嵐(1)
「……さま!」
遠くで、誰かの声がする。
「……やさま!」
私を呼ぶ声……なのだろうか。頭がぼんやりとしていて、推測を深めることもできない。
「……宮さま!」
私を呼ぶ声は段々に近くなって、私は自分の身体が、布団の中に横たえられていることに気がついた。
「増宮さま!」
私は目を開けた。見慣れた天井が視界に飛び込む。
これは……私の寝室の天井だ。
「増宮さま……!」
花松さんが喜びの声をあげて、私の顔を覗きこんだ。
「ああ……良かった!」
私の左手を掴んだ花松さんは、眼からポロポロ涙をこぼしている。
「花松さん、泣かないで……お化粧が崩れますよ」
「ですが……目が覚められたので……わたくし、嬉しくて……」
花松さんの涙は止まらなかった。
「私……気を失っていたのですか?」
花松さんを泣き止ませるのは諦めて、私は現状を把握することにした。
「さようでございます」
答えてくれたのは、花松さんではなく、彼女の隣にいた侍医さんだった。
「フランツ殿下が、ご挨拶されたと同時に、倒れられまして……ひとまず、ご寝室まで運んだのです」
「そう……気を失っていたのは何分くらい?」
「ほんの数分でございます。いや、お気がつかれて何よりでした」
「そうですか……私、兄上の所に戻らないと……」
身体を起こそうとすると、
「なりません!」
侍医さんが叫んだ。「血圧が低うございますゆえ」
「いくつくらい?」
「上が78の、下が56でございます。今、帝国大学に、ベルツ先生と三浦先生を呼びにやっている所でございますゆえ、せめてお二人の診察が終わるまでは、横になっていて下さい!」
「って……大袈裟な……」
私は眉をしかめた。「単に気を失っただけです。お二人とも、大学の業務があるのだから、来ないでいいと伝え直してもらっていいですか?」
「しかし、増宮さま。呼んだのは我々ではなく、伊藤閣下と大山閣下です。今更お二方の命を覆せというのは……」
私は黙りこんだ。それならば、ベルツ先生と三浦先生に“大丈夫”というお墨付きをもらって、伊藤さんと大山さんを納得させるしかない。
「でも、フランツ殿下の接待をしないといけないから、起きないと……」
「皇太子殿下からは、“自分に任せろ”とお言葉をいただいております。ですから、横になっていてください」
「そう……」
侍医さんの言葉を聞くと、私は身体に掛けられた布団を、頭まで被った。
「じゃあ、ベルツ先生と三浦先生が来るまで、一人で寝かせて下さい。少し眠いから……」
「かしこまりました」
花松さんと侍医が、布団の側から立ち上がって、寝室から出ていく気配を確認して、私は布団の中でこっそりため息をついた。
(どうしよう……)
それも、2つの意味で、だ。
一つは、フランツ殿下の前で倒れてしまったから、十分な挨拶ができなかったこと。このまま午後の答礼に行けない、となってしまえば、一連のフランツ殿下の歓迎行事に、穴を開けてしまう。
そして、もう一つは、私の倒れた原因だ。
(何であの失恋が、フラッシュバックするかな……)
フランツ殿下が私の右手に口付けた瞬間、あの忌々しい光景が、突然眼前に広がった。前世の小学校最後のバレンタイン、あの手酷く失恋した瞬間が……。
(身体の反応からして、フラッシュバックによる精神的ショックで、血管迷走神経性の失神を起こした、ってことだよね……)
私は布団をかぶり直した。
