誕生日報告
年が改まり、明治22年、西暦で1889年になった。
1月26日、私は満6歳の誕生日を迎えた。
誕生日を無事迎えられたのを報告する、という名目で、その日の正午前、日本人形のような和服を着た私は、堀河さんとともに、皇居に参内した。
ちなみに、皇居のある場所は、赤坂だったのだが、つい先日、江戸城の跡地に建てられた宮殿に移転した。
新しい宮殿は、とても大きかった。和風の外観なのだけど、中には、大人数での舞踏会やパーティーが開催できそうな洋間が、いくつかあった。来月に迫った大日本帝国憲法の発布式も、ここで行われるとのことだった。
そう、憲法である。去年の7月下旬に私が“授業”をしてから、憲法の内容を揉んでいた枢密院では、大激論が幾度となく戦わされた。天皇や伊藤さん、大隈さんや黒田さんなど、“授業”を聞いた高官たちが説得する形で、最終的な文章がまとまったのだけど、天皇に渡された、憲法の全文を読み終わった瞬間、私は頭がくらくらした。
まず、史実の“大日本帝国憲法”は、天皇に“統帥権”があることになっていた。軍隊は天皇に直属で、総理大臣や内閣、議会に対して責任を負わない。これが戦前、軍部が政府に従わないで、暴走する原因になった。
それが、この憲法では、天皇に統帥権があるのは同じだけれど、天皇は総理大臣に、軍隊の指揮権を委譲することになっている。もちろん、軍隊の予算、人数に関しても、軍隊を実質指揮する総理大臣と内閣が決定する。
また、前の世界では、“軍部大臣現役武官制”という制度が行われていた時期があった。現役の将官が陸海軍大臣をするのだけれど、将官が、現役か、それとも引退した“予備役”にいる者なのかは、軍部が決めるのだ。
だから、内閣が、軍部が気に入らない決定をしようとすると、軍部が現役の陸海軍の大臣の退役、つまり大臣の辞任をちらつかせ、「後任の大臣になる現役将官は内閣に送らない」、と脅した。
この手で、内閣の決定を覆させたり、内閣を総辞職に追い込んだりすることもあり、政治が軍部にコントロールされる原因の一つになった。
けれど、この憲法の下では、将官を退役させたり、予備役の将官を現役復帰させたりするのは、総理大臣がする仕事である。軍部が大臣を引き上げても、総理大臣が予備役の将官を現役に復帰させて大臣にしてしまえば、軍部の目論見は、まるで達成されないのだ。
国務大臣の立場に関しても、史実の大日本帝国憲法では、総理大臣との関係がはっきりしていなかったので、これも軍部が暴走する一因になった。
しかし、総理大臣と天皇が協議の上で、総理大臣が国務大臣を任命し、天皇が承認する、という条文が、この憲法ではきちんと書かれた。国務大臣の罷免に関しても、総理大臣と天皇が協議の上で、総理大臣が罷免し、天皇がそれを承認すると明記したので、大臣に送る人材を盾にした軍部の暴走は、どの方向からも抑えられる格好になった。
――まあ、わしらが生きていれば、軍の連中も遠慮したが、死んだらタガが外れて、法の隙間をついて、屁理屈をこねて暴走し始めた、ということだろう。わしらが死んだ後の政治家と軍人が、ここまで馬鹿だとは思わなかった。
“授業”の後に、伊藤さんが嘆いていたけれど、その思いが、ここまでの改変をもたらしたのだろう。
あと、軍に関しては、憲法発布を機に、陸海軍が合同し、“国軍”として一つにまとまることになった。これは、山縣さん、大山さん、西郷さんの力が大きい。
日露戦争後、陸軍がロシアを、海軍がアメリカを仮想敵国として軍備を増強していた、という話をしたところ、
――アホかあ!
と、盛大にブチ切れたのが、戦場のカメラマン……じゃない、山縣さんだった。
――そんなバラバラな目標設定で、戦に勝てるかああ!
