誇り
※地の文のミスを修正しました。(2019年5月30日)
1893(明治26)年8月19日土曜日、午後6時。
早めの夕食を済ませた私は、完成したミントグリーンのドレスに着替え、鏡台の前に座っていた。前日までの雨は上がり、少し蒸し暑くなっていた。
「ドレス姿も、本当にお美しいですわ」
私の髪と顔を綺麗に整えた花松さんは、紅筆を鏡台に置くと微笑んだ。
「ありがとうございます」
私も花松さんに、微笑を返した。
これからフランツ殿下の所に、一昨日出来なかった答礼に赴く。もともと、宮中で今開かれている晩餐会の後で、お父様がフランツ殿下の宿舎に行くことになっていて、それに便乗する形になったそうだ。もちろん、お父様が花御殿に来ることはないから、現地で合流する。当初は、別々に行くことになっていたのだけど、お父様の強い要望で、一緒の訪問になったと、今朝花松さんから聞かされた。
(それだけ、お父様に心配を掛けたってことだよね……)
私は、鏡台の上に置かれた、藍色のビロードに包まれた平たいケースを見やった。中には、お父様に誕生日にもらった、五弁の花が5つ並んだペンダントが、静かに光を放っている。
と、
「章子、支度はよいか?」
障子の向こうから、兄の声がした。鏡台の上に置いた懐中時計の針は、まだ6時を少し回った所だ。出発は6時半だったから、少し早いのではないだろうか。
「はい、殿下。あとはペンダントだけです」
花松さんが答えると、
「そうか……では入るぞ」
障子が開いて、兄が部屋に入ってきた。やはり一昨日の朝と同じく、歩兵中尉の正装だった。袖章とボタンの金色が、夕日にきらめいて眩しい。
「おお……」
振り返った私を見た兄は、満足そうな笑みを見せた。「ドレス姿も良いな。本当に綺麗だよ、章子」
「ありがとう、兄上」
微笑む私の視線の先で、
「花松、席を外してくれるか」
と兄が言った。
「まだ、ペンダントが残っているのですが……」
「それはわたしがやるよ。章子と話したいことがあるから、席を外しておくれ」
兄は花松さんに重ねて命じた。それで花松さんも頷いて、私の後ろで立ち上がった。
「さて、梨花、……今の気持ちはどうだ?」
花松さんが立ち去るのを見届けると、兄は私のすぐそばで胡坐をかいた。
「兄上だから言うけど、……正直、不安」
私は目を伏せた。「また手にキスされたらどうしよう、あの記憶が蘇ったらどうしようって」
「蘇っても、倒れなければいいのだ」
兄は微笑した。「倒れそうになったら、身体を支えてやる。お前は覚えていないだろうが、あの時、お前の身体を支えたのは俺だぞ」
「そうだったの?!」
私の驚きの声に、兄は得意気な表情になった。そう言えば、意識が戻った時、身体はどこも痛くなかったから、床に頭をぶつける前に、誰かが支えてくれたのだろうとは思ったけれど……。
「それ、早く言ってよ!お礼を言いそびれる所だった。ありがとう、兄上」
「うん、武官長にも礼を言ってやれ。お前をここまで運んだのは武官長だからな」
「分かった。はぁ……、また、大山さんに頭が上がらなくなっちゃった」
私は苦笑した。あの有能な臣下には、本当に敵わない。
「それで、その武官長が、きちんとお前に教えておく方がよいと言うからな」
「教えるって……何を?」
首を傾げると、
「接吻の意味だよ」
兄はこんなことを言った。
「い、意味?」
私が尋ねると、「そうだ」と兄は頷いた。
「接吻にも色々意味があるのだ。もちろん、お前が前世で見たような、互いを確かめるための接吻もある。けれど、フランツ殿下がお前の手に口付けたのは、お前に尊敬を表すためだよ」
「私に、尊敬を?まだ10才なのに?」
「当たり前だろう」
兄はそう言うと、真剣な表情になった。
「お前は、俺の誇りなのだから」
「?!」
兄の口から飛び出た言葉に耳を疑って、私は目を瞠った。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って兄上。兄が妹を誇りに思うって、どういうことなのよ?!」
「別におかしくはないだろう?」
兄は、動揺する私を不思議そうに見た。
「賢くて美しい。そして、自分の全てを使って俺を守りたいと言ってくれる。自分の心が大きく傷ついている時ですら、俺を守ることを考える……こんな素晴らしい妹を、なぜ尊敬してはいけないのだ?」
兄は、ビロードのケースに手を伸ばし、指でペンダントを掬い上げた。
「この意匠は良いな。五弁の花か。ドレスともよく合っている。付けるよ、梨花」
兄の両手が、言葉を失っている私の首の後ろに回された。その手が首から離れたと同時に、ヒヤッとした感覚が首もとを襲う。
「おお、やはり似合っている。梨花、鏡を見てごらん」
私は鏡の中の自分を見た。ケースの中にあった銀色の花は、今は私の首もとを飾っていた。夕陽を受けて、花芯の金剛石が静かに光っている。
「俺の誇りを飾るのに、相応しい華だ」
「兄上の、誇り……」
「そうだ、俺の誇りの、愛しい姫君だよ」
白い手袋に包まれた私の右手を、兄は左手で優しく取った。
その瞬間、身体が、ふわりと宙に持ち上がった気がした。心の奥底に、暖かい光が灯されたような感覚が私を包む。どこかふわふわとした心地よさと安心感が、私の身体と心を満たしていった。
(あ、あれ……?)