色々なことが辛いし、悔しい。様々な思いが、心と頭の中で渦を巻きすぎて、この気持ちをどう吐き出せばいいか、それすらも分からない。
悶々としているうちに、ベルツ先生と三浦先生が同時にやって来た。2人は花御殿の職員さんたちに、私の倒れた時の状況について詳しく質問し、私の診察をして、
「血管迷走神経性の失神である」
と、私と同じ結論を出した。
「お疲れが出たのではないでしょうか。フランツ殿下を迎える準備も、色々と大変だったと聞いています。少し、ゆっくりなさる方がよろしいかと思います。今年は、避暑もなさっていないではないですか」
ベルツ先生はそう言って微笑んだ。
「そうですね、論文のことで、あなたたちとも議論していたし……」
北里先生がペニシリン発見の論文を執筆して、先月の半ばに「ドイツ医事週報」に投稿し、森先生がビタミンB1……じゃなかった、ビタミンA発見の論文を執筆して、つい数日前に、同じく「ドイツ医事週報」にそれを投稿したところだ。このビタミンAを、“史実”の通り「ビタミンB1」と呼ぶか、「ビタミンA」と呼ぶか、医科分科会のメンバーとも散々議論したのだけれど、結局、「この時の流れの中では最初に発見されたのだから、ビタミンAと命名するべきだ」という森先生の意見が通った。まあ、最初に発見されたビタミンが、2番目のアルファベットを付して呼ばれるのもおかしな話だし、ビタミンB1がビタミンAに変わっても、混乱するのは私の頭の中だけだ。
「それで先生方、私、午後に答礼に行ってもいいですよね?」
4、5枚積み上げられた座布団の上に乗った足を、少し動かしながら尋ねると、
「いえ、せめて今日明日は、療養に努めるようにお願いいたします」
三浦先生が真面目な顔で告げた。
「なんで?!答礼に行かないと、フランツ殿下に失礼になっちゃいますよ!」
「先ほどの血圧が、足を挙上しても、84の52……まださほど上がっておりません。この状況で無理をされれば、また倒れてしまいますよ、増宮さま」
「だけど……」
「それに」
反論を試みようとする私に、ベルツ先生が静かに言った。「殿下と、皇太子殿下の答礼は、明後日の夜に延期になるようです」
「え……?」
「伊藤閣下が、今、宮内省や外務省と調整されています。答礼は明後日、宮中での晩餐会が終わった後に、ということに……」
「?!」
私は目を見開いた。
(そんな……!)
「殿下?」
「私のせいだ……」
私は首を、ベルツ先生たちが座っている方向と反対に、くるっと回した。
「……ベルツ先生、頼みごとをしていいですか」
「なんでしょうか、殿下?」
「まず、伊藤さんと大山さんと兄上に、倒れてごめん、って伝えてほしいんです。それから、これは伊藤さんと大山さんの判断に任せるけれど、フランツ殿下と、宮内省と外務省と、それからお父様の所に、お詫びとお礼を伝えてほしいって、伊藤さんと大山さんに頼んでほしいんです。他にも、お詫びやお礼を言わないといけないところがあるかもしれないから、そういうところが他にもあったら、2人の裁量で付け加えて欲しいって……」
言いながら、悔しさと、自分の不甲斐なさに対する怒りが頭に渦巻いて、私は口を閉じた。
「かしこまりました。どうぞ、お大事になさってください。療養上の注意は、東宮付きの医師に指示しておきます」
ベルツ先生と三浦先生は、私に一礼して、寝室から去っていった。
(くそっ……!)
