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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第13章 1893(明治26)年立夏~1893(明治26)年立秋
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感染症予防法と海港検疫法

※地の文を一部修正しました。(2019年5月6日)

 1893(明治26)年5月27日、土曜日。

 “防災の日”であるこの日は、華族女学校(がっこう)で避難訓練があったので、私の帰宅が遅くなり、ベルツ先生たちとの会合は午後2時半からになった。

「本当ですか?!」

 北里先生の言葉に、私は思わず椅子から立ち上がった。

「ペニシリンが……単離出来たって……!」

「はい」

 北里先生は、満面の笑みで私に頷いた。

 昨年のちょうど今頃、日本に帰国してから、北里先生はアオカビが産生するペニシリンの単離に取り組んでいた。目的とするアオカビは割とすぐに見つかり、それを大量に培養して、ペニシリンの単離を試み、抽出された物質を、連鎖球菌を注射されたウサギに注射する、という実験を続けていたのだ。それが、とうとう実を結んだ。

「よかった……!」

 私は北里先生の側まで歩み寄って、彼の手を取って押し頂いた。

「先生、本当にありがとうございます!」

「ま、増宮殿下!なんともったいないことを……」

「もったいなくなんかありません。私は一人の医者として、先生にお礼を言っているんです」

 “史実”では、原さんが死ぬまでには、ペニシリンは薬として使われていなかったそうだ。どうやって薬として使える形にするか、考えなければならないけれど、少なくとも最初の一歩は踏み出せたことになる。

「そんな、論文も、まだ一行も書けておりませんのに……」

 北里先生は、頬を赤く染めてうつむいた。

「ふふ、北里君、いいじゃないか」

 森先生が北里先生に微笑を向けた。「今までの増宮さまのお話からも類推できるが、これは世界的な発見……。それとも、君はこの発見が、増宮さまに手を押し頂かれるほどの価値がない、と思っているのかね?」

「そ、それは……」

 北里先生がそう言って口ごもる。顔がますます赤くなっていた。

「ならば、黙って受けたまえ。……羨ましいよ、北里君」

「ええ、全く」

 三浦先生が、森先生の言葉に同調して頷いている。ベルツ先生も、黙って首を縦に振っていた。

「ええと……。そういえば、色々な医学関係の研究の進捗状況って、今、どうなってるんですか?」

 森先生たちの感覚が、若干ずれているような気がしたけれど、私はそれを無視して、自分の椅子に戻るとベルツ先生に質問した。

「最近、私の時代の医学について、話し合っていることが多かったから、一度確認しておきたいんですけれど……」

「なるほど、確かに道理です」

 ベルツ先生は一つ頷いて、森先生に視線を向けた。

「まず、森君のビタミンの方はどうなっているのかね?」

「はい、実は……」

 森先生はそう言うと、カバンの中から、ガラスの瓶を取り出した。黄褐色の砂のようなものが中に入っている。

「増宮さま、この水溶液を、脚気ニワトリに投与してみたいのですが」

「これは?」

「糠のアルコール抽出物を、エーテルで処理したのちに、リンウォルフラム酸を加えて沈殿させたものです。沈殿物を取り去ったのちの溶液も、こちらに持参していますが……」

「ごめんなさい、森先生、リン……は分かるけれど、ウォルフラム……って何ですか?」

「失礼いたしました。ウォルフラムとは、タングステンのドイツ語読みです」

「タングステン……ああ、電球のフィラメントに使う金属ですね。了解です。ちょうど、脚気ニワトリが10羽ぐらいいますから、それにその2つを投与してみましょう。今日は後で山縣さんと原さんが来て……」

 私は机の上に置いてあった手帳を繰った。前は、大蔵省の印刷局が作った「当用日記」というものを、スケジュール帳代わりに使っていた。けれど、1ページに付き1日分しか書きこめなかったので、イギリスから取り寄せた、見開きで1週間分の予定が書き込める手帳を使っている。

