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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第13章 1893(明治26)年立夏~1893(明治26)年立秋
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接吻

 1893(明治26)年8月17日木曜日、午前10時過ぎ。

「ほら、増宮さま、そんなムスッとした顔をなさらないでください」

 私は、寝室の隅に置いてある鏡台の前に正座していた。着ているのは、新しく仕立ててもらった着物だ。濃紺の地に、花火の大輪の華が咲いている。その着物に、これも新しく仕立ててもらった白い女袴を合わせている。私の服装についてくだらない争いが繰り広げられた、4月の梨花会での桂さんの主張が通った格好だ。

「だって、お化粧するの、本当はすっごくイヤなんですもの」

 私の髪を後ろから櫛で()く花松さんに、私は不機嫌な表情のままで答えた。フランツ殿下がいらっしゃるので緊張してしまい、例によって、前夜はあまり眠れなかった。

「怒っていらっしゃいます?」

「それは、花松さんに、という意味?それとも、化粧をすることに、という意味?」

 花松さんに尋ね返すと、

「どちらでも、結構でございます」

櫛を使いながら、花松さんは答えた。

「……後者です」

 私は不機嫌に答えた。

「でも、私だって、身だしなみの一つとして、化粧をすることが要求される、ということは分かります。だから、皆が化粧嫌いの私のことを心配して、色々と策を練ったのでしょう?私に真正面から化粧しろとだけ言ったら、間違いなく反対されるから……。それが分かるから、あなたには怒っていません」

 花松さんは私の髪を梳くのをやめた。私の背中に向かって平伏するのが、鏡に映る。

「花松さん、頭は下げなくていいです」

「いえ……増宮さまを(たばか)りまして、本当に申し訳ありませんでした」

「だから、謝らないでください。策を見破れなかった私が未熟なだけです」

 私はため息をついた。自分の身近に、あんな策が張り巡らされていたなんて、正直、考えもしなかった。

(それに……大山さんにも、兄上にも、ああまで言われたらなあ……)

「……花松さん、申し訳ないけれど、フランツ殿下がいらっしゃるまで、あまり時間がありませんから、髪の続きとお化粧を、やってもらっていいですか?」

 確か、フランツ殿下が花御殿にいらっしゃるのは、10時半ごろだと聞いた。のんびり身支度していたら、時間に間に合わない。私の声に、花松さんは身を起こし、再び私の髪と櫛を手に取った。

淑女(レディ)として、上医として、か……)

 花松さんに長い髪を梳かれながら、私は考え込んでいた。

 これから、兄と一緒にフランツ殿下に会って、午後に、フランツ殿下の宿舎である芝離宮に、兄と一緒に答礼に訪問する。私は内親王で、お父様(おもうさま)の実質的な長女ではあるけれど、まだ10歳だ。だから、兄だけがフランツ殿下に会えばいいと思うけれど、なぜか先方から私に会いたいという要望があり、私もお供をさせられることになった。

(こんな子供に会いたいって、一体どういう考えをしているんだか)

「増宮さま……増宮さま?」

 花松さんに呼びかけられて、私はハッとした。

「何か、難しいことを考えておいでですか?顔がますます、しかめっ面になっておりますよ」

「ああ……ごめんなさい、花松さん。ええ、ちょっと色々考えていました」

 答えると、鏡の中の花松さんは軽くため息をついて、苦笑した。

「増宮さまは、華族女学校でも毎年主席になられて、その上、ベルツ先生や北里先生から、最新の医学の話もお聞きになって、森先生の実験のお手伝いもなさっておられます。本当に神童だ、という御評判で、わたくしも鼻が高うございますが、時々考えに夢中になられて、心ここにあらずという態になってしまうのが、少し心配ですわ」

「私の悪い癖ですね。大山さまにも似たようなことを注意されて、直すように言われましたけれど、どうしても、時折出てしまうみたい」

 花松さんの言葉を聞いた私も苦笑した。「でも花松さん、私の成績がいいのは、兄上にお勉強を教えてもらっているからです。それに、お裁縫の課題は、あなたも教えてくれるじゃないですか」

「うふふ、そうですわね。でも、筋はよろしゅうございますよ。あとは速度ですわ。……本当に、お元気でさえあればよいと思っておりましたが、余りにも増宮さまがお元気で、本当に素晴らしくていらっしゃるから、わたくしも、少し欲が出てきてしまいました」