西郷さんも大山さんも、山縣さんの叫びに頷いた。そして軍の統合作業が急ピッチで進み、憲法発布と同時に行われる内閣改造で、西郷さんが新しい“国軍大臣”に就任することになった。大山さんが地位に頓着せずに、西郷さんに大臣の座を勧めたのもあったけど、海軍大臣の西郷さんが以前、陸軍卿という、陸軍大臣のような職に就いていたのも決め手になったとのことだった。
――まあ、今後、飛行機が出てくれば、空軍部門を作らないといけないでしょうし、軍の指揮系統をまとめておくのはいいと思います。
という私の言葉には、全員が首を傾げていた。一応、概念だけは伝えたので、軍で研究させると西郷さんが言っていたけど……。
(他にもいろいろ言ってしまったけど、かなり歴史が変わってしまう気がする……)
昨年夏からのことを思い返しながら歩いていると、天皇の新居である、奥御殿に到着した。女官さんが案内してくれ、招かれた部屋では、既に天皇と皇后、じゃない、お母様が待っていた。
そうなのだ、お母様のことを、畏れ多くて、“皇后陛下”と呼んでいたら、
――気持ちはわかりますが、お願いですから、お母様とお呼びください。
と、ご本人に懇願されてしまったのだ。そこまで言われてしまっては、そう呼ばざるを得ない。ちなみに、天皇のことは、ずっと“陛下”と呼んでいる。
「しばらくだな、章子」
天皇が私に声を掛けた。
「はあ……お正月以来、でしょうか」
私は、まだ堀河さんの家に、里子に出されたままだ。なので、両陛下と会ったのは、昨年の7月が初めてだった。前世では、大学進学で家を出るまでは、両親と同居していたので、少し不思議な感じがする。
ただ、私にとっては、今の状況は気楽だ。
前世で平民の私が、なぜ今生で、こんな畏れ多い両親の元に生まれてしまったのだろう。万が一、同居なんてしていたら、毎日、畏れ多さに震えて失神している。
「正月の時は、あまり話せなかったが……何か、医学で、役に立つものを考案したと聞いたぞ。手袋、だったか?」
「考案したというか、何と言うか……前世でやっていたことを、再現しただけです」
天皇が言ったのは、滅菌手袋のことだ。
昨年の7月以来、西洋医学の本を、堀河さんに取り寄せてもらって、読んでいた。
前世でも、勉強したことだから、何とか理解できるだろうと思ったら、外来語の当て字に、ものすごく難しい漢字が多すぎて、なかなかページが進まなかった。“護謨”という言葉の読みが分からず、堀河さんの知り合いの医者に聞いてもらって、“ゴム”と読むのだ、と2日経って分かった、などということが、しばしば起こった。
ところが、外科の本を、悪戦苦闘しながら読んでいる時、気になる記述を見つけた。
――ちょっと待って、外科の手術って、消毒液で手を消毒してから、素手でやってるの?!
前世では、大きな手術を素手ですることはあり得ない。医者も、介助につく看護師も、必ず、滅菌手袋という、清潔な、ラテックスやプラスチックで作った薄い手袋を装着し、滅菌された手術用のガウンをつけて手術をする。日常の診察や手技でも、“清潔操作”といって、普段の診察より、細菌感染の危険を、より一層排除して行わなければならないときも、必ず滅菌手袋をつけるのだ。
――消毒液で、絶対手が荒れるから、ゴムか何かで、滅菌手袋を作る方がいいわ!
と堀河さんに主張し、堀河さんから、井上農商務大臣に話が伝わり、そこからどういう経路をたどったか分からないけれど、昨年末に、滅菌手袋の試作品ができた。
――これ、帝国大学の教授が喜んでいましたよ。特許を取ったらどうでしょうか?
井上農商務大臣は嬉しそうにしていたのだけれど、私は戸惑ってしまった。
(滅菌手袋って、誰が開発したのかな?)
