天眼(てんげん)と剃刀(1)
※地の文を一部修正しました。(2019年6月14日)
1893(明治26)年11月18日土曜日、午後1時。
「ええと、はじめまして、でいいんですよね?」
華族女学校から大急ぎで帰宅した私の居間に、何人かの男性が集まっていた。
私の右隣りに伊藤さん。左に座っているのが大山さん。
そして、私の前には、この日初対面の3人の男性が並んで座っていた。
外務次官の陸奥宗光さん。“史実”では、彼が治外法権の撤廃を成し遂げている。昨年もハワイに行っていたけれど、今月末から再びハワイに出発するそうだ。目的はもちろん、ハワイ王国内部でのクーデターの動きを封じるためである。
商法作成が終わった法典調査会から外れ、今月初めから文部次官となった西園寺公望さん。何度も総理大臣を務め、“最後の元老”と呼ばれた彼は、“史実”で軍部の暴走に抗い続けた。
そして、つい先日、ヨーロッパ留学から帰国して、日本銀行に勤め始めた高橋是清さん。“史実”では総理大臣にもなっているけれど、大蔵大臣を何度も務めたことの方が有名だ。
(すげぇメンツだ……)
“史実”で彼らがなした仕事の大きさを思い、思わずため息をつきそうになった私に、
「いやあ……実物の方がよい」
3人の真ん中に座った西園寺さんが言った。短く刈った髪に、長い鼻筋が印象的だ。
「は?」
私が首を傾げると、
「ベルリンにいた時分、伊藤閣下が“増宮さまはいいぞ!”と、写真を付けて手紙をくれるものですから、ご容貌は見知っていたのですが……いや、写真より実物の方が、本当にお美しい。ご成長されれば、増宮さまに匹敵する美貌の者は、玄人の女でもなかなかいなくなるでしょうな」
西園寺さんは満足げに頷いた。
「伊藤さん……?外交のこととか政治のこととか、手紙に書くことは他にもあるでしょう。なんで私の写真を送り付けるなんて真似をするんですか?」
右隣の伊藤さんを軽く睨み付けると、
「増宮さまの素晴らしさを広めて、何が悪いのですか!」
伊藤さんは澄ました顔で開き直った。
(だめだ、この輔導主任……)
私は右の掌で額を押さえ、ため息をついた。
「確かに。僕の妻には劣るが」
西園寺さんの左隣、伊藤さんの右側に座った陸奥さんが、ふさふさした顎髭を撫でながら呟き、こほん、と咳をした。思わず鶴を連想してしまったほど、その身体は細い。一方、西園寺さんの右隣りに座った高橋さんは、熊やパンダを思わせるような、福々しい、ふくよかな身体つきだ。立派な口ひげを微かに揺らしながら、ニコニコしているのを見ていると、前世で言う“ゆるキャラ”に通じるものがあるような気がしてしまう。
(高橋さんを長さ5mくらいの巨大なモフモフのぬいぐるみにして、おなかに飛びつきたいかも……)
思わずそんなことを考えてしまっていると、
「あ、あの、増宮殿下、……私の顔に、何かついておりますでしょうか?」
高橋さんが私の方を見た。つぶらな瞳がキュートだ。
「ああ、ごめんなさい、高橋さん、つい変なことを考えてしまって……許してください」
「変なこと……?」
高橋さんの右隣に座った松方さんが怪訝な顔をした。
すると、
「ご寵愛される、とか……?」
西園寺さんが、ちょっと首を傾げながら尋ねた。「伊藤閣下、いくら閣下の薫陶を受けておられるとは言え、男女のことまで、もう増宮さまに教え込んでおられるとは……」
「ちょ、ちょっと待って西園寺さん!あなた、盛大に勘違いしてるから待って!」
顔を赤くして、思わず立ち上がった私に、
「ああ、冗談です」
西園寺さんは真顔で言った。
「……心臓に悪い冗談は、やめてください」
大きなため息とともにこう吐き出すと、私は椅子に座り直した。
「しかし、この言葉に反応される、ということは、やはりご存じなのですか、男女のことは」
「あ、いや、その、それは……」
慌てて両手を振る私の横で、
「それは当然だろうな」
と、伊藤さんが深く頷きながら言った。
「な、なんやて……」
西園寺さんのセリフが、突然なまった。「噂通りや。天眼というものは、やはりそこまで見えてしまうんか……」
「あの、西園寺さん、それ、皇太后陛下にも言われたんだけど、一体何ですか?」
先月、山縣さんと上野に遠乗りに行った直後、皇太后陛下に突然呼ばれて、お住まいの青山御所に参上したのだ。
――昔世話になった者が病になったゆえ、牛乳を贈ろうと思うが、匂いが苦手らしゅうてのう……美子さんに相談したら、そなたに聞けと言うから呼んだのじゃ。何ぞ、いい知恵はないか?