私は布団の中で、歯を食いしばった。
お昼過ぎになって、ようやく血圧が上がってきて、侍医さんから、起き上がってよいという許可が下りた。お昼ごはんを居間に持ってきてもらって食べた後、侍医さんが、透明な液体の入った大きなガラス瓶を持ってきた。
「これは?」
「経口補水液です」
「……飲まなきゃいけません?」
あのなんとも言えない味が口の中で蘇り、私はげんなりして質問した。
「ベルツ先生の指示です。念のため、多少摂取されて、休まれる方がよろしかろうと」
「……わかりました」
観念した私は、ため息をついて、ガラス瓶とコップを受け取った。
経口補水液は、前世では、医療設備が整っていない国で、下痢や嘔吐などによる脱水症状に使われる。私の時代の日本だと、そういう時は点滴してしまうのだろうけれど、この時代では、血管に針を留置して点滴をするなんて、まだまだ不可能である。だから、覚えていた経口補水液の組成を、ベルツ先生たちに相談しながら再現した。一度煮沸させた水に加えるのは、砂糖と塩と重曹と塩化カリウム……。ただ、塩化カリウムなんて、普通の家庭にあるものではないから、家庭でも作りやすい組成のものもあった方がいいと思い、砂糖と塩だけで作るレシピも伝えた。コレラや赤痢などの療養に活用してもらえるよう、病院や診療所に普及させてもらっている。
血管迷走神経性の失神は、脱水や過労でも引き起こされることがあるから、「リスクを一つでも消しておく」というベルツ先生の判断は間違っていないと思う。私は経口補水液を頑張ってコップ1杯飲むと、寝室に戻って横になった。目が冴えて眠れないかと思ったら、意外とすぐに眠気が訪れて、気が付いたら夜になっていた。
「……伊藤さんは、関係各所にお詫びをしてくれたのかな?」
晩御飯を居間に持ってきてくれた花松さんに尋ねると、
「万事お任せあれ、とおっしゃっておられましたよ」
花松さんが微笑した。「ですから、どうぞゆっくりご療養を。それが今の増宮さまのお仕事です、ともおっしゃっておられました」
「そうですか……」
私はため息をついた。
休むのが仕事……。確かにそうかもしれない。ならば、輔導主任の言に従うしかないだろう。現に、昼食の後も、気が付かない間に眠ってしまったのだから、身体が思った以上に疲れているのかもしれない。
夕食を食べ終わってお風呂に入り、真っ白な寝間着に着替え、また寝床に戻ろうとすると、「梨花」と廊下から呼ばれた。この花御殿で、その名前で私を呼び捨てにするのは、兄しかしない。入らないで欲しい、と返事しようとしたけれど、時既に遅く、居間の障子は開け放たれてしまった。
「どうだ、調子は」
普段着の和服と袴に着替えた兄は、私に微笑みかけた。
「……はい、大丈夫です」
私はその場に平伏した。
「迷惑を掛けて、本当に申し訳ありませんでした」
「どうした、急に改まって」
頭を深々と下げると、兄が頭上で苦笑する気配を感じた。
「身体の調子が良くなったのだけでも、まずは良かったと思っているのだぞ」
兄は私の側までやって来ると屈みこんで、私の頭を撫でた。
「でも、フランツ殿下の前で倒れてしまったし、答礼も延期になったって……」
「その話はまた次だ」
兄は私の頭を優しく撫でながら言った。
「議長も武官長も言っていた。今のお前は、休むのが仕事だ、とな。だから気にするなと言っていたが……気にしてしまうか」
兄の声に、私は身を固くした。
「とにかく、ゆっくり休め。今日はお前に負担を掛けてはいけないと、ベルツ先生にも言われたから、また明日来るよ」
もう一度私の頭を撫でると、兄は立ち上がって私の居間から出ていった。
(まったくもう……)
兄が部屋から出て行ったのを確認すると、私は大きく息を吐いた。
フランツ殿下の前で倒れるという致命的なミスを犯したのは、私だ。それも、前世の失恋がフラッシュバックするという、考え付く限り最低な原因で失神してしまった。
(こんな原因で意識を失ったなんて……最低すぎるし、誰にも言えない……)
もし伊藤さんに知られたら、「男性経験が少ないのですな」と、鼻で笑われてしまいそうだ。親王殿下や西郷さんが知ったら、格好のからかいのネタとして、これを活用するに違いない。大山さんや原さんや勝先生あたりが知れば、「修業が足りない」と一蹴されるだろうし……。
(とりあえず、寝るか……)
私は、頭の中で繰り広げられた惨状を、首を左右に振って振り払うと、寝室に通じる襖を開けた。昼間に寝てしまったので、夜は眠れないかと思ったけれど、いつの間にか意識は眠りへと誘われ、激しい雨風の音で目が覚めた時には、部屋は明るくなっていた。
(今、何時かな……)
この明るさでは、もう大分日が高くなっているかもしれない。いつも朝は6時半に起きているから、それよりは間違いなく遅いだろう。
(そろそろ起きないと、まずいよね……)
眠気が強く残る頭で、ぼんやりと考えていると、
「ああ、起きたか」
この部屋にいるはずのない人の声がして、いるはずのない人の顔が、視界に飛び込んだ。
「あ、兄上……」
一気に目が覚めた私は、慌てて、首を右に向けた。