「明日は、お母様(おたたさま)の誕生日で、朝に参内しないといけないから、明日の午後に投与を始めますね」

「承知しました」

 森先生が一礼した。

「三浦先生のコホート研究の方はどうですか?」

 三浦先生の方を向くと、

「ええ、準備は順調に進んでいます」

三浦先生は、いつもの春風のような笑顔で答えてくれた。

「忍町の町長をはじめとする役所の皆さんや、忍町で開業されている医者(せんせい)たちにも計画を説明して、賛同を得ました。住民たちの反応も上々でした。後でお礼を申し上げなければなりませんが、山縣閣下と原閣下のおかげで、埼玉県からも支援を得られることになりました。内務省から、研究費も出ましたし……」

(すごくいい仕事するわね、あの2人……)

 忍町に視察に行った後、山縣さんと原さんにコホート研究の計画を伝えたのが4月初め、私と兄が御料牧場に行く直前だったけれど、それから2か月弱で、関係者の賛同や行政のバックアップも得られるとは……。

(下手すると、研究費だって、来年度の予算に回される可能性だってあったわけだし……山縣さんが配慮してくれたってことなのかな?)

「エリーゼ先生も協力してくれていますし、具体的な研究の立案も進んでいますよ」

 三浦先生がこう言った瞬間、

「エリーゼ……?!」

森先生が目を瞠った。

「森先生、どうしたんですか?まさか……エリーゼ・シュナイダー先生とお知り合いなの?」

 私がヴェーラの偽名を挙げて尋ねると、森先生は「あ、いえ……」と力なく呟いて、「そうか、シュナイダー……」と、吐息を漏らした。そんな森先生を見て、ベルツ先生と北里先生と三浦先生が、目配せし合っている。

(ん……?)

 何か曰くがありそうだけれど、突っ込んで聞いたらいけない気がする。特に、今は。

「村岡先生と島津さんのレントゲン装置が出来たら、そちらのコホート研究に投入したいですね」

 私はわざと真面目な顔を作って、こう言った。

 すると、

「増宮殿下、違います」

ベルツ先生が首を横に振った。「レントゲン、ではありません。エックス線です」

「あ!」

 私は、開いた口を右手で押さえた。

「そうでした。レントゲンは、村岡先生のお師匠さんのお名前でしたね」

 ヴィルヘルム・レントゲン先生。“史実”でエックス線を発見し、第1回のノーベル物理学賞を受賞した人だ。ただ、前世(へいせい)では、エックス線写真のことを「レントゲン写真」や「レントゲン」と呼ぶことも多い。去年、村岡先生と島津さんに、エックス線のことを説明した時にも、つい「レントゲン」と言ってしまい、

――恐れながら、レントゲンというのは、私がドイツでお世話になった、レントゲン先生のことでしょうか……。

と困惑されながら尋ねられてしまったのだ。それ以来、“エックス線装置”と言うようにしているのだけれど、つい、口に出てしまった。

「エックス線装置の進捗状況は、どうなっているんですか?」

「目星がついてきたそうですよ」

 私の質問に、大山さんが答えてくれた。「先日、健次郎どのが、そのような手紙を村岡先生から受け取った、と教えてくれました」

「そうか……頑張ってほしいな。そうしたら、胸部のエックス線写真は、コホート研究に取り入れたいし、胃や腸のバリウム検査もやれるといいな……」

 胸部のエックス線写真は、私の時代でも、健康診断の項目に取り入れられていることが多い。胃のバリウム検査も、私が前世で死ぬ直前では、内視鏡に取って代わられる場面が多かったけれど、胃がん検診として現役ではあった。

(内視鏡を一足飛びに開発なんてできっこないから、当面は、バリウムでの検査法を確立するしかないなあ……)

 そんなことを考えていると、

「緒方先生のマラリア感染成立を実証した論文も、3月のドイツ医事週報に載りましたし……いや、ご自身の身体を張っての実験とは、恐れ入りました」

三浦先生がため息をつきながら言った。

 昨年の7月、緒方先生は、滋賀県の三日熱マラリア患者から吸血させたハマダラカを、生きたまま、マラリアの非流行地である仙台に持っていき、そこでその蚊に、自分と志願した助手さんから吸血をさせた。結果、2人とも三日熱マラリアに感染した。回復したのち、それを論文にまとめて投稿したのだ。