前世の史実で、滅菌手袋を誰が開発したかは、私は知らない。ただ、特許が発生する話となれば、“史実”で滅菌手袋を開発した人の、アイデアを盗んでしまうことになる。
(憲法が変わったとか、陸海軍が合同した、なら、誰のアイデアを盗んだわけでもない。私の話を聞いて、陛下や、政府の高官たちが考えたんだから。だけどなあ……)
私が答えないでいると、井上農商務大臣は、
――あ、まあ、そのあたりは、こちらで何とかしておきます。増宮さまも、あまりご経験がないでしょうし。
と言って、手袋の話を切り上げた。
「どうした、あまり浮かぬ顔だが」
昨年末のことを思い出していた私に、天皇が尋ねた。
「あ……申し訳ありません。少し、考え事をしていました」
「そうか。……まあ、今日は、少し、堅苦しいことから、頭を放してもよかろう。昼食を取りながら、話をしよう」
お母様が、廊下の方に声を掛けると、どこかに控えていた女官さんが現れて、トレイを持ってきた。どうやら、メニューは洋食らしい。女官さんが食卓にお皿を並べてくれたのだけど、お化粧の匂いで、私はむせてしまった。前世でもそうだったけど、お化粧の匂いは大嫌いだ。
「どうなさいました、増宮さん?」
お母様が心配そうな顔で聞いた。
「大丈夫です、お母様。お化粧の匂いで、むせただけで……」
「そういえば、増宮さんは、お小さいころから、お化粧の匂いが苦手でしたね」
「うむ、女官や乳母も、赤ん坊のころの章子に、泣いて避けられた故、堀河は困っておったな」
「さようでございました。それで、農家から乳母を探したのでしたなあ」
堀河さんが、懐かしそうに言った。
「そうだったのですか、爺?」
「おや、覚えておいでではないのですね?」
「はい、前世でも、お化粧は大嫌いでしたけれど」
というか、中高生のころは受験勉強に、大学生のころは、城跡巡りと歴史の勉強に夢中で、お化粧するという概念が、私の中になかった。匂い自体が苦手だったのもあるかもしれない。デパートの化粧品売り場なんて、入ったら最後、ストレスで全身に蕁麻疹が出たからなあ……。
そんなことを話しながら、食事が進んでいく。
途中、天皇が、ナイフとフォークを使っている私を、じっと見て、
「そなた……西洋料理を食べられるのだな」
目を軽く瞠った。
「えっと……ああ、前世では、西洋料理を食べる機会も、結構ありましたから、最低限の食器の使い方は知っています」
と言っても、本格的なフランス料理のフルコースなんて、1,2回しか食べたことはないけれど。
「そういえば、増宮さまには、まだ、西洋料理の食べ方を、教えてはいませんでした」
堀河さんが言う。
「爺、私、今、苦戦しているんですよ。腕が着物の袖で重いし、袖がテーブルに引っかかるし……“和服で西洋料理を食べるときのコツ”を教えて欲しかったです」
私が堀河さんに抗議すると、両陛下が、こらえきれなかったのか、同時に笑い出した。
「いや、あの、笑い事じゃなくて、結構今、大変なんです。私、前世で和服を着たことがないですから……」
成人式は出なかったし、大学の卒業式もスーツで済ませた。服にかけるお金があるなら、城跡巡りの軍資金に回したかったのだ。
「そうか。……やはり、そなたの世と今とでは、風俗も生活の習慣も、違うのだな」
天皇は、お茶を一口飲むと、腕組みした。
「なれば、ますます、どうすればよいか、相談せねばならぬ」
「相談?」
私は首を傾げた。
「いや……章子も、今日で、小学校に上がる年齢になった。ただ、そなたは、前世の記憶もあるし、特殊だからな……それゆえ、これからどうするか、を、相談しておこうと思ってな。それでここに呼んだわけだ」
あれ?
もしかして、これって、私の教育方針を、決める会議……?
(6歳の子供が、参加していいのかな?)
私は食後の緑茶を啜りながら、心の中で突っ込みを入れた。