。

「言っておくけれど、愛人とか、そういうモノではないわ。彼には相思相愛の奥様がいるし、心からの忠誠を捧げて、限りない慈愛を注いでいる主君もいる」

「主君……?」

「綺麗な少女よ。サムライだけどね」

「サ、サムライ?!」

 散髪・脱刀するように命令が下り、サムライはこの国からいなくなっているとイワンから聞いていたウラジーミルは目を丸くした。そんなウラジーミルを見て、イワンが一言二言、大山サンと呼ばれた人間に話しかけると、彼は苦笑した。

「そう、医者を目指しているサムライ。そのサムライがぶつかってきたから、私はニコライを暗殺できなかったの」

「は……?」

 男であるサムライが少女で、しかもそのサムライが医者を目指していて、更に伝説の革命家であるヴェーラ・フィグネルの、ニコライ皇太子暗殺を阻んだ……頭の中で、それらの情報が適切に結びつかず、ウラジーミルは混乱した。

「でも、……彼女は、私を助けてくれた。医者としての私をね」

「ど、同志……」

 ウラジーミルは混乱しながらも、伝説の革命家に呼びかけた。「一緒に、ロシアでの革命組織を立て直しましょう。人民を扇動し、皇帝をその座からあらゆる手段を使って引きずり落とし、パリのコミューンのような、労働者のための政府を作るのです」

「あらゆる手段ね……」

 フィグネルは表情を動かさずに呟いた。「あなた、皇帝を殺したいんでしょうけれど、誰を殺しても、何も変わらないわ」

「?!」

 考えていたことをフィグネルに見透かされて、ウラジーミルは顔を赤くした。

「先帝を殺しても、世の中は何も変わらなかった。私がニコライを殺しても、何も変わらなかったでしょう。ただ、変わるのは、医者としての私が死ぬことだけ……ウラジーミル、あなた、私に私を殺せと言うの?」

「それは……」

「それに、パリのコミューンのような政府を作っても、最終的にどうなるか、あなた、まるで考えていないわ」

 フィグネルは冷たい声で続けた。

「プロレタリア独裁……あなた、それがやりたいんでしょうけれど、歴史を紐解いてごらんなさい。フランス革命でジャコバン派による独裁政治が行われて、反対派の議員や市民は次々に殺された。少数者が権力を握れば、それを脅かすものを排除したいという欲望が生じる。そして、その少数者の中で、更に権力を握りたいがための争いが生じる……。何人、いいえ、何百人、何千人、何万人という死者が生じる。行きつくところは、個人による専制政治よ。今と変わりがない上に、罪がない人々をたくさん殺めることになる。今のまま革命を進めれば、私たちは今の皇帝(ツァーリ)を引きずり降ろして、多大な人命の犠牲の上に、新しい皇帝(ツァーリ)を生み出すだけ……それでも、革命がしたい?」

「う……!」

 23歳の青年に、伝説の革命家の言葉は重く迫った。

「では……どうすればいいのです、同志?」

「馴れ馴れしいわね、坊や。フィグネルさんと呼びなさい」

「は、はい、フィグネルさん」

 慌てて自分の言葉を訂正したウラジーミルに、やはりフィグネルは無表情に尋ねた。

「あなた、40年前まで、外国にほとんど門戸を閉ざしていた日本という国が、なぜここまで急激な発展を遂げられたかわかる?」

「い、いいえ」

 首を横に振るウラジーミルに、

「教育よ」

フィグネルはズバリと言った。

「教育……?」

「そう、この国での尋常小学校……初等教育を行う学校だけれど、そこへの就学率は6割近くになっているわ」

「6割……ブルジョワ階級にいるものの中の6割、ということですか?」

「いいえ、あらゆる階級ひっくるめての就学率よ」

「な、なんですって……」

 ウラジーミルは驚愕した。ロシアの就学率は、一体どのくらいなのだろう。県によっては、識字率が2割にも満たないところもあったように思うが……。

「残念ながら、女子の就学率はまだまだ低いけれどね。でも、文部大臣が、“尋常小学校の授業料を無償にすることを目指す”と言っているから、そのうち、ほとんどすべての子供が初等教育を受けるようになるんじゃないかしら。今、この町で診察をしているけれど、あらゆる階級のたくさんの人が、モノをよく知っているから本当に驚くわ。教育の程度としては、日本の農民の方が、ロシアの農民より上よ」