挨拶するなり皇太后陛下に聞かれて、「牛乳の匂いを消したいなら、香りの強いコーヒーと合わせるのはどうでしょうか」と答えたら、
――ほう、天眼を持つと噂の章子でも、やはり橋本と同じ答えか。なら、それが一番いいのであろう。礼を言う。
と皇太后陛下に言われたのだ。それで“天眼”という言葉を知った。ちなみに、天長節の時に、皇居で皇太后陛下にたまたま会ったので、牛乳の件がどうなったか聞いたら、“そなたと橋本の言う通りにしたら、宰相もちゃんと牛乳を飲んだし、わらわの手紙も読んで喜んでくれたそうな”と微笑みながら答えられた。
(“宰相”って……黒田さんは元気だし、皇太后陛下に仕えていた女官さんかな?)
思い返していると、
「仏教の言葉で、“全てを見通す眼”という意味になりましょうか」
大山さんがこう教えてくれた。「何もご存知ない方には、そう思われるのも道理かもしれません、梨花さま」
「は?」
陸奥さんが眉をしかめた。
「あの……増宮さまの御名は、章子のはずですが……」
「雅号でしょうか?」
西園寺さんも高橋さんも、不思議そうな顔で言った。
「あー……大山さん、またそうやってバラす?」
私は頭を抱えた。「三浦先生の時みたいに、皆が一斉に失神したらどうするのよ」
「何、構いませぬ。三浦先生は政治に関わってはおりませんから仕方がないですが、この国を背負っていこうという気概のある者、これしきで倒れられては困るのですよ」
大山さんは、三浦先生に私の秘密を告げた時のように、やはり微笑しながら言った。
「まあ、確かに一理あるが、大山さん、わしのことも言わねばならぬゆえ、今までに加わった者より、ちと酷な試練になりませぬかな?」
伊藤さんがニヤリと笑う。
「そうですよね。まあ信じられませんもん、普通は。私が、今から125年後の未来で、女性の医者として働いてたっていう前世の記憶があって、伊藤さんにも、“史実”の世界で生きたという記憶がある、なんて」
すると、
「は……?」
「増宮さまに、前世がある……?」
「伊藤閣下にも、同様の記憶があると?!」
陸奥さんも西園寺さんも高橋さんも、一斉に目を丸くした。
転生してから、何度目になるのだろうか。私は自分の前世のことと、“史実”のことを3人にざっと説明した。その話は比較的落ち着いて聞いていた彼らだけど、伊藤さんが昨年の交通事故の後、“史実”の記憶を得た、ということに話が及ぶと、
「信じられん」
「なんてことや……聞いたことないわ、そんなん……」
「欧米の小説でも、そんな筋の話は読んだことがないです……いや、私も、波瀾万丈な人生を送ったと思いましたが……」
頭を抱えたり、顔を青ざめさせたりしていて……とりあえず、めちゃくちゃ驚いている、というのは分かった。
「不思議なこともあるものですなあ」
私と伊藤さんが話し終えると、西園寺さんはため息を付きながら言った。
「しかし、それで納得の行ったこともあります。北里博士のことです」
「北里先生の?」
私が問い返すと、
「僕がドイツ公使をしていた頃、北里博士が、留学の延長を申し出て勅許を受けた時、彼の実験器具や書籍などの諸経費を、増宮さまが負担される、という連絡がありました」
西園寺さんはこう言って、言葉を続けた。「失礼ながら、あの時増宮さまはまだ7歳。ですから、伊藤閣下が増宮さまの名前を借りておやりになったのかと思って、手紙で問い合わせたら、“とんでもない、真に増宮さまの思し召しである”という返事が来まして……」
「あー……」
私はため息をついた。確かに、事情を全く知らない人には、“7歳の子供が、なぜ北里博士を援助するのか?”という話になってしまうだろう。
「ですが、あの後、北里博士は破傷風菌の血清療法を発見し、医科研の所長にもなり、更にペニシリンも発見した。彼の活躍ぶりを見るにつけ、増宮さまが噂通り天眼をお持ちで、北里先生の未来の活躍を見通し、援助をされたのではないか、と無理やり自分を納得させていたのです」
「西園寺さん、言っておきますけれど、私、そんな神通力みたいな能力は持ってません。ただ、一つの未来の形を知っていたから、それを参考にしただけです」