高揚したような気持ちの正体を掴めぬうちに、
「梨花、エスコートさせてくれないか?」
兄が私をじっと見つめた。まっすぐで優しい視線が私を貫く。頼もしい瞳の光を見ていると、私の心に圧し掛かっていたものが、一つ、また一つと地面に落ちて、身体がますます軽くなるような感じを抱いた。
「……喜んで、兄上」
兄が立ち上がるのに合わせて、私も右手を兄に預けたまま、立った。
兄に手を取られて玄関に出ると、伊藤さんと大山さんが待ち受けていた。
いや、2人だけではない。伊藤さんの隣には、何故か目を真っ赤にした山縣さんが立っているし、大山さんの側にも、大礼服を着た勝先生がいる。やはり大礼服姿の黒田さんと西郷さんもいるし、海兵大佐の正装を着た親王殿下もいるし、山田さんもいるし、井上さんに松方さん、大隈さんに西郷さんに三条さん、原さんに児玉さんに山本さん……なぜか、名古屋にいるはずの桂さんまでいる。
「皆、どうしたのですか……」
呆然としながら呟くと、
「どうしたって、心配だから来たんだよ、増宮さま。おれ、宮中の晩餐会が終わった直後に、こっちに直行した」
勝先生が言った。「倒れちまったのに、今日答礼に行くって聞いたからよ。山縣さんなんか、面会謝絶のところを“見舞いにいく”って言い張って、原が宥めるのに苦労して」
「勝先生、それは言わない約束でありましたでしょう。わしはこうして、増宮さまが元気に立ち上がられて、いつにも増して美しく、気品あるお姿を見せられているだけで、もう……」
山縣さんの両目から涙が溢れる。目が赤かったのは、どうやら寝不足のせいではないらしい。
「そうでしたか……。我が心の弱さがゆえに、要らぬ心痛を与えてしまいました。許せと言っても許されないでしょうけれど、謝らせてください、山縣さん」
私が頭を下げると、
「そんな……一介の武弁に、余りにも勿体無き御言葉……」
山縣さんは肩を震わせながら最敬礼した。……これは、原さんが相当苦労したに違いない。後でたっぷり皮肉られそうだ。
「すると、……皆、私の身を案じて来てくれたのですか。桂さんも、あの嵐の中を名古屋から……」
「はっ、至急電を受けましたので、軍務は副司令官に任せて、とりあえず上京致しました」
「それは、大変迷惑を掛けました」
私は桂さんの方をしっかり向くと、一礼した。
「あ、増宮殿下?!私ごときに頭を下げるなど……」
「私を案じて、遠路遥々駆け付けてくれたあなたに、頭を下げないでどうするのですか?」
目を白黒させる桂さんに、私は微笑を向けた。
と、
「梨花さま」
私の非常に有能な臣下が、私を呼んだ。「時間がありませぬゆえ、馬車の方へ……」
「分かりました。……大山さんも伊藤さんも、善後策のこと、本当にありがとうございました。それから大山さん、一昨日、私の身体を部屋まで運んでくれてありがとう。本当に、あなたには敵わない。いつもありがとう」
お辞儀をすると、大山さんは一瞬目を瞠り、黙って頭を下げた。
「さ、行こうか」
右側に立った兄が、優しく私を促す。兄に導かれるまま馬車に乗り込み、フランツ殿下の宿所である芝離宮に向かった。侍従さんが前に座っていたから喋らなかったけれど、馬車の中で、兄はずっと、私の右手を優しく握ってくれていた。不思議な高揚感は、まだふわふわと私を包み込んでいた。
