お化粧包囲網(1)
「だから、絶対いや!」
1893(明治26)年8月13日、日曜日。
私は朝から、目を怒らせて、自分の居間で叫んでいた。
「増宮さま……」
私の前には、花松さんがいる。
「どうしても、ダメですか?」
「ダメです。絶っっっっっ対に、どうしても、だめです!」
私は花松さんを、キッと睨み付けた。
こうなったのには、もちろん訳がある。
オーストリアのフランツ・フェルディナンド殿下は、世界一周旅行の途上、8月2日に長崎港に到着された。8月17日に東京に入り、花御殿を訪問されることになっている。その時の私の服装は、和服に女袴ということに既に決まっていた。
ところが、そこに花松さんが、
――お化粧をなさるべきですわ。
と、今朝になって横槍を入れたのだ。
――花松さん、あなたが私に仕える時に、どういう条件を付けたか、覚えていますか?
私は花松さんを見ながら、静かに言った。
――覚えております。増宮さまに仕えるならば、絶対に、白粉は使うなと……。
――あれは、私が小さいころから化粧の匂いが苦手、ということもありますが、それだけではありません。宮中では撤廃されていますが、禁止令を出しても流通が止まらない、鉛を使った白粉……。鉛中毒を引き起こして、小児や乳児では、特に重篤な症状を起こしてしまいます。そんな危ないものを、この身に近づけたくないし、私に仕える人にも使ってほしくないんです。花松さん、あなたは私に、そんな危ないものを肌に付けろ、というのですか?
私の反論に、些かも動じずに、
――ですが、増宮さま。恐れ多くも、増宮さまは内親王であらせられるのですから、フランツ殿下に、内親王殿下らしく、美しく装ったお姿を見せていただきとうございます。そのために、なにとぞ、お化粧を……。
花松さんはこう言って最敬礼した。
――ふざけないでください、花松さん!
私は声を荒げた。
――害を及ぼす化粧品を使ってまで、美しく装わないといけないのですか?それは……医者を目指している私としては、絶対に、受け入れられません!
そして、“美しさを優先するべきだ”という花松さんと、“健康を優先するべきだ”という私の論争は際限なくヒートアップしてしまい、今に至ったという訳だ。
「そうですか、それでは、皇后陛下にも、ご相談しなければなりませんが……」
言い争うこと約10分。花松さんが息を荒げながらこう言った。先日はこのセリフで、ディバイデッド・スカートを着るのを承知せざるを得なかったけれど、今回は事情が違う。
「言っておきますけれど、花松さん。お母様も、私がお化粧や香水の匂いがダメなのはご存知です。それでお父様が、香水を使うのを止められたぐらいですもの。もし、お母様が、私に化粧をして欲しいと思ったのなら、お父様の香水の匂いに慣れさせるようになさったはずです」
私は即座に言い返した。「ですから、お母様に相談しても無駄です。諦めてください」
花松さんは無言で私を見つめると、唇を引き結んだ。ここ数か月で綺麗になった花松さんの顔に、皺が刻まれる。
と、
「おお、やっておられますなあ」
廊下に面した障子が開けられて、紺色のフロックコートを着た私の輔導主任が現れた。その後ろには、軍服姿の大山さんと、黒いフロックコートをまとった原さんがいる。
「あなたたち……一体、何をしに来たの?」
私が眉をしかめるのと、
「ああ、伊藤さま」
花松さんがため息をつきながら呼びかけたのは同時だった。
「申し訳ありません。やはり、わたくしでは駄目でしたわ」
「なんの、花松どの、役目は十分に果たしてくださった。後は、わしらに任せてください」
「伊藤さま?」
私は伊藤さんを睨んだ。「その話しぶりからして……花松さんをけしかけたのはあなたですか?」
「けしかけたとは、人聞きの悪いことをおっしゃいますなあ、増宮さま」
伊藤さんは微笑した。
「輔導主任としても、女性の身だしなみとして化粧は大事と思うゆえ、花松どのと相談したのですよ」
「ふーん……」
私は伊藤さんたちをジロリと見た。「どうやら、本気で、伊藤さまの認識を修正しないといけないみたいですね」
「ほう?」
伊藤さんが私を見やった。
――やれるものならやってみなさい、増宮さま。
彼の視線は私にそう言っていた。自信に満ちた瞳は、彼の政治家としての経験と知識と記憶の豊かさを物語っているかのようだった。
だけど、例え伊藤さんが偉大な政治家であるとしても、私だって、未来の医療知識を持つ医者の端くれなのだ。伊藤さんの知らない知識を駆使すれば、私にも彼を説き伏せるチャンスがある。
「では、増宮さまに敬意を表して、わしも本気で議論させていただきましょうか」
伊藤さんは微笑すると、花松さんに下がっているように言った。余裕綽々なのは、私など簡単に説き伏せられると踏んでいるからだろう。
(医者を舐めて掛かって、後で後悔しても知らないわよ)
私は伊藤さんを睨んだ。
「さて……確認しておきますが、増宮さまが化粧を嫌がる理由は、匂いが苦手だからでしたな?」
