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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第13章 1893(明治26)年立夏~1893(明治26)年立秋
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嵐(2)

「どうした?」

 兄の顔が視界に入らないように、急いで顔を背けると、兄の不思議そうな声がした。

「どうしたと聞きたいのは、こっちよ!」

 私は首を右に向けたまま叫んだ。「だ、大体、女性の部屋に断りなく入ってくるなんて、マナー違反じゃないの?!」

「妹の見舞いに来ただけだぞ?」

 声の発生源が動く気配がした次の瞬間、見ないようにしたはずの兄の顔が、また視界に入った。

「うん、やはり俺の妹は、寝顔も可愛いが、目を覚ましている方が美しいな」

「?!」

 顔を真っ赤にした私は、今度は首を素早く左に回した。

「み……見ないでよ!ていうか、いつからいたのよ!」

「1時間ほど前からか。枕元で本を読みながら待っていたが、お前、とても疲れていたようだな。声を掛けても全く目が覚めなかったから、そのまま寝かせていたが」

「……!」

 私は慌てて布団を頭から被った。

「今更顔を隠しても、無駄だぞ」

 兄が苦笑する気配がした。

「まあ、その様子なら、体調は完全に戻ったのだろう。安心した」

「あ……安心したんだったら、部屋から出ていってよ!」

 私は布団を被ったまま強く言った。

 すると、

「断る」

兄の口から、思いもよらぬ返答が飛び出した。

「こ、断るって?!」

「お前から、倒れた原因を聞き出さないことには帰らん」

「わ、私から聞き出す……?!」

 私は布団の中で、歯を食い縛った。「ベルツ先生から聞いたんじゃないの?血管迷走神経性の失神だって……」

「ああ、それは聞いた」

 兄の声に、真剣な響きが籠った。「……それで、その失神は、何が引き金になって起こったのだ?」

「ひ……引き金?」

 嫌な予感がする。けれど、その不安は出さないように頑張って、私は兄に聞き返してみた。

「三浦先生は、血管迷走神経性の失神は、疲労や身体の水分の少なさもさることながら、心に大きな衝撃を受けることも引き金になって起きると言っていた。お前が倒れた時の状況を詳しく聞き取って、ベルツ先生も三浦先生も同じ結論に達した。フランツ殿下がお前の手に接吻したことで、梨花が、尋常でない衝撃を心に受けたのだろう、と」

「……っ!」

 私は眉を跳ね上げた。流石は、帝大医科大学の元教授と現役講師だ。医学の知識は私の方が持っているけれど、臨床経験に関してはあの2人の方が上だ。私から得た知識と自らの経験とで、2人とも、私が倒れた真の原因に肉薄していたのだ。

「挨拶として、貴婦人の手に接吻するのは、西欧では時折あることだろう。10歳のお前にするとは思わなかったが、あれはお前が、一人前の貴婦人と認められた証。誇ってもいいことなのに、お前はそう思わずに、心に尋常でない衝撃を受けてしまった。一体、何があったのだ?今生……いや、前世でか?」

(だ……誰が言うもんか!)

 布団を更に深くかぶった。多分顔は、これ以上ないくらい真っ赤になっているだろう。前世の失恋が原因で意識を失ったなんて、とても恥ずかしくて言えない。

 と、

「武官長が言っていたぞ」

兄が優しい声で言った。「お前は機転が本当によく利くが、考えや思いを心の内に秘めてしまうと、あらぬ方向に考えが飛んで、お前自身を傷付けてしまうと」

「……?!」

 そう言えば、去年、北里先生の歓迎会を横浜で開いた時、迎えに来てくれた大山さんに、そんなことを言われた。そして、こうも言われた。「何か思い悩むことがあったら、自分に話して欲しい」と……。

「梨花。またお前は、同じ過ちを繰り返して、自分を傷付けたいのか?」

(……!)

 兄の言葉に、私は息を呑んだ。

 確かに、転生してから、一人で思い悩んで、結局損をすることが多い。濃尾地震の時も、“梨花会”の面々に確かめればよかったのに、ダイナマイトの噂を信じてしまって、“史実”より被害が大きくなるのではないかと胸を痛めた。脚気の追試論文の件では、存在もしていない「ドイツにいるかもしれない、未来の医療知識を持つ人間」に怯えた。

(それと同じようなことがまた起こる、兄上はそう言いたいの?)