芝離宮には、既にお父様が、爺と一緒に待っていた。私の姿を見ると、お父様は満足げに頷いた。
「章子……回復したか」
「お父様、ご心配とご迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
私はお父様に最敬礼した。
「いや、それは良いのだが……そなた、見違えたな。なあ、堀河?」
「ええ、誠に……」
「恐れ入ります」
今度は軽く頭を下げる。
「嘉仁」
「はっ」
「そのまま、章子を連れて、朕に付いて参れ」
「承知しました」
花御殿から、ずっと私の手を取ったままの兄が、お父様に一礼した。
フランツ殿下の前まで行くと、殿下がふらふらと2、3歩前に出て、何かを言った。ドイツ語のようだけれど、早口なので聞き取れない。
「殿下のご体調はいかがかと、聞いておられます」
通訳さんの声に、
「見苦しいところをお目に入れてしまい、誠に申し訳なかった、と伝えてください」
そう答えると、通訳さんがドイツ語で殿下に伝え、殿下がそれに更に答える。
「挨拶をやり直させてもらってもよろしいか、と仰せです」
すると、お父様と兄の顔が、一瞬固くなった。
「喜んで、と伝えてください」
私はフランツ殿下に微笑した。
フランツ殿下が近付くと、兄は白い長い手袋に包まれた私の手をそっと離した。そして、私の目をじっと覗きこんだ。
(大丈夫、兄上。今度は……自分に負けない)
微かに笑って兄に頷くと、前に差し出した右手が、何かに触れた。フランツ殿下の右手だ。殿下は屈み込むと、一昨日と同じように、私の右手に口付けした。
刹那、
――ねぇ、キスしていい?
あの忌々しい光景が、脳裡に浮かんだ。抱き合う少年少女。交わされるキス。……やはり、この強烈な記憶は、おいそれとは消えてくれなかった。身を切るような辛さと惨めさが心を支配し、一昨日のように、鼓動が早鐘を打つのを感じた。身体中の血が渦を巻き――。
ふと、駆け巡る血が、首もとで冷やされたのに気づく。空いた左手で首もとを縋るようにまさぐると、硬い宝石が指先に触れた。その回りには、銀の五弁の花びらが……。
(違う……!)
意識が暗闇に飲み込まれそうになる、済んでの所で踏み止まって、私は自分の心と身体に叫んだ。
確かに、あの忌々しい光景も感情も、ありのままに蘇り、身体も呼応してしまっている。だけど……
(これは、今生じゃない!)
出来るだけ、ゆっくり呼吸をする。意識は、首に掛けられた美しいペンダントに集中させた。私には似つかわしくない、……いや、違う。私は兄の、優しくて頼もしい兄の誇りなのだから、この花で身を飾るのに、何の問題もない。金剛石にだって、負けはしないのだ。
気が付くと、右手から、フランツ殿下の手と唇が離れていた。立ち上がったフランツ殿下に、私はニッコリ笑って見せた。その瞬間、私の心が、地面にふわりと軟着陸した。身体をいっぺんに疲労が襲うけれど、意識が持っていかれる感じは全くしない。
(な、なに、これ……?)