「緒方先生も助手さんも、キニーネの投与で回復したからよかったけれど、アルテミシニンの製剤化が出来ていないのに、マラリア原虫がキニーネに耐性化しちゃったらって、すごく心配しました……」

 眉をしかめた私に、

「まあ、アルテミシニンも臨床試験の段階に入りましたから、もうすぐ製剤化ができるのではないでしょうか」

ベルツ先生がなだめるように言った。長井先生はアルテミシニンの誘導体を作成して、その中から、水溶性が高く、なおかつマラリア原虫に対しても効果を出すものを選び出そうとしているところだった。だけど、薬用植物からの物質抽出も彼の担当だから、これ以上の仕事は割り振れないだろう。その意味でも、人材の育成が急務だ。

「抗結核薬の方も、石神君が、有望な放線菌を見つけたようですよ」

「!」

 北里先生の言葉に、私は目を真ん丸にした。だけど、すぐに肩を落とした。

「うーん、欲を言うと、抗結核薬は、せめて2種類欲しいです。抗菌薬も、ある程度の種類を……」

「なるほど、以前おっしゃっておられた、耐性菌の問題ですね。マラリア原虫もそうですが……」

「その通りです、ベルツ先生」

 私は頷いた。

 不適切な抗菌薬や抗結核薬の使い方をすると、その使った薬に対して抵抗する菌が出現してしまう。こういった菌を、私の時代では“耐性菌”と呼んでいた。いくつもの薬に抵抗できる耐性菌が出現して、医療現場では問題になっていたのだ。

「なるべく耐性菌を生み出さないように、適切に薬を使うルールを作らないといけないし。それから、感染症を伝播させないような体制も整えないといけませんね……」

「ふふ、そのために今日は、山縣閣下と原閣下をお呼びになったのではありませんか?」

 そうでしたね、とベルツ先生に答えようと思った瞬間、廊下から花松さんが私を呼ぶ声がした。

(ああ……噂をすれば、かな?)

 廊下に面する障子を開けると、

「増宮さま、山縣閣下と原閣下がいらっしゃいましたよ」

障子のすぐそばに立っていた花松さんが、私にこう告げた。

「ありがとうございます。では、こちらにお2人ともご案内して、お2人のお茶を……私が淹れにいきましょうか」

「大丈夫ですよ、増宮さま。お2人をご案内したら、わたくしがお茶を持って参りますから。増宮さまはどうぞ、ベルツ先生たちとお話をお続けになっていてください」

「そうですか?では、お任せします。いつもありがとうございます」

「気になさらないでください。わたくしは、増宮さまがお元気であれば、それでようございますの」

 花松さんが一礼して、玄関に向かうのを見届けると、私は障子を閉じた。その時、ふと、首筋に刺さる視線を感じた。発せられた方向を振り返ると、三浦先生がいた。いつも穏やかな瞳が、少し曇っている気がする。

「あの……三浦先生、どうしました?」

 私に声を掛けられると、三浦先生はパッと表情を変え、「いえ、何でもありませんよ、増宮さま」と、いつもの春風が吹くかのような笑顔を見せた。


「さて、俊輔にも目を通してもらった、条文のたたき台を持ってきましたが……」

 私の居間に入った山縣さんと原さんに、花松さんがお茶を出して下がると、山縣さんが何枚かの紙を取り出して、テーブルの上に置いた。

「感染症予防法、ですね」

 私の時代では、もっと長い名前が正式名称だったはずだけれど、「感染症法」とか「感染症予防法」とか呼ばれていた。その前身となる「伝染病予防法」が“史実”で制定されたのは1897(明治30)年、と原さんに聞いたけれど、それをいち早く制定することにしたのだ。