 私は布団の縁を、目のすぐ下まで、そーっと下ろした。

「……笑わない?」

「笑うわけがないだろう」

 兄が苦笑いを顔に浮かべたのが見えた。「忘れたか?全力でお前を受け止めると言ったのを」

恋の話(コイバナ)が関わるけど……」

「こいばな……ああ、誰に懸想しているとか、そういう話か?そんなもの、学習院(がっこう)でさんざん聞かされている。いつまで俺が子供だと思っている?」

 兄はそう言うと、私の頭を優しく撫でた。

「ふふ、そうしていると、本当に可愛いな。どれ、笑わずに聞いているから、話してごらん、お前の“こいばな”を」

 私は布団の下にある尖らせた口を、観念して開いた。


「兄上は、“バレンタイン”っていう行事は知らないよね?」

「ばれんたいん?」

「確か、キリスト教のウァレンティヌスという聖人にちなんだ日、と聞いたことがある。それが日本に入ってきて……私の時代では、“女性が意中の男性に、チョコレートを贈る日”になっていた。もちろん、義理チョコとか友チョコとか、渡す相手のバリエーションは色々あったけれど……」

「ほう、なかなか面白そうな行事だな」

 兄が微笑した。「それで、お前の“こいばな”は、そのバレンタインと関係があるのか」

「うん……」

 私は微かに頷いた。「私が、小学校の6年生……12歳だった時に、好きな人が出来たの。同じ組の、カッコいい男の子」

「同じ組……か?」

「うん、今の学習院以外の小学校がどうしているか分からないけど、私の時代、大体の小学校は、男子と女子が一緒の教室で勉強していたの。華族女学校と学習院みたいに、男女別々になっている小学校がむしろ少数派」

「なるほど、それならば、恋も生まれやすいな。……それで?」

 兄は優しい目で、じっと私を見ている。その視線に励まされるように、私は口を開いた。

「その、12歳の時のバレンタインに、私は好きな人に、チョコレートのケーキを作ったの。父と祖父が、その人の家族を診察した時に、彼の好物がチョコレートケーキだって聞き込んで、上の兄がケーキの作り方を探してきてくれたから……。残りの家族は、私が試作したケーキを食べてくれて、感想を教えてくれたり、励ましてくれたりした。家族みんなに、応援されていたの。それに、級友たちも、私とその好きな人の思いが通じ合うようにって、色々応援してくれていた……」

「そうか、それでお前は、そのケーキを想う男に渡して、自分の想いを告げようとしたのだな」

「うん……そのつもりだった……」

 私は目を伏せた。どうしても、核心を話そうとすると、胸が苦しい。

 と、

「梨花、……手を握るぞ」

兄が布団の端から手を入れて、素早く私の左手を探し当てた。

「辛いのか?」

 兄の言葉に黙って頷く。あの時の惨めさと辛さが心に蘇る。女ではないと言われ、キスを交わす野田君と工藤さんを眺めるしかない私の手から、ガトーショコラを入れた紙袋が落ち――

 その手が、強く握られたのに気付く。私の手より少し大きくて、暖かくて、頼もしいこの手は……。

「梨花」

 兄がじっと、私を見ていた。「想いが破れた時のことを、目の当たりに思い出したのか?」

「うん……」

 眦に、涙が浮かんでいるのを感じた。「私がケーキを渡そうとしたら、彼が、別の美人の女の子と抱き合ってた。それで、その女の子が、彼と私が付き合ってるんじゃないのかって、私がそこにいることを知らずに確認したら、……彼は、私のことを、“医者になるために勉強しているから女じゃない”、って言ったの。そして、彼とその女の子が、口付けを交わして……」

「梨花」

 兄は、空いている右手で、私の頭を優しく撫でる。「フランツ殿下に手に接吻された時、想いが破れた時のことを、まざまざと思い出したのか?」

 私は首を縦に振った。

「それは、辛かっただろう」

「うん、……でも、それで兄上にも、ううん、兄上だけじゃない、伊藤さんにも大山さんにも、それに宮内省や外務省や、フランツ殿下にも迷惑を掛けて、外交日程を狂わせてしまった。それがとても悔しいの」

 涙が頬を伝った。

「私はなんて弱いんだろう。医療の知識こそ、この世で一番持っているかもしれないけれど、政治や外交をする頭はないし、胆力がまるでない。こんな大事なときに、過去の恋愛を思い出したショックで倒れるなんて……余りにも情けないよ。こんなんじゃ、兄上を守れないって……そう思うと……」

 私は目を伏せた。

 すると、

「……弱いのは、俺とて同じだ、梨花」

兄は静かに言った。

「え?」

「“梨花会”の面々や、お父様(おもうさま)と接していると、つくづくそう思う。皆、俺とは鍛えが違う。いっぱしの軍人と強がっても、守ろうと思ったものを守りきれるか、皇太子として、帝として責を果たせるのか……そんな不安ばかり感じてしまう」

「兄上……」

 いつも頼もしい兄の目が、暗くなっている。

――俺がまことの心を打ち明けられるのは、お前と節子だけだというのに……。

 この春に、兄に言われた言葉が脳裏を過る。

(私が相手だから、兄上は、自分の弱いところも見せてる、ってこと……?)