お父様は、ほっとしたように頷いた。兄は、フランツ殿下の接吻を受けた私の右手を、また優しく握ってくれた。
――やはりお前は、俺の誇りだよ。
兄の口元は、そう言いたげに笑っていた。
答礼を終え、フランツ殿下の求めに応じて写真を撮られた後、帰りの馬車に乗り込んだ時には、私の疲労は限界に達していた。
「あ、兄上……」
先に馬車に乗っていた兄に、もたれ掛かるように座る。もちろん、侍従さんたちがいないのは確認している。
「どうした、梨花……」
兄は苦笑しながら、私の頭を撫でてくれた。
「よく頑張ったぞ。一瞬、顔が青白くなったから、心配したが……」
「何かおかしいの、さっきから……」
私は、疲れ切った身体を兄に押し付けた。「兄上が花御殿で手を取ってくれた時から、ずっと気持ちがふわふわして、まるで身体が宙を浮いてるみたいで……フランツ殿下の挨拶が終わった瞬間に、地面に足がついて、そうしたら、どっと疲れが襲ってきて……」
「はは、そうか。……やはり、思い出してしまったか?」
「うん……」
私は一瞬目を伏せた。「でも、これは、今生の出来事じゃないんだ、って思って、それで……」
「それで?」
「私は、兄上の……誇りなんだって思って……」
小さな声で言うと、兄がまた私の頭を撫でた。
「そうしていると本当にかわいいな、お前は」
「もー……恥ずかしいよ……」
唇を尖らせてから、ふと気づいた。陪乗するはずの侍従さんたちが、馬車に乗ってこない。
「侍従さんたち、どうしたの?」
「そう言えば、まだ来ないな」
それどころか、馬車の外がざわついている感じがする。
「何……?なんかトラブったの?違う、差しさわりが起こったの?」
私が言った瞬間、馬車の扉が開いて、思いもよらぬ人物の顔が現れた。
「お、お父様?!」
「ちょ……私たち、乗る馬車を間違えました?!」
驚く私たちに向かって、
「嘉仁、席を代われ」
お父様はこう命じた。
「は……?」
「いいから、席を代われ。そなたは章子の前だ」
「は、はあ……」
お父様の勢いに押されるように兄は席を立ち、私の斜め前に移動した。
「章子」
「は、はい」
「席を詰めろ」
私が慌てて奥に移動すると、つい先ほどまで私が座っていた席にお父様が座った。兄の隣には爺が座る。扉が閉まると、馬車は前に進み始めた。
「えっと、爺……?天皇と皇太子と内親王が馬車に同乗するって、ないよね……?」
「ええ、恐らく初めてのことでしょうね」
爺がクスクス笑った。すると、
「そんなこと、言うていられるか!」
お父様が、強い口調で爺に抗議した。
「朕は章子が心配で心配で……しかしまあ、よう耐えた」
そう言うとお父様は、私の首もとのペンダントを、右手の指で軽く持ち上げた。
「これで、己を取り戻したか」
「……はい」
美しくて、余りにも綺麗で、身に着けるのを少し気後れしてしまう、私の前世の名にちなんだモチーフのペンダント。でも、これがあったから、フラッシュバックした記憶は、今起こっていることではないと、自分に強く言い聞かせることができた。
「ありがとうございました、お父様」
お父様は黙って頷くと、私の左手を握った。
「このまま、嘉仁とともに、宮城に参れ」
「は、はあ……」
「何を驚いた顔をしている。そなた、その姿を美子に見せておらんだろう」
(あ……)
そういえば、ドレスの試着も花御殿でしていたから、お母様に、この姿を見てもらっていない。
「かしこまりました、お父様。少し恥ずかしいですけれど、お母様に、ドレスを見てもらいます」
「恥ずかしいのか?離宮に着いた時は、あんなに堂々としておったのに」
お父様は苦笑すると、視線を兄に投げた。
「しかし、良き言葉だ。“己の心を縛るのも凍てつかせるのも己なら、己の心を解き放つのも溶かすのもまた己”……流石、朕の子であるな、嘉仁。褒めてつかわす」
「は……」
兄はお父様に軽く頭を下げたけれど、不思議そうな表情をしていた。
(あれ?昨日のあの時、兄上以外に誰かいたっけ?)
