佐渡という人
1893(明治26)年10月21日土曜日、午後3時。
「今日はありがとうございます、田中館先生」
帝国大学……ではない、この9月に京都帝国大学が設置されたから、東京帝国大学に名前が変わったのだけれど、その中にある田中館先生の教授室の来客用の椅子に、私は座っていた。今日は医科分科会の会合はなく、ベルツ先生の案内で緒方先生の研究室を見学した後、こちらに立ち寄っている。
「いえ、こちらこそ……大変恐縮でございます。部屋の掃除もろくろくできておらず……」
そう言った田中館先生の側にある本棚には、大量の本と書類が、雑然と積み上げられていた。恐らく、普段はもっと散らかっているところ、私が来るので、大慌てで掃除をしたのだろう。少しだけ開けられた窓から風が吹き込み、紙が宙に舞いそうになったのを、先生は慌てて手近の本で押さえた。
「構いません。前世で大学に通っていた頃の教授の部屋も、こんな感じのことが多かったですから」
私は微笑を田中館先生に向けた。
「それに、田中館先生。今日は私のことを内親王と思わずに、前世のままの平民の娘だと思って、ありのままの話をして欲しいんです」
私についてきた侍従さんたちには、大学の中の別室で待ってもらっている。田中館先生が委縮するといけないと思ったからだけど、更に、先生が、今生の私の身分に恐縮して話せなくなってしまってはいけないと思って、私はこう言った。
すると、
「いえ……」
田中館先生は首を横に振った。
「ありのまま話をして欲しい、というご要望には、精一杯お応えしようと思います。勝内府にも、そのように言われましたので。……しかし増宮さま、今から私がする話は、内親王殿下として、聞いていただきとうございます」
「え……?」
首を傾げた私に、
「それが……少しは佐渡さまの供養にもなりましょうから」
田中館先生は静かに言った。
「佐渡さま……?」
「やはり、御存じありませんか」
寂しげに微笑む田中館先生に、
「ごめんなさい。戊辰戦争については、本当に少ししか知らなくて……」
私は頭を下げた。大体、戊辰戦争を扱った日本史の教科書の範囲も、2ページあったかどうかだったと思う。
「そうですか……。確か、副業で、歴史を教えられていたのですよね。どのように教えられていましたか?」
「あなたに怒られちゃうかもしれないけれど……徳川慶喜は、薩摩藩と長州藩の機先を制して、政権を朝廷に返還した。政権を返還された朝廷が、自分に泣きついて頼ってくると読んで、徳川氏の主導権を新しい政権で残そうとした。けれど、その読みに反して、薩摩藩と長州藩は政変を決行して、徳川慶喜を排除した新政府を作った。徳川慶喜は朝敵とされ、その後江戸城無血開城、会津、五稜郭の戦いが起こる……って感じで教えていたの。東北のことは、会津のことをちょっとだけ知っているくらいで。白虎隊とか」
私はため息をついた。「でも、明治維新は、参考書を読んでもよく分からなかったんです」
「よく分からない、ですか」
「はい……一応、今言った経過は、何とか論理的に納得できるんです。でも、あんな内戦をやったのに、なんで日本が、今の国の形を保っているのか、それがよく分からなかったんです。朝敵なら、賊軍なら、敵である天皇をずっと恨んで、蝦夷地かどこかに、皇室を認めない国を作ってもよさそうなのに……」
さわりの部分である明治維新が、そんな調子でよく分からないので、自然、近代史の知識も薄くならざるを得なかった。転生すると分かっていたら、もっと深く勉強しておくべきだったと思うけれど、一方的なモノの見方を詳しく学んだところで、意味は無かったかもしれない。
「なるほど」
田中館先生は頷いた。「もしかすると、私がこれからする話が、ご理解の助けになるかもしれません」
「なら、是非……」
私は頭を下げた。「形式ばるのは苦手ですが、佐渡さまという方の供養になるのであれば、内親王として話を聞きます」
「ありがとうございます」
田中館先生の顔に、微笑が浮かんだ。
「さて、我が盛岡藩が、慶喜公が政権を返上したのち、どのようにしていたかと言えば……藩論は割れておりました」
田中館先生は、静かな声で話し始めた。
「割れていた……。それは、徳川氏につくか、新政府につくか、ということでしょうか?」
