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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第13章 1893(明治26)年立夏~1893(明治26)年立秋
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吾妻(あづま)山と衣装騒動

※地の文を一部修正しました。(2019年5月2日、2019年5月3日)

※一人称ミスを修正しました。(2019年5月10日)

 1893(明治26)年5月21日、日曜日。

「やっぱり噴火したな、吾妻山(あづまやま)

 朝、羽織袴でふらっと花御殿にやって来た勝先生が、応接間で緑茶を啜っていた。

「ですね……」

 私も緑茶を一口飲むと、軽くため息をついた。

「問題は、6月からの噴火ですよね……」

「そう伊藤さんも言ってたな。調査中に死人が出ちまうんだったか」

 福島県の吾妻山。原さんに教えてもらって知ったのだけれど、“史実”では、今年の5月19日から噴火が始まり、再来年の9月まで断続的に噴火活動が続く。その活動の最中、来月の噴火の時に、地質調査所の職員2人が、噴火に巻き込まれて殉職してしまったそうだ。

 そして、5月19日午前11時26分、“史実”での発生日時通りに、吾妻山は噴火した。昨年設立された震災予防調査会の大森房吉先生は、私が伝えた情報に基づいて、5月初旬から、吾妻山周辺の数か所に地震計を設置して、観測を始めていた。それに加えて、帝国大学の田中館愛橘先生も、飛行器の研究を寺野先生に一時任せて、長岡半太郎先生とともに現地に入り、噴火前後で地磁気の変動があるかどうかの計測をしていた。今から少しでも観測データを積み重ね、未来に地震や噴火の予知が出来るようになるのが目標だ。

「観測班のみんなには、“史実”で被害があった範囲には、噴火する日には絶対に立ち入るなってお願いしたけれど……ドローンで空撮するとか、危なくない方法で火山の観測が出来ればなあ……」

「どろーん?なんでぇ、そりゃあ」

「ええと……人間が乗らないで、無線で操縦する小さい飛行器……みたいなもの?それに映像を記録する装置が付いてて、その映像を無線で飛ばして、離れたところで同時に見られるようにするの」

 しどろもどろに説明すると、「なるほどなあ」と、勝先生は両腕を組んだ。

「また、おとぎ話みてぇな機械か。でも、増宮さまの時代じゃ、それが実現してるんだもんな。だからこそ、産技研には頑張らせないといけねぇんだが。無線ってやつは、実験が始まってるんだっけか」

「30mぐらいの距離で送受信に成功したって報告を、昨日、井上さんからもらいました」

 産業技術研究所には、設立時に、各省庁に所属していたいくつかの研究所を合併させていた。その中に、逓信省の電気試験所がある。無線の研究は、昨年の夏から、その電気試験所出身者の手によって進められていた。

「何っ?!」

 勝先生が椅子から立ち上がった。

「こりゃあいいや。“史実”より、ちいと早い。しかも、おれたちが一番乗りか?」

「多分」

 私は微笑した。原さんと伊藤さんによると、“史実”で無線通信が初めて開発されたのは、1896年のイタリアなのだそうだ。今回の成功は、それよりも3年早いことになる。

「特許申請の準備はしてるんだろうな?」

「直ちに取り掛かったって、井上さんが言っていました。欧米での特許申請の準備も始めたと……」

 特許の事務に関しては、農商務省の特許局……つまり、井上さんの職掌になる。大磯に行ったとき、伊藤さんに、「日本は“工業所有権の保護に関するパリ条約”に1889(明治22)年に加盟した」と聞いた。“史実”より10年早いということだ。正直、細かいところはよくわからなかったけれど、この条約に加盟しておけば、新しい特許を日本で出願すれば、同じ人が他の国で同じ特許を出願した場合、日本で出願した日にさかのぼって、色々な利益が得られるそうだ。

 産技研や医科研で申請した特許に関しては、可能な限り早く、欧米諸国で特許出願ができるように、特許局が書類作成や申請に関して全面的にバックアップするよう、内規で定められていた。ちなみに、去年の夏、豊田さんが作ったヘアゴムについても、製造機械一式も含め、日本はもちろん、欧米各国で特許を申請して受理されたそうだ。