 すると、兄は寂しげに微笑して、言った。

「だが、弱いなりにも、せめて、お前を苦しめる記憶から、俺はお前を守りたいのだ」

「記憶から……私を守る?」

 尋ね返すと、「ああ」と兄は頷いた。

「……なれるものなら、梨花の前世の兄になりたかった」

「え……?」

「それならば、お前の想いが破れた時、きちんとお前の話を聞いて、こう言えたのにな。“事物の表面しか見られない男など、例え見映えがよくても、想い合う仲になるべきでは無かった。心の傷が癒えたら、お前のありのままを、しっかり受け止められる男を探して、愛し合えるようになれ”と」

(!)

 私は目を見張った。

 今生の兄が、前世でも兄だったら……。私は失恋したことを、兄に告白していたのだろうか?

(いや、待って……もし、私があの時……)

「兄上……」

 思い付いたことがあって、私は口を開いた。

「どうした?」

「もし、……もしだよ?前世の私が、前世の兄たちに、失恋のことを話していたら、どうなってたかな?」

「話せなかったのか?」

「……すごく無様なフラれ方をしたと思ったから、恥ずかしくて誰にも言えなかった。それで、そのまま死んだの」

「そうか……」

 兄はまた、私の頭を優しく撫でた。

「それは、俺と同じ事を言ったのではないか?」

(?!)

「根拠は?兄上、根拠は?」

 思わず身を起こした私に、兄は微笑んだ。

「根拠か?いや、そう言われても困るが……」

 兄は少し考え込んでから、口を開いた。

「お前、前世の兄たちと、仲が悪かったという訳ではないのだろう?」

「うん。むしろ、世間一般から見ると、いい方だったと思うよ」

 私をからかうことは多かったけれど、2人とも、勉強の相談に乗ってくれたり、志望大学や研修病院を選ぶ相談にも応じてくれたりした。

「だろうな。ケーキの作り方も探してくれたり、試食もしたりしてくれたのだから。それならば、梨花の前世の兄たちも、俺と同じことを言っただろう」

「ほんとに?……それ、根拠はある?」

「心配なのか?」

 黙って頷いた私の左手から、兄の手が離れた。微かな不安が心をかすめた瞬間、その手が私の背中に回されて、私の身体は、兄に抱き寄せられていた。

「仲の良い兄妹だからだ。……それで、よいではないか」

「あ……」

(そうか……)

 あの時、私が兄たちに、いや、兄たちでなくてもいい、両親や祖父母に、それとも奈津美ちゃんに、失恋の顛末を話せていたら……。きっと、そう言ってくれたのだ。「心の傷が癒えたら、お前のありのままを、しっかり受け止められる男を探して、愛し合えるようになれ」と。

 それなのに、臆病な私は、失恋そのものの衝撃の大きさと、笑われてしまうかもしれないという恐れと恥ずかしさで、自分の心を鎖で縛り、分厚い氷で閉ざしてしまったのだ。死ぬまで……そして、二度目の生を受けてからも。

「兄上……」

 兄の肩に顔を埋めながら、私は言った。

「どうした、梨花?」

 私の髪を撫でながら、兄は小さな声で尋ねた。

「やっぱり、私のせいなんだ……」

「お前の?」

「私の心を縛り付けていたのは、凍りつかせていたのは、私自身、だったんだ……」

 すると、兄が微笑む気配がした。

「そうか……しかし、それならば、お前の心を解き放つのも、凍てついた心を溶かすのも、お前自身だよ、梨花」

「!」

 目を見張った私の身体を、髪を撫でていた手で肩を支えるようにして少し離すと、兄は私の目を優しく見つめた。

「お前にはそれが出来る。俺も手伝うよ」

 更に強まる雨風の音に煽られるかのように、目から溢れた涙は堰を切ったように流れ続け、止まることを知らなかった。

 兄は黙って、右手で私の頭をそっと撫でながら、私を抱き締め続けてくれた。

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