椅子に腰掛けると、伊藤さんは私に確認した。
「一つの理由はそれであっていますけど、転生してから理由が増えました」
「白粉に、鉛や水銀など、口から摂取すれば危険な物質が含まれているから……か」
伊藤さんの横に座った原さんが言う。初めて出会った2年前は、まだ黒いところが残っていたけれど、彼の頭は、今や全面が白髪で覆われていた。
「その通りです、原さん。流石に、私の時代に、そんな物騒なものは化粧品に使われていませんでした」
私は静かに答えた。「もしそんなものが私の時代も使われていたら、私の時代の乳幼児の死因の上位に、鉛中毒による脳膜炎があったはず。“史実”の私だけではありません。私の今生の兄や姉も、何人もそれで亡くなっているのに、“史実”の私や身内を死に追いやった原因を、身体に付ける訳にはいきません」
「なるほど。確かに道理ですな」
意外にも、伊藤さんは私の言葉に同意した。
「ですが、鉛や水銀を使っておらぬ白粉なら、どうですかな?」
「それは、鉛を使った白粉より、化粧のりや伸びが良くないんでしょう?去年のお正月に、あなたからそう聞きましたよ。それでは、あなたが思い描く完璧なお化粧ができないのではないですか?」
私が反論すると、
「では、鉛白粉に匹敵するような品質の、無鉛の白粉ならば?」
伊藤さんはこう続けた。
「産技研で研究させると言った奴ですか?だけど、去年視察に行った時には、そんなものを研究している部署は無かったですね?」
「増宮さまに極秘で研究していたとしたら?」
「何ですって?」
私が眉をしかめると、伊藤さんは、「原君、あれを」と、隣の原さんを見た。原さんはフロックコートのポケットから、掌に納まるサイズの平たい缶を取り出した。
「これは?」
「産技研で極秘に研究させていた、主治医どの専用の白粉だよ」
原さんはニヤリとした。
「な、何ですって……」
「主成分は酸化亜鉛だ。それを、色素で肉色にしてある」
「に、肉色……」
一瞬、鮮紅色の肉の塊を想像したけれど、すぐにそれが間違いだと気付く。私の時代で言う、肌色のことだ。
「ちょうど、“史実”では、皇太子殿下と節子さまのご婚儀の頃にできて、飛ぶように売れたのだ。“史実”では開発に8年ほど掛かったが、わたしが成分をある程度覚えていたから、1年余りで完成したな」
「専用のクリームを塗ってから付ける方式でしてな。先日、芸者衆にも試してもらいましたが、評判は上々でしたな」
「ちょ……ちょっと待ちなさい」
私は原さんと伊藤さんを睨んだ。「芸者さんが大丈夫でも、私がダメでしょう。匂いがあるから」
「そうか?」
原さんが素早く缶の蓋を開ける。私がその場から飛び退くよりも早く、原さんは缶の中身を私の鼻先に突き付けた。
「あれ……?」
うっかり鼻から息を吸ってしまったけれど、あの、むせ返るようなキツイ匂いがしない。
「お化粧の匂いがしないけれど、これ、本当に化粧品?」
「ああ」
原さんは、楽しくてしょうがない、という表情で私を見た。「舶来の化粧品には、香り付けがふんだんにされている物が多い。話を聞くと、どうやら主治医どのの時代でもそうだったようだな。確か、主治医どのの前世の母上が使っていた化粧品も、輸入したものと言っていたな?」
「?!」
そう言えば、前世の母が使って、私が気を失う原因になった化粧品は、確かフランス産だった。
「それゆえ、この白粉は、香り付けを全くしないように指示したのだよ。この3か月ほど、花松どのにも付けてもらっていたが、主治医どのは匂いに気が付かなかったようだな」
「そんな……?!」
私は目を見開いた。
(そう言えば、確かに花松さんの肌が、最近綺麗になったような……)
――役目は十分に果たしてくださった。
さっき、伊藤さんが花松さんにこう言っていたけれど、まさか……。
「まさか、伊藤さんが花松さんにさっき言った“役目”というのは、化粧をするように私を説き伏せることではなくて、新しい白粉の匂いが、私に気づかれないかどうかを試験すること……」
「察しがいいですな。流石増宮さま」
伊藤さんが微笑んだ。「花松どのは、増宮さまのお側近くに仕えていらっしゃる。互いの肌と肌が触れ合ってしまうような距離に近づかれることも多い。吾妻山の噴火の直前からつけていただいていましたが、増宮さまは、全くお気づきにならなかったようですな」
「……!」
そう言えば、花松さんは私の髪型を直すこともたまにあるし、ドレスの採寸や試着の時も、本当に肌が触れるような距離にいた。確か、ドレスの採寸をしたのは吾妻山の噴火の直後だったから……。
(いつの間にか……包囲網が敷かれていたのか……)
「去年の正月、確か主治医どのは言ったな。“私が成人するまでに、もし私が使えるような、安全な白粉が出来たら、使ってもいい”と……」
原さんの瞳が、獰猛な輝きを帯びている。
(く、くそー……)
私は、必死で頭を回転させた。私の持っている医学の知識で、何か反撃に使えるものがないか……。
(あ!)