「なるほど……」
陸奥さんが相槌を打って、また咳をした。
「あ、あの……まさかとは思いますが、私がペルーから戻った後、ヨーロッパに留学を仰せつけられたのも……」
自分を指さしながら高橋さんが尋ねる。
「はい。私の“史実”の知識ゆえ、です。ただ、皆があなたを留学させていたのを知ったのは今年の夏で……」
「どうせなら、経済や財政の様々な知識を、身につけておいてもらった方がよいと思ってな」
松方さんが重々しく言う。「君に将来の日本の財政が掛かっている。まずは、ロシアとの戦争が起こることもにらんで、戦費調達に有利となるよう、今世紀中に金本位制を我が国で確立することを検討しなければならない。第一次世界大戦や世界恐慌などが“史実”通りに起こってしまえば、変動相場制に変えることも考慮しなければならぬだろうから、その研究もしてもらわなければならない。頼むぞ、高橋君」
「はっ」
高橋さんが、隣にいる松方さんに頭を下げる。……やばい、松方さんが言っている言葉は分かるけれど、意味がちょっとよく分からない。
「すると、僕がハワイに行けと命じられたのも……」
陸奥さんが静かに尋ねた。
「ええと……それはお父様の思し召しなのかな、伊藤さん?」
「さよう。ハワイが“史実”ではアメリカ領になっていると増宮さまからお聞きになられて、陛下が“ハワイを助けよ”と命じられたのだ。確か“史実”では今年の1月にクーデタが起きて、女王陛下が幽閉され、王室の廃止が宣言されたはず」
「あり得る話だ。僕が介入しなければ……」
そう言って、陸奥さんはまた咳をした。「ハワイ王国は危うかった。今は何とか保てているが……」
(ん?)
先ほどから、陸奥さんが咳き込む回数が、どうも多い気がする。
(咳の鑑別診断ってなると、この時代だから……)
と、
「さて、皆さま。話は尽きませぬが、そろそろ梨花さまは、ベルツ先生たちと会合をなさる時間ですので、我々は退出して、別室で話の続きを……」
大山さんが懐中時計をちらりと見ると、一同を見渡した。
「もうそんな時間でしたか」
「そろそろ行かねばな」
松方さんと伊藤さんが立ち上がり、
「では、増宮さま、今後ともよろしく……」
西園寺さんに合わせて、陸奥さんと高橋さんが私に向かって頭を下げた瞬間、
「あ、申し訳ないけれど、陸奥さん、残ってもらえます?」
私はわざと明るい声で言った。
「な、何や増宮さま、まさか、陸奥さんに一目ぼれ……」
西園寺さんが目をぱちくりさせ、言葉を訛らせる。
「違いますってば西園寺さん!診察したいだけです!上半身の服を脱いでもらって聴診を……」
「“服を脱げ”と……まだ10歳やのに、いきなり身体の関係を迫るとは……」
「だーかーらー!」
勢いよく立ち上がった私に、
「いや、冗談です」
西園寺さんはまた、真顔で言った。
「……いい加減にしてもらえます?」
私が眉をしかめると、
「すみません。……からかうと面白いのは、前世の記憶があるといえども、やはり陛下のお子ですな」
西園寺さんはクスクス笑った。
「なんでそんなことを知っているんですか?」
「昔、まだ陛下が祐宮と申し上げたころ、側に仕えていたことがありまして」
「はあ……」
恐らく、お父様が即位される前の話だろう。西園寺さんが公家の出身なのは知っていたけれど、まさかお父様とこんなつながりを持っていただなんて、知らなかった。
「まあ、とにかく、陸奥さんを残して、全員部屋から出てください」
私は立ったまま、上級医っぽい態度で一同に告げた。
「は……?」
怪訝な顔をする伊藤さんや高橋さんの背を押し、
「ほら、四の五の言わず、さっさと出てけ、てめえら!個人情報の侵害じゃ!」
陸奥さん以外の全員を廊下に追い出して障子をピシャリと閉めると、私は大きなため息をついた。
※天眼は「てんがん」とも「てんげん」とも読むようですが、「てんげん」と読ませることにしました。
※それから、牛乳の件ですが……何月の話なのか確認が取れず、とりあえずこの時点で入れました。本当は違うかもしれません。