私も首を傾げた。
すると、
「伊藤と大山が、泣きながら朕に報告してくれたぞ。そなたの成長ぶりも目覚ましいし、章子の心が癒されたのも素晴らしい、と……」
「「!」」
お父様の言葉に、私と兄は、揃って目を丸くした。
「何と……議長と武官長に聞かれていたのか?!あの2人には、俺が出てくるまで、誰も梨花の部屋に近付けるなと命じていたのに……武官長があの言葉を教えてくれたのも、梨花が接吻に関して忌まわしい記憶を持つと、ベルツ先生から指摘されたがゆえにと思っていたが、まさか……!」
兄は頭を抱えた。
「ちょっと待って……あの時、他に誰かいた気配なんて無かったし、私と兄上だったら、誰か潜んでいても絶対気付くはずよ?」
私もある程度、人の気配を察することが出来るし、兄は私より、もっと気配に敏感だから、あの時、近くに誰かが潜んでいたら気付いたはずだ。
すると、
「嵐だったゆえ、気配が紛れて助かったと、2人ともおっしゃっておられましたよ」
爺がニッコリ笑った。「皇太子殿下は勘が鋭いゆえ、いつ露見するかとヒヤヒヤしていたそうですが」
(うわああ……)
私は項垂れた。流石、数々の修羅場を潜り抜けた元勲たちだ。やろうと思えば、自分で盗聴するくらいはやってしまうらしい。いや、それよりも、もっと大きな問題なのは……。
「山縣は話を聞いて、章子の心を何とかして慰めたいと号泣していたし、井上は、経済界と組んで“ばれんたいん”とやらを日本に定着させて、章子からチョコレートをもらうのだと叫んでいたし、山田と松方は、フランツ殿下に危害を加えないでよかったと胸を撫で下ろしていたし、西郷と児玉と山本は、桂と図って、名古屋にいるであろう、前世の章子を振った男の先祖を殺すと息巻いていたし……」
「う、うにゃああ?!」
思わず、変な声を出してしまった。
「わ、私の黒歴史が、皆に知られてるなんて……」
終わった。完全に終わった。流石に、私の前世が関わる話だから、“梨花会”の中にしか広められないだろうけれど、皆があの無様な失恋を知ってしまったなんて……。
(どうしたらいいのよ、もう……)
頭を抱えたくて仕方なかったけれど、お父様が左手を強く握っているので出来なかった。
「まあ、よいではないか。そなたに怯えず、ありのままのそなたを愛する婿を探せばよいこと。それまで、ゆっくり傷を癒せばよい」
お父様が、空いた右手で、私の頭を撫でる。
「ま、まあ、そうですけど……」
「俺も手伝うよ、梨花」
向かいに座った兄が、私に向かって微笑する。兄の瞳の優しい光を見ていると、激しく動揺した心が、次第に落ち着いていった。
と、
「しかし、朕は、従道の計画に乗った方がよいのか、堀河?」
お父様が突然、こんなことを言い出した。
「さあ、完全を期すなら、女性の先祖も消す方がよろしいかと思いますが」
「け、消す?!」
爺から出た物騒な言葉に、せっかく落ち着いた心がまた跳ね上がる。
「ちょ、ちょっと待って、お父様も爺も……大体、野田君と工藤さんのご先祖を消すとか、何考えてるのよ!2人に、なんの関係もないでしょう!」
猛抗議すると、
「ほう、野田というのか、梨花の心を傷つけた男の名前は」
兄がにやりと笑った。「俺も、西郷大臣たちの計画に乗りましょうか、お父様」
「あ、兄上まで、何言ってるの!?」
私は顔を真っ赤にした。馬車の中で無かったら、立ち上がっていたかもしれない。
「あのね、そもそも私、あの2人のルーツがどこなのかも知らないのよ!ていうか、フランツ殿下に危害を加えるとか……国賓に対して、そんな物騒なこと考えるな!殿下に殺気飛ばしたりとか、してないわよね?!」
全力でツッコミを入れる私の側で、
「そうだ、堀河、徴兵試験の時に野田姓の者を見つけておいて、追跡する手はあるか?」
お父様が、目をキラキラさせながら、悪戯っぽい笑みを見せた。
「なるほど、それが、前世の増宮さまのご実家の近くに住んだならば、監視して……」
「だから、お父様も爺も!まだ私の曽祖父も生まれてないんだから、物騒な発想はやめなさいってばーー!!」
私が心の底からの叫び声を叩きつけると、
「ははは……冗談を本気にしおって……。殺気を放つなど、外交の差し障りになるようなこと、皆がする訳がなかろう」
「ふふ……梨花、安心しろ。お前を傷付けた者の祖先を殺すなど、お前が悲しむから絶対にしないよ」
「陛下と殿下のおっしゃる通りですよ。しかし、本当に、おかわいらしいことで……」
お父様も、兄も、爺も、一斉に笑い出したので、私は頬を膨らませたのだった。
こうして、フランツ・フェルディナンド殿下を歓迎する、一連の公式行事は終わり、フランツ殿下は日光を周遊された後、8月25日に日本を出発した。
その後、私の周りにも、兄の周りにも、そして“梨花会”の皆の周りや、果てはこの国の周辺にも、様々な出来事が巻き起こっていったのだけれど――それはまた、別の話である。