 私の髪を梳き終わった花松さんは、ヘアゴムを取って、高い位置で私の髪を一つに結んだ。

「本当に、このヘアゴムというのは便利ですわね」

 そう言いながら、結んだ私の髪の根元を、白いリボンで飾ってくれる。

「さ、次はお化粧ですよ」

「はーい……」

「口を尖らさないでくださいな。せっかくのお顔が台無しですよ」

 花松さんはクリームを指に取って、私の顔に塗りこんでいく。今まで手にも使っていたクリームだから、不安は全く感じない。顔全体にクリームを塗り終わると、花松さんは私の肩から大きな白い布をかけて着物を覆った。そして、先日原さんが持ってきた、肉色の白粉の缶の蓋を取る。パフに白粉をなじませると、花松さんは、内から外に向かって、私の顔を優しく叩いていく。前世の幼いころに嗅いだ、あの強烈な化粧の匂いは一切しない。

(それにしても……)

 大山さんは、私がした接触性皮膚炎の話から、私の使う化粧品も刺激性の確認試験をしなければいけないと思い付いて、私が気付かぬ間に、確認試験を済ませていた訳だ。彼はもちろん軍人だから、医学の専門の知識を、体系だって勉強したことはないと思うけれど、それでも、接触性皮膚炎の話を完全に理解して、眼前の課題に対してそれを応用した。大山さんはいつか、私の機転や思い付きは、「余人が真似できるものではない」と評していたけれど、大山さんの頭の回転も、ものすごく速いのではないかと思う。私が小さいころは、そんな感じは全く受けなかったけれど……。

(京都で、君臣の契りを結んでからだよなあ、大山さんの雰囲気が変わったの……。でも、元々滅茶苦茶有能だったから、諜報機関のトップをやってるんだよね。なんで雰囲気が変わったか、聞いても、はぐらかされそうだなあ……)

「増宮さま?……また、何かお考えになっておられますか?」

 花松さんの声がすぐそばで聞こえて、私は目を瞬かせた。

「白粉を付け終わりましたよ」

 鏡の中の自分の顔を、じっと覗き込んでみる。

「あまり変わったように見えないんですけれど……本当に白粉を付けました?」

「ええ、付けましたよ」

 花松さんは微笑した。「薄くしないと嫌がられるでしょう、と大山閣下にも言われましたから、ごく薄く、付けさせていただきました。これでも、だいぶ肌の色が変わって、映えておられますよ」

「はあ……」

 ハッキリ言って、白粉を付ける前と後での違いが、私には分からない。

「もう少し、白粉を濃くつけましょうか?」

「謹んで遠慮させていただきます」

 花松さんに即答すると、彼女はクスっと笑みを零した。

「では、唇に、紅を付けますね。昔ながらのものですが、紅花の色素で作った紅ですよ」

 そう言って花松さんは、伏せていたお猪口を手に取った。お猪口の中は、キラキラ光る深緑色……玉虫色、と言うのだろうか、その色に一面塗られている。

「あの、花松さん、どこに紅があるんですか?」

 質問すると、「この器の中ですよ」と花松さんは答えた。

「器の中に、何もないじゃないですか」

 私のツッコミに、花松さんはふふ、と楽しそうに笑うと、「こう使うんですの」と、水を含ませた細い筆で、お猪口の縁をちょん、となぞった。その瞬間、筆の先で、玉虫色が鮮やかな(くれない)に変わった。