「それにしても、まさか、あの高橋是清さんが、ヨーロッパに渡って、特許関係の事務をやってたなんて……私、全然知りませんでした」

 私はため息をついた。「北里先生の脚気の追試論文に出てきた“タカハシ氏”が、高橋是清さん、本人だったなんて……」

「まあ、増宮さまには驚かされてばかりだから、たまにはおれたちが驚かそうと思ってさ」

 勝先生はくくっ、と低い声で笑った。

 昨日、井上さんが無線実験の成果について私に報告してくれた時、

――欧米での特許申請に関しては、高橋に任せます。そろそろ留学も終わるころですから、奴の欧州での最後の仕事になるでしょう。

と言ったので、

――あの、もしかして、北里先生のご友人のタカハシさん……ですか?

と彼に聞いてみたら、

――そうですよ、前の特許局長の、高橋是清です。

と井上さんが答えたので、びっくり仰天したのだ。

「せっかくの有能な人材、遊ばせとくよりは、将来必要そうな知識を得させる方がいいって、松方さんが言ったしな」

 勝先生が、ニヤニヤ笑いながら付け加える。

 高橋さんは、4年前の1889(明治22)年の秋、ペルーの鉱山を経営するため、農商務省を退職してしまった。思いとどまるよう、井上さんが必死に説得したのだけれど聞かず、現地に渡ってしまった……というところまでは私も知っていた。それが、その鉱山が既に廃坑になっていて、全く価値がないことが分かり、翌年の6月に横浜に戻ってきたところを、中央情報院の人たちが捕まえたらしい。そのまま高橋さんは、私抜きで行われていた“梨花会”の席に引っ張って来られ、

――我が国の将来のために、金融と財政と経済学を学んで、彼の地で人脈を築いて参れ。

お父様(おもうさま)直々に命じられ、ヨーロッパに旅立ったそうだ。

「松方さんが、“日本の将来のため、高橋が戻ってきたら更に鍛えなければ”と意気込んでたな」

「はあ……」

 私はため息をついた。たまたま、昨日の夜に伊藤さんが来たので聞いてみたら、高橋さんは、“史実”では、1892(明治25)年に日本銀行に入るまでは、経済学や財政について、きちんと勉強したわけではなかったそうだ。日露戦争の時、欧米に派遣されて外国債の募集に当たったことや、何回も大蔵大臣になったことは、教科書に載っていたから私も覚えていたけれど……。

――高橋のことといい、パリ条約のことと言い、流石松方さんと聞多だと、“史実”の記憶を得てから感心したのですよ。

 伊藤さんはそう言って、ニヤリと笑っていたけれど……。

「これ、松方さん、高橋さんを自分の後継者にするつもり?それにしても、すごい発想ですね……」

 “史実”でも優秀だった人材に、将来必要そうな技能を、あらかじめ身に付けさせておくとは……。とにかく、高橋さんが“史実”より更に優秀な人材になるのは、間違いないだろう。

「んなこたねぇさ。増宮さまだってやったじゃねぇか、後藤新平で」

「ま、まあ、そうですけどね」

 私はわざとしかめっ面を作った。

 後藤新平さんは、“史実”で台湾総督だった児玉さんを助けて、台湾の統治に功績を残した人だ。今は内務省の衛生局に籍を残したまま、3年前の4月からドイツに留学している。“史実”では、長与衛生局長が、衛生局長を病気で辞任したので、その後任の衛生局長に就任するため、去年の6月に日本に戻って来たということなのだけれど……。

――確か、帰朝してから、相馬家に関する厄介ごとに巻き込まれて、入獄したはずだ。大風呂敷が更に大きくなるかもしれないが、長与局長の代理には別の人間を立てて、後藤をその厄介ごとに巻き込まれないようにしておくか。そして、衛生行政に関するすべてを、身に付けさせておけば、今後の奴の仕事もやりやすくなろう。