もしかしたら、ここを確認してみる手はあるだろうか?
「……伊藤さん、芸者さんに使ってもらったって言ってましたけど、どんな状況で使ってもらったんですか?」
私は口を開いた。
「ん?宴席で、ですが?」
伊藤さんが不思議そうな表情になった。
「どういう風にして、つけてもらったの?つけた身体の部位とか、方法とか……」
「部位、ですか?額や頬にですが……」
「伊藤さん、その白粉やクリームを付けてもらったところの皮膚に、病変ができたかどうかは確認しなかったの?」
「病変……?」
伊藤さんがキョトンとした。その顔を見て、
(行ける!)
私は心の中で、ガッツポーズを決めた。
「例えば、白粉やクリームを付けた後に、ただれてしまったり、水疱が出来たり、というところまでは確認していないんですね?」
「は、はあ……」
「最低じゃないですか?」
私は戸惑う伊藤さんを、わざと睨み付けた。
「は?」
「人の肌に付着させる化粧品の、刺激性の確認試験をきちんとしていないなんて!」
「刺激性の……確認試験……?」
呟く伊藤さんに、
「いいですか、伊藤さん」
私は更に追撃を加えるため、口を開いた。
「私は化粧品が好きじゃないけれど、一般的な皮膚科学の知識は持っています。接触性皮膚炎という病気がありますけれど、伊藤さんは知らないでしょう」
「接触性皮膚炎?」
「ええ、原さん」
私は一つ頷くと、首を傾げている原さんを見やった。
「接触性皮膚炎の原因は、アレルギー性と刺激性に分けられます。以前ベルツ先生たちには話したことがあるけれど、アレルギーというのは、大雑把に言うと、人間の身体を守る“免疫”という仕組みが誤作動を起こして、人間に害を起こすこと。そして、刺激性というのは、刺激物の過量の接触や、皮膚から刺激物が過剰に吸収されて起こってしまう接触性皮膚炎。どちらにしろ、紅斑や水泡などが出現してしまいます。そんな危険があるから、新しい化粧品を開発するときには、きちんと、肌に対する刺激性の確認試験をするのが必須。伊藤さんの方法では、不完全な試験になっています。白粉やクリームを試してもらった人の皮膚症状を追跡していないなんて、医学上あり得ないわ!」
上級医っぽい態度でビシッと言うと、
「う……!」
原さんの顔が青ざめた。伊藤さんも顔をしかめて、じっと私を見ている。
「ああ、そうだ、アレルギー性の皮膚炎に関しては、刺激物との繰り返しの接触が発症に関わるけれど、刺激性の接触性皮膚炎は、刺激物に触れたら、人によっては一発で皮膚症状が出ますよ。……もし私がお化粧して、顔に湿疹でもできたら、どうすればいいですか?フランツ殿下に、失礼になっちゃうかもしれませんね」
「ぐ……」
伊藤さんが青ざめて、うめき声をあげた。
「増宮さまの美しい顔が、傷つけられてしまう可能性があると……」
「ちょっと突っ込みたいところはあるけれど、まあイエスです」
私は頷いた。快哉を叫びたいのを、必死に堪える。
勝った。
たとえ相手が経験を積んだ政治家であろうとも、論理の綻びさえあって、適切な言い分を用意できれば、十分に反撃のチャンスはある。そして、その反撃で、相手を打ち砕くことだって可能なのだ。
(ふっ……医者をなめんじゃねえ!)
私が会心の笑みを零した瞬間、
「済んでおりますよ?」
今まで一言も発しなかった大山さんが、口を開いた。
※章子さんが言ったアレルギーや接触性皮膚炎のメカニズムについては、本当に大雑把な話ですので、ご了承ください。