「……」

「その背景があるから、日本人は新しい技術をよく理解し、使いこなしている。しかも更に新しい技術を自分たちで生み出している。そう思うわ。ロシアでもそれをしなければならない」

「ロシアでも?」

「当たり前じゃない、坊や。ロシアの国民に、なるべく多くの国民に初等教育を受けてもらうこと。それがロシアの国民の生活の改善につながるわ。効果が出るには何十年、何百年とかかるかもしれないけれど、それがロシアの国民が最終的に幸福になる道……そうすれば、ロシアの国民は、もっと賢いやり方で、誰も傷付けないようにして、専制政治を終わらせることができるでしょう。果てしないけれど、それが私の理想よ」

 フィグネルは、一度言葉を切った。

「協力してくれる、坊や?道は険しいけれど」

「……はい、フィグネルさん」

 正面にいるフィグネルと、横にいるイワンとから受ける重圧、そして、大山と呼ばれた男から発せられる重圧以上の何かに、ウラジーミルは首を縦に振らざるを得なかった。しかし、それはある意味、ウラジーミルの心に、新たな視点と平穏をもたらしていた。兄を殺した皇帝に復讐するため、すべてを壊さなければならないと思い込んでいた彼の前に、そうではない、もっと穏やかで、もっとたくさんの人を幸せにできる道があったのだから。

「そう……ありがとう、坊や。どうやら、私は殺人者を出さないで済んだみたい。あの時のサムライのように」

 フィグネルはそっと息を吐いた。

「だけど、あの子って本当に変ね。綺麗な子なのにサムライで、サムライなのに医者を目指してて、医者を目指しているのに皇族で、皇族なのに皇族らしくなくて……」

 ロシア語でなされた呟きは、“サムライ”という言葉以外、すべてを聞き取って意味を理解できた人間は、ウラジーミルしかいなかった。

 しかし、

「でも、……そういう子、嫌いじゃないわ」

フィグネルの口元が、微笑みの形を作ったことで、日本人たちも、彼女が“サムライ”を憎からず思っていることを理解したのである。


「ご苦労でした」

 忍町にコホート研究のため新設された診療所の玄関前で、大山巌東宮武官長は“イワン”と呼ばれていた男に声を掛けた。見送る“イワン”は、黙って大山武官長に一礼した。

「大きな花火の後始末も、無事にできたわけですな」

「は……まさか、活動資金を渡した革命組織が、全精力を結集して、要塞爆破を企てるとは思いもよらず……あの時は、閣下自らのお手を煩わせてしまい、誠に申し訳ありませんでした」

 武官長の言葉に、“イワン”は再び深く頭を下げる。

「よいのですよ。結果的に、脱走犯は確保できた。君がロシアの官憲に革命組織の情報を渡し、君自身も暗躍した結果、ロシアの革命組織もほぼ壊滅状態に追いやれた。ウリヤノフも転向させられた。これでよいのです」

 大山武官長の言葉は静かで、それがかえって、“イワン”に重圧を与えている。12月だというのに、“イワン”の額には汗がにじんでいた。

「寛大なお言葉……痛み入ります。ありがとうございます、閣下」

「礼は言わんでよいのですよ。礼なら、ヴェーラ女史を見つけ出した増宮さまに言うのですな」

 そう言って、大山東宮武官長兼中央情報院総裁は微笑した。

「引き続き、今いる者たちと共同して、女史とウリヤノフの監視を頼みますぞ、明石君。また追って連絡します」

 大山総裁の立ち去っていく後ろ姿に、イワン、こと明石元二郎は深々と頭を下げ続けていた。




△△△




 こうして、日本の土を踏んだウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフは、父親と同じく、教育家としての道を歩み始めた。

 しかし、彼が刑死した兄に関して、どのような思いを抱いていたかについては、一切歴史に残らず、そしてまた、彼が歩む可能性があった人生も、一部の関係者の記憶の中に葬られたのである。 

※実際にウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフさんは、お兄さんについて余り書き残していないようです。なので、このような解釈をしてみました。

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― 新着の感想 ―
[一言] まさかの加速主義ロシアになるか?
[一言] 今回も「if」の芽を摘んだインテリジェンス活動でした。
[一言] 大元がイッター! どうなっちゃうのソ連 ちょび髭伍長止められる人居なくなっちゃった!
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