「大まかに言えば、そういうことになります。天皇陛下に従うのには、もちろん異存はありません。ですが、薩摩・長州のやり方は余りにも強引なように我々には見えました。特に、会津藩に対する敵視は、異常とも見えました」
田中館先生はいったん言葉を切ると、自分で淹れたお茶を一口飲んだ。
「朝廷のご命令に応じて、我が藩は鳥羽・伏見の戦が終わった後、兵を京都御所の警備のために派遣しました。その一方、会津に対して新政府に寛大な処置を願うため、奥羽越列藩同盟にも我が藩は加わっておりました。ですが、鎮撫総督に、会津に寛大な処置を求める嘆願書を提出しても、その取り巻きについている参謀たちに嘆願書を握りつぶされました。あくまで、薩長は会津藩と戦を起こし、滅ぼすつもりでいたのです。会津に寛大な処置を求めるために、薩摩・長州と争うのか、それとも天皇陛下を擁する薩長方につくのか……藩論は定まっておりませんでした。そんな中、藩論を列藩同盟の堅持、帝を愚弄する薩長の非道を正す、という方向で藩論をまとめたのが、家老の楢山佐渡さまだったのです」
「その方が……先生がさっき言った、“佐渡さま”ですか?」
「さようでございます」
田中館先生は私に一礼した。「佐渡さまは、時の藩主・利剛さまの従弟で、代々家老職を務める家柄の出でございます。武芸にも優れ、家中の信望も厚い方でございました。そして、鳥羽・伏見の戦のあと、兵とともに京都に派遣されたのです」
「家老を派遣する、ということは……警備の責任以外にも、京都の情勢を探ったり、京都で政府の有力者と接触したり、っていうのも、任務に入っていたんですか?」
「流石、察しがよろしゅうございます」
先生は満足そうに頷いた。
「任務の一環として、新政府の有力者……例えば、西郷隆盛や木戸孝允、岩倉具視といった者と面会するうちに、佐渡さまは疑問に思われたそうです。本当に薩摩・長州に勤王の志があるのか、単に、権力を己の手の内にしたいだけではないのか、と……」
「え……?」
「増宮さまは、五箇条の御誓文は御存じでしょうか?」
「はい」
前世でも学んだし、転生してからはきちんと覚えた。
「佐渡さまが京都に着いた時、既に五箇条の御誓文は出されていました。ですが、政府の有力者たちは、それに従っていないように佐渡さまには見えたのです。例えば、上下心を一にして、と謳っているのに、会津藩や徳川家に関しては“朝敵”の烙印を押し、政権に参加することを認めようとしない。彼らも同じ日本の民であるのに、です」
「確かにそうです……」
「そして、新政府の人間は、奥羽の人間を下に見ていました。例えば、佐渡さまが西郷隆盛に会いに行ったとき、西郷隆盛は佐渡さまに、取るべき礼を取りませんでした。牛鍋を他の藩士と食べている最中に、佐渡さまを招き入れたと聞きます」
「それは……初対面の人にする礼儀じゃない……」
私は眉をしかめた。「百歩譲って、親愛の情を示したと捉えても、それを受け入れない人だっているでしょう」
「その通りです。佐渡さまも親愛の情を示されたとは捉えませんでした。そして、佐渡さまの耳には、新政府軍の行状のことも入っていたと思います」
「新政府軍の行状……一体、何をしたの?」
「奥羽鎮撫を目的として仙台に派遣された薩長の軍は、仙台藩士に人とも思えないような侮辱を投げかけ、街で酒に酔って乱暴を働き、婦女子に……」
田中館先生は、ハッとしたように目を見開いた。
「どうしたんですか?」
「あ、あの……これは、増宮さまに申し上げていいのか……」
「構わないですよ。私は前世で成人していますし、それに……、先生の戸惑いようで、大体想像がつきました」
私はため息をついた。「強姦したのね、女の人を」
そう言うと、田中館先生が恐縮したように頭を下げた。
「本当に許せないわ……何が官軍なのよ。単なる悪党じゃない。もちろん、それが官軍の全てではないんだろうけれど……御誓文の“旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし”はどうしたのよ?人の道に反することをやるのが官軍だと……?!」
「おっしゃる通りです」
田中館先生は頭を下げたまま同意した。「“奥州はみな、敵である”……薩長の軍の参謀は、そんな密書を書いていました。彼らの、少なくとも最初に仙台にやって来た薩長の軍は、会津藩の謝罪を受け入れる気など最初から全くなく、攻め滅ぼすつもりであった。そして、東北諸藩をも、心を一にする同志ではなく、単に支配する対象としか見ていなかった……!少なくとも、私はそう思います」