――日清戦争では、皇族方の戦病死もあったように記憶している。トラコーマも、戦争帰りの兵士から流行した。コレラや赤痢の患者も多かった。

――それを戦訓として、日露戦争では、伝染病の予防に力を置いたがゆえ、コレラ患者は出なかったが、脚気の患者は多く出たな。増宮さまのおかげで、脚気には対策が取れますが、今後のことを考えれば、国軍内の衛生対策、そして日本国内の伝染病予防のため、法律を制定しておくのがよいでしょう。

 2月に入ったばかりの頃だったか、原さんと伊藤さん、そして大山さんと私で話し合い、感染症予防法の制定をすることに決めた。法律の原文を作る期日は、今年11月の、帝国議会の開会までだ。その11月からの議会で、法律を賛成多数で通過させたい。

 感染症予防法で感染症として指定される病気は、私の時代の感染症法で指定されていたものを基本にしたけれど、その中には、エボラ出血熱やクロイツフェルト・ヤコブ病など、まだ発見されていない病気もある。また、マラリアやトラコーマ、天然痘など、この時代の日本に残っている病気もある。どの病気を感染症として指定するか、指定した病気に関しては、どのような扱いをするか……それも検討しなければならない。ただ、こちらはベルツ先生が、私の話と自分の知識をもとに、感染症を、防疫のために取るべき対策によっていくつかのグループに分類したリストを作成してくれて、既に山縣さんに渡していた。

「……多分これで、やりたいことは全部入っているように思います。どうでしょう、先生方」

 私は、山縣さんから渡された紙を読み終えると席を立ち、森先生に紙を渡した。ベルツ先生と北里先生と三浦先生が、争うように森先生の側に寄り、文章に目を通し始める。

「はい、私はこれでよいのではないかと愚考します」

 森先生が頷いた。

「うん、文学者の森君が言うのであれば、大丈夫でしょう。……最近、文学作品の発表が無いのが残念ですが」

 微笑みながら言うベルツ先生に、

「ベルツ先生、お言葉ですが、最近は文学よりも医学の方が、特にこのビタミンの実験が、面白く思えるのですよ」

森先生は真剣な表情で言い返した。

「それから、こちらが、“海港検疫法”になります」

 更に、原さんが、何枚かの紙をうやうやしく私に差し出した。感染症予防法は、国内で発生した感染症に関しての法律なのに対して、こちらは国外から、病原体が侵入しないようにするための法律だ。主に念頭に置いているのは、まだ日本国内で発生はしていないペストだけれど、新しい病気が発見されれば、それに対応して書き換えて行かなければならない。そしてもちろん、飛行器が発展して、外国からの飛行器がやってくるようになれば、そちらも念頭に置いて法律を改正しないといけない。

「……流石に、私の時代の法律の全文は覚えていないですけれど、恐らく、検疫業務としてやるべきことは入っていると思います。北里先生、読んでもらっていいですか?」

 さっと目を通して、紙を北里先生に回す。

「ふむ……私も、これでよろしいように思います。ただ、実際に運用してみないと分からない、という箇所も少しありますね」

「ですね。わたしも原文を作成していて、それは感じました」

 原さんが言う。ただ、彼の頭の中には、“史実”での経過が入っているから、実際に、運用しやすいように条文を工夫しているのだろうと思う。

「しかし、わしは原君の文章でよいように思った。流石は原君だよ」

「恐れ入ります、閣下。ただ、伊藤閣下や山田閣下にも、一度お目通し願えれば万全かと」

 山縣さんの声に、原さんは深々と頭を下げてこう言った。一昨年の1月以来、もう2年経つけれど、山縣さんと原さんのコンビは、非常にうまく機能しているようだ。

「そうか、それではその件は、原君に任せよう。俊輔や市之允と連絡を取り給え」

「承知しました」

 原さんが一礼した。

「わしもやらなければならないことがあるが、こちらは話を付けておきましょう」

 山縣さんがこう言って私を、ついで大山さんをちらと見た。

(国軍の関係のことね……)

 将兵の検疫は国軍の手でやらなければいけないから、国軍省の省令で規則を決める必要があった。もし、国軍の将兵が海外に派兵される事態になったら、その人たちが帰国する時に、検疫をしなければならない。“史実”の日清・日露戦争並みの将兵動員数になれば、検疫作業は膨れ上がるだろう。