 一昨年の夏、原さんがそう提案し、私もそれに賛成した。そこで、内務大臣の山縣さんに、私が思い出したということにして、後藤さんの“史実”での情報を伝えた。そして、“梨花会”で協議をした結果、長与局長の後任には、ひとまず荒川邦蔵(くにぞう)さんを据え、後藤さんの留学期間を、相馬家の騒動が落ち着くであろう来年4月まで延長することに決定した。ちなみに、後藤さんの留学の費用に関しては、私が出すことにした。

――さて、あの大風呂敷が帰ってきたら、御する方法を考えなければな。

 原さんはそう言っていたけれど……。

「後藤さんの話の時、突飛なことを言った気がしたけれど、どうも話が円滑に進むなあ……と思ったら、高橋さんっていう先例がいたからだったんですね。そこまで裏を読めなかった……」

「へへっ、まあ、これからの日本のために、やれることはやっとこうと思ってさ」

 勝先生は楽しそうに笑った。

「皇室令のこともやらないといけねぇが、東宮御学問所の総裁としては、人材の育成ってやつにも力を入れたいのよ」

 そう、9月から開設される東宮御学問所、その総裁は勝先生に決まった。教師やご学友の人選も進んできているそうだ。ちなみに、倫理学――これが帝王学に相当するのだと思うけれど――の教師は、伊藤さんの強い推薦もあり、“梨花会”の満場一致で三条さんに決まった。

「ああ、そう言えば、御学問所で思い出したけど、増宮さま、帝大の田中館のことだが……」

 勝先生がこう言った瞬間、

「増宮さま、入ってよろしいですか?」

応接間の外から、女官の花松さんの声がした。

「はい、いいですよ」

 声を掛けると、応接間の扉が開いて、洋装の花松さんが顔をのぞかせた。

「増宮さま、そろそろ寸法を測らせていただきたいのですが」

「ああ、そういえば、今日するって言ってましたね」

「寸法?何のだ?」

 首を傾げる勝先生に、

「ドレスの寸法でございますよ、内府さま」

花松さんは微笑しながら言った。

「ドレス……てぇと、オーストリアのフランツ殿下がいらっしゃる時に着るやつか?」

「はい。まったく、なんで、話し合いにあんなに時間がかかるかな……」

 私がため息をつくと、

「ははは、ありゃ、皆すごかったなあ!」

勝先生が膝を打って笑い出した。

「勝先生……笑い事じゃないですよ。聞いてるこっちは疲れたのなんの……」

 勝先生に反論しようとしたら、

「ほら、増宮さま、お時間がございませんから、もうお部屋に参りますよ」

花松さんがにっこり笑って、私を止めた。

「了解しました、花松さん。じゃあ、勝先生、またいずれ」

「おう、おれは退散するぜ。淑女(レディ)の着替えを見るわけにゃいかねぇからな」

「もう、勝先生ったら……」

 私は勝先生に苦笑しながら一礼して、応接間を後にした。


「はあ、全く、小娘一人の服装を決めるだけで、なんであんなに大騒動になったのかしら」

 自分の居間に戻ると、私は着ていた着物と女袴も取り、足袋と裾除けも外した。ペチコートを付けた後、長襦袢を脱いで、肌襦袢の袖を脱いで肩に掛けながら、花松さんが渡してくれたブラジャーを、素肌の上から付けてみる。サイズは合っているようだ。

「そうですわねえ」

 花松さんが、手芸用の巻き尺を取り出しながら、クスクス笑う。

「でも、皆さま、増宮さまが大好きだからですよ」

「そうですか……?」

「そうですとも」

 花松さんがニコニコしながら頷く。……あれ?こんなに花松さんの肌、綺麗だったっけ?