「いきなり結論に飛びつくのは危険でしょうけれど、そうとしか思えないわ……」
侮辱を吐いたり乱暴狼藉をしたりするなど、対等な立場の人間に対して、いや、たとえ対等な立場でない人間に対しても、することではない。
「京都での見聞や、新政府軍の行状のことなど……それらを踏まえて、盛岡に帰られた佐渡さまは、薩長を討つべし、に藩論を統一されました。ただ……」
「ただ……?」
「その頃には、列藩同盟の結束が綻びておりました。当初、“白河の関から北に薩長の軍を入れない”というのが列藩同盟の戦略だったのですが……久保田藩や弘前藩が同盟から離反したため、白河の関の北側から、薩長の軍が入り込む状況になりました」
「ええと、ごめんなさい先生、久保田藩って言うと……」
「佐竹氏が治めておりました」
「佐竹……秋田ですか!」
もともとは常陸を支配する戦国大名だったけれど、江戸時代初期に秋田に転封になったはずだ。
「秋田も弘前も……盛岡と比較的近いじゃないですか」
「はい、そのため……我が藩は、同盟から離反した久保田藩や弘前藩に、出兵しなければなりませんでした。佐渡さまも久保田藩を討伐するために出兵し、その結果、久保田藩の領内のほぼ全てが、戦禍に巻き込まれました。その間に、列藩同盟中の有力者であった米沢藩が薩長に降伏し、会津も薩長に攻め込まれ……結局、佐渡さまの元に、利剛公からの停戦命令が届き、我が藩は薩長に降伏しました。そして、佐渡さまは“反逆の首謀者”として、東京に身柄を送られました」
「反逆の首謀者……」
だけど、それはあくまで、薩摩・長州からの見方だ。盛岡藩から見れば、五箇条の御誓文に従わぬ振舞いを繰り返す、薩摩・長州こそが天皇に対する反逆者なのだ。
「それで……楢山さんはやはり、東京で死刑になったのでしょうか」
「いえ、盛岡で。“大罪人であるので、家中一同の今後の戒めのために、盛岡で処刑させてほしい”と、藩が政府に嘆願しました」
「非情なものですね……」
私はため息をついた。時勢が変わってしまえば、仲間であった者にも、そんな冷たい言葉を投げるものなのか。
すると、
「恐れながら」
田中館先生は首を横に振った。「あくまで方便でございまして、真意は違います。その頃、藩を取り仕切っていた家老の東さまが、“死罪が免れないのであれば、東京で死なせるのではなく、せめて故郷を見せてから死なせてやりたい”と奔走された結果だそうです。東さまも、藩政時代は、佐渡さまと対立されておりましたが……」
「そうでしたか……」
目頭が熱くなるのを感じた。
薩摩・長州も、東北の諸藩も、行動の根元にあるのは、天皇が大事ということだ。それなのに、彼らは争うしかなかった。
(多分……長州藩が、8月18日の政変や、禁門の変や長州征伐で、会津藩に痛めつけられたという、その恨みをずっと抱えていたんだ、ずっと……)
その恨みが、会津藩に対する異常な敵視につながった。そして、東北の諸藩を巻き込んで、会津や秋田での戦いなど、更なる悲劇を生みだした。
――戊辰戦争で、東北諸藩が理不尽に逆賊扱いされた恨み、わたしが総理大臣になることで晴らそう。
原さんと初めて会った時、彼はこう言っていた。
確かに、奥羽越列藩同盟に加わった藩の見方からすれば、東北諸藩は理不尽に逆賊扱いされた、としか言いようがない。
恨みを晴らせば、新しい恨みが生まれ、その新しい恨みを晴らせば、更にまた別の恨みが生まれてしまう……。
「増宮さま……増宮さまの周りには、長州・薩摩の出身の方が多数おられる故、辛い話でしたでしょうか?」
田中館先生が、私の顔を心配そうにのぞき込んだ。
「いえ……それは覚悟の上です。ただ、悲しくて……」
「悲しい?」
「恐らく、新政府が……というよりは、長州が、だと思うけれど、会津討伐にこだわったのは、その前に、8月18日の政変や禁門の変、長州征伐で会津藩に痛めつけられたという恨みがあったから。でも、なぜ新しい国を作るために、その恨みを捨てられなかったのだろう、って……」
「増宮さま……」
田中館先生が、私を見て戸惑っていた。
「甘い考えですよ。それは百も承知です。でも、そう思わざるを得ない。恨みを捨てられさえすれば、何百、何千の人が死なずに済んだかもしれない。私は医者だから、人が寿命を全うできずに死ぬのは耐えられないんです。人が理不尽な理由で傷つくのにも耐えられない」