――それに対応できるよう、国軍でも規則を整えねばなりませんな。

 山縣さんに感染症予防法のことについて話した時、彼が指摘したのはそのことだった。そして、大山さんと一緒に、国軍大臣の西郷さん、参謀本部長の児玉さん、国軍次官の山本さん、そして高木軍医局長に、話を付けてくれることになった。

「お願いします、山縣さん」

 私は山縣さんに微笑を向けると、椅子に背を預けた。

「はあ……これで、法律の原文が、議会の開会までに作れるめどが立ったんですかね?まだまだ、やらないといけないことがたくさんあるけれど……」

 たとえば、上下水道の設置だ。ウィリアム・バルトンさんが計画を立ててくれて、資金のめどもつき、既に、東京での浄水場と下水処理場の起工はされている。ただ、伊藤さんと原さんによると、“史実”では、この水道に使う鉄管に関して、不正事件が起こり、時の東京市の市長が辞職するなど、政治が大混乱に陥ったとのことだ。でも、以前、

――そこは日本鋳鉄株式会社……まだ合資会社ですが、そこをきっちり取り締まらないといけないですね、伊藤さん。確か、製造段階で多数発生した鉄管の不良品を、検査に合格した品だと偽って納入していましたが……。

――うむ。“史実”のように、国産品に限るのではなく、初めから必要とあれば外国製品も使うことにして、工事を円滑に進めなければならない。日本鋳鉄は、勝先生にお願いして、社長の赤松男爵に釘を刺しておくか。確か、旧幕時代の海軍伝習所で、勝先生と机を並べていたはずだ。つまらぬことで、増宮さまの足を引っ張られたくはない。

原さんと伊藤さんが、凄みのある微笑を顔に浮かべながら話していたので、多分大丈夫だろうとは思う。日本鋳鉄の鉄管の鋳造技術もなるべく高めて、製造段階で不良になってしまう製品の数を減らすような方策を取ってほしい、ともお願いしたし……。

(それから、消毒用アルコールのことか……)

 私の時代では一般的だった、手指のアルコール消毒。その用途に適切なアルコールの濃度を決めなければならない。

 更に、感染症や日々の衛生に関しても、何らかの形で国民に教育する機会を設けるようにしないと、急に検疫が必要な事態が発生した時に、円滑に作業が進まない可能性がある。例えば、今から10数年前、1879(明治12)年には、コレラの防疫のために消毒をしようとしたら、「消毒で危害が加えられる」と住民が反感を覚えて消毒を拒否され、結局そこからコレラが大流行するという事態が起こったそうだ。その話を聞いて、国民全体に対する教育が必要ではないかと私は思ったのだ。

「殿下」

 ベルツ先生が私を呼んだ。「それでも、殿下の知識で、医療が進んでいることは確実です。一つ一つ、過程を積み重ねていかなければ」

「はい……分かっています、ベルツ先生。ローマは一日にして成らず。千里の道も一歩から、ですよね?」

 私が答えると、

「ええ、医療に限らず、何事も、ですよ」

私の横に座った大山さんが、ニッコリ笑った。

※手帳の日本での始まりは、横浜の文寿堂が作ったのが最初とされていますが、いつから販売したのか、資料によってまちまちでハッキリしませんでした。イギリスでは1812年にすでに現在のスケジュール帳に近いものが作られていたので、章子さんにはこちらを使ってもらいました。


※軍での規則云々……に関しては、当時の法体系に関して全く素人なので、推測を交えて描いています。ご了承ください。

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― 新着の感想 ―
[一言] 東京市水道汚職…都市計画の話とか近代汚職史の話でよく出てきますね。
[一言]  このまま、未来知識による医療改革、科学技術が発展したら、日本のノーベル賞受賞者の数がえぐいことになりそう。しかも、後世にこのノーベル賞は、未来技術につながらなかったなとか、ほとんど思われず…
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