「!」

「うふふ、やっぱり驚かれた。質がよい紅は、乾かすと、玉虫色になるんですよ」

「へえー……」

 それは知らなかった。

「昔はたっぷり唇に塗って、唇を玉虫色に光らせるのが流行ったそうですけれど、増宮さまは薄付きの方がよろしいと思いますから、薄く塗らせていただきますね」

「ぜひそれでお願いします」

 鏡の中の花松さんに向かって、私は頭を下げた。紅の色の変化は面白いけれど、流石に、自分の唇が玉虫色に光るのはいただけない。

「章子、支度はどうだ?」

 花松さんが紅を塗り終わった時、兄の声が廊下からした。

「はい、殿下、もう少しでございますよ」

 花松さんが、私の身体に掛けた布を取り去りながら答えた。

「そうか。急いでおくれ。もう10時半になってしまう」

「?!」

 フランツ殿下がいらっしゃるのは10時半過ぎ……あと数分しかない。

「花松さん、これでお化粧はオッケー、じゃない、大丈夫なんですね?」

「はい。皇太子殿下もお待ちですから、お出になってください」

 セリフを聞き終わる前に私は立ち上がり、「ありがとうございました」と花松さんに一礼すると、慌てて廊下に出た。

「おお、……やはり、化粧をすると変わるな」

 侍従さんを従えた兄が、私を見てほほ笑む。兄は濃紺の、歩兵中尉の正装姿だった。袖章とボタンの金色が服によく映えて、兄がいつもより更に頼もしく見える。

「そう?私の目には、あまり変わっていないように見えるんだけど……」

「変わっているよ。普段より、美しさと華やかさが増している」

 首を傾げた私に、兄はこう言った。

「……あいにくのお天気になっちゃったね」

 私はわざと兄から視線を逸らして、庭を見た。朝から強い雨が、断続的に降っている。風もだんだん強くなっているようだ。台風が近づいているのだろうか。

「そうだな」

 不意に、ポンポン、と頭を優しく叩かれる。慌てて振り向くと、兄が私のすぐ左側にいた。

「恥ずかしいのか?」

「……っ、いや、そういう訳じゃ」

 思わず右下を向くと、

「なら、もう少し笑え」

と兄は言った。「化粧が嫌いなのは分かるが、むくれていたら、フランツ殿下にも失礼だろう」

「はーい……」

 返事をするや否や、

「さ、もう時間がないゆえ、行くぞ」

兄は私の左手を掴んで、玄関に向かって歩き始めた。


 花御殿の玄関に着くと、既に主だった職員さんたちが、フランツ殿下を迎えるためにスタンバイしていた。もちろんその中には、黒い大礼服を着た伊藤さんと、歩兵大将の濃紺の正装姿の大山さんがいる。職員さんたちは、私の顔を見た瞬間、「おお……」「素晴らしい……」と感嘆の声を漏らした。

(そんなに、お化粧すると顔が変わるものなのかなあ……)

 首を捻った私の前で、

「やはり思った通り……!」

伊藤さんは目を輝かせながら、何度も頷いていた。

「思った通り、何ですか?」

 冷たく尋ねると、

「お美しさに磨きがかかって……」

彼はそう言って、目を潤ませている。

「泣かないでください、伊藤さま。泣きたいのは私の方です。付けたくもない化粧を付けられて……」

 私がため息をつきながら輔導主任にツッコむと、

「おや、淑女(レディ)らしからぬご発言ですが、増宮さま?」

大山さんがニッコリ笑って私をたしなめる。

(くっ……)

 私はプイと横を向いた。やっぱり、この有能すぎる臣下には敵わない。

「はは……、ほら、章子、機嫌を直せ。もう、フランツ殿下がいらっしゃるぞ」

 兄の声で顔を前に向けると、ちょうど、馬車が何台か止まったところだった。扉が開いて、白い上衣を着た士官が降りてくる。鼻の下に八の字にひげを生やした彼は、続々と馬車から降りてくる人たちの中で、一番若いようだ。

(あれが、フランツ・フェルディナンド殿下、かな……?)

 この12月に、ちょうど30歳になると聞いた。前世の歴史の資料集で、暗殺される直前の時期に撮られた写真を見たことがあるけれど、それより身体つきが引き締まっている感じがする。20年余りの年月が、体型を変えてしまったということなのだろう。

(あの写真より、結構カッコいいかも……)

 そんなことを思っていると、花御殿の職員さんに先導されたフランツ殿下が、玄関に入った。

 すると、兄が微笑して、前に一歩進み出た。口から、日本語でも、英語でも、ドイツ語でもない言葉が飛び出す。

(これ……フランス語?!)

 兄がフランス語を話すところを見るのは初めてだ。確か2年前、ニコライ皇太子が来日してから、フランス語の勉強を続けていて、フランス人の先生も時々呼んでいるのは知っていたけれど……。

 通訳さんが目を丸くしているけれど、大山さんが兄を見ながら、微笑して頷いているのから察するに、恐らく兄のフランス語は完璧なのだろう。フランツ殿下も一瞬目を見張ったけれど、満足そうに頷いて、兄が差し出した右手を握った。

(すごい……)

 ぼーっと兄を見ていると、また兄がフランス語でしゃべった。「章子」という言葉が聞こえたから、恐らく私をフランツ殿下に紹介したのだろう。フランツ殿下が私を向いて微笑した。

「……初めて御意を得ます。章子と申します」

 日本語で言って、にっこり笑って右手を差し出す。フランツ殿下は通訳さんのドイツ語を聞くと、ニコニコしながら私に近付き、私の右手を取って、身を屈めた。

(あれ?)

 次の瞬間、信じられない光景が、私の目の前で展開された。

 フランツ殿下が、私の右手の甲に自分の顔を近付けると――口付けした。

「?!」

 それを認識した刹那、私の脳裏に、忌々しい記憶が蘇った。

 誰もいない小学校の教室で、キスを交わす少年少女。

 それを見せ付けられて、呆然としている私――。

(あ……)

 鼓動が早鐘に変わり、身体中の血が、渦を巻いて私に逆らって、目の前が真っ暗になって……。

 私は、意識を手放した。


※この時代、西洋からの口紅も入って来ていますが、主流は、江戸時代からある、ベニバナから抽出した紅です。お猪口や板に塗り付けて売っていたとのこと。せっかくなのでこちらを採用しました。まあ、天然素材ですしね。紅を塗り重ね、玉虫色にするのが流行したのは江戸時代後期だそうです。

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