両目から、涙が落ちているのを感じる。でも、涙も言葉も、溢れて止まらなかった。
「そう、モノや歴史の見方なんて、極論すれば人の数だけある。正義だってそう。でも、私が正義を持つことを許されるなら、理不尽な理由で人が傷ついたり死んだりするのを、可能な限り防ぐのが私の正義です。そのためには、身に付けないといけないことは、山とあるけれど……」
どんなことも、多角的な視点から見られるようにならないといけない。そうでなければ、公平な判断など難しいだろう。そして、なるべく人を傷つけることのないよう、だけれど最上の判断を下さなければならない。
「けど、やらなきゃいけないんです。そして、戊辰戦争や西南の役みたいな悲劇は、もう二度と起こしたくないんです。皆がお父様を大事に思っているのに、互いの恨みのために武器を取って争う、などということは……」
「お優しい……」
田中館先生が頭を下げた。
「もし、増宮さまが親王殿下であらせられましたら、将来、陛下や皇太子殿下を支えられる、良き藩屏になられるでしょうに」
「男だろうと女だろうと関係ありません。政治をやれるだけの能力を身に着けて、兄上を助けて全力で守る。それが私の目標です」
「は……」
再び頭を下げた田中館先生に、
「先生、一つ聞きたいことがあるんです」
ふと思いついたことがあって、私は口を開いた。
「聞きたいこと、と仰せられますと……」
「原さんのことです」
「原君の、ですか……?」
不思議そうな田中館先生の声に、私は黙って頷いた。
「原さんは、盛岡藩の家老の家の出身だと、聞いたことがあります。戊辰戦争の頃は、原さんはまだ子供だったでしょうけれど、原さんの家は、東さんのように、楢山さんと対立していたのでしょうか?」
「いえ」
田中館先生は、静かに首を横に振った。「むしろ、親しく交流していたと聞いています。原君は戊辰の役の3、4年前に、父上を亡くされていますから、家中で信望の厚い佐渡さまを、父とも叔父とも思っていたかもしれません」
「!」
私は息を飲んだ。
「佐渡さまが処刑された日、原君は、処刑場になった寺の裏山に潜んでいたそうです」
田中館先生は、更にこう言った。
(それは……)
幼いながら、何とか楢山さんの身柄を奪還しようと、原さんは思いつめたのではないだろうか。そうでなければ、せめて楢山さんが処刑される前に、一目会いたいと……。
「戊辰戦争で、東北諸藩が理不尽に逆賊扱いされた恨み」……原さんはこう言っていた。でも、それだけではない。戊辰戦争は原さんにとって、父とも叔父とも思い、尊敬し慕っていた、勤王の志を持つ人を、“朝廷に逆らう逆賊である”という理不尽な理由で奪い取られた戦いだったのだ。
(そりゃ、薩長中心の藩閥政治に、強烈に反感を持つわけだよ……)
自然とため息が出る。
――陛下……。
原さんが、兄を初めて間近で見た時、そう呟いて涙を流したのを私は思いだした。
もし、東北諸藩の出身者が、本当に天皇に逆らう逆賊であるならば、兄を慕うことなどないはずだし、兄を見て感極まって、涙を流すこともないはずだ。
「先生」
私が呼ぶと、顔を少しうつむかせていた田中館先生が、弾かれたように顔を上げた。
「なんでしょうか」
「先生が、私に“内親王として、話を聞いてほしい”と言った意味が、ようやく分かりました」
そう言うと、私は姿勢を正した。
「薩長だけじゃない。東北諸藩も、勤王の志は薩長と一緒。ただ、会津に対する意見が違った。そして、単に戦の結果で、官軍・賊軍が決まってしまった。“勝てば官軍、負ければ賊軍”って、私の時代でも言うことがあったけれど……。東北の諸藩は、……楢山さんは、勤王の志を持っていたと、それを先生は、今生ではお父様の子である私に、知ってほしかったのでしょうか?」
「はい……」
田中館先生は私に頭を下げた。
自然と涙がこぼれた。
「悲し過ぎます……」
窓から吹き込んだ風が、私の束ねた髪を広げた。
「根っこは同じで、意見が違うだけなのに、恨みを捨てられずに……」
私は静かに、涙を流し続けた。
※今回の話は、「奥羽越列藩同盟」(星亮一著)、「楢山佐渡のすべて」(太田俊穂著)を参照し、「復古記」「仙台戊辰史」も確認したところがあります。話を作るために通説と解釈を変えたところもあるかと思います。ご了承いただければ幸いです。