「花松さん、何か、お肌が綺麗になりました?」

「あら、そうですか?きっと、増宮さまのご衣裳が、楽しみだからですわねえ」

 花松さんは答えながら、白い靴下と黒い靴、そしてキャミソールを取り出す。

「……では、このキャミソールを着て、靴下と靴を履いて、まっすぐ背筋を伸ばして、絨毯の上に立っていてくださいませね」

「了解です」

 私は有能な女官さんの指示に従った。身体に巻き尺を当てられると、ドレスのデザインが決まるまでの道のりが、自然に思い返された。本当に長い時間が掛かった。

 ドレスの布地は、私の誕生日に参内した時、お母様(おたたさま)と相談して、薄いミントグリーンのものにすることに決めた。正直、どんな色を着たらいいか分からなかったので、「明るい色にしたらいかがですか?」というお母様(おたたさま)の言葉に従ったのだ。

 だけど、服のデザイン……これが大変な問題になった。

 今の日本のドレスの流行は、バッスル・スタイルというものらしい。ヒップを大きく張り出したように見せるスタイルで、腰に“バッスル”という腰当を付けて、その上から着るそうだ。だけど……2月にバッスルの現物を見て、私は思わず、

――なんで、縦に真っ二つにされた大きな提灯みたいな骨組みを付けて、服を着ないといけないんですか?!

お母様(おたたさま)にツッコミを入れてしまった。こんなものを付けていては、スムーズに動けないし、座るのですら、ちょっと苦労しそうだ。

 すると、“史実”の記憶を持つ伊藤さんが、“アール・ヌーヴォー式にすればいいだろう”と言い始めた。彼曰く、ちょうど今頃から、フランスで流行り始めたスタイルのドレスだそうだ。だけど、

――バッスルは付けないで済みますが、コルセットは必要ですな……。

そう彼が付け加えたので、

――それは絶対いや!

私は全力で拒否した。

 大体、コルセットなんて、前世(へいせい)で、私が下着を買うようなお店では売っていなかった。それを含めて、私は前世(へいせい)の女性の下着の事情を、紙に鉛筆で絵を描きながら、伊藤さんとお母様(おたたさま)に説明する羽目になった。

――本当ですか?恐れながら、この伊藤、増宮さまの前世のご記憶は、未来の女性の実情を、そのまま反映させたものではないと考えております。大体、陛下が御下賜なさったペンダントの金剛石を、“偽物”と言い放つようなご感覚ですから……(いやしく)も、我が国の君主であらせられるお方が、大事な内親王殿下に、そのような紛い物を御下賜なさるなど、あるはずがないではありませんか。

――伊藤さん、そこまで言います……?お母様(おたたさま)はともかく、あなたに女性の下着のことを説明するのだって、恥ずかしさで死ねそうなんですよ……。

 ブツブツ呟く伊藤さんの声に、精神力をごっそり削られた私はため息をつき、更に付け加えた。

――大学の卒業式の後に謝恩会があったけれど、そこでドレスを着ていた同級生の女子だって、コルセットはつけていなかったです。せいぜい、ブラジャーにショーツに、それにキャミソールを着てペチコートって感じで……。

――ああ、それならば納得致しました。確かに、増宮さまならば、身体の線も美しゅうございますから、コルセットで身体を締めあげる必要はないでしょう。コルセットが身体に悪いという話も、“史実”でありましたし。

――色々、ツッコミを入れていいですか……。

 そんな一幕があったけれど、なんとか、アール・ヌーヴォー式のドレスを仕立てることになった矢先、今度は、“梨花会”の面々から、「和服がいい」だの「やはりバッスル・スタイルだ」などと、様々な要望が噴出した。という訳で、御料牧場から戻った4月中旬、“梨花会”の面々がお父様(おもうさま)の御前に集まって、話し合うことになった。

――我が国においでになる要人の方には、和服を見たいという方もいらっしゃいます。和服がよろしいですやろ。

 強く和服を推したのは三条さんだ。

 一方、ドレスを作ると宣言した伊藤さんは、

――いや、それでは我が国が“西欧と対等でない”と諸外国に侮られてしまうことにもなりかねません!最新のアール・ヌーヴォーにするのが最善です!

と力強く主張した。

――しかし俊輔、逆に考えろ。我が国は我が国らしくあっても、諸外国と対等に渡り合えると示せる機会にもなる。ここは和服だろう。

 山縣さんは意外にも三条さんに味方し、

――山縣さん、そうは言っても、我が国はまだ関税自主権を取り戻してはいません。やはり西洋諸国に負けない国であることを示すために、バッスル・スタイルのドレスを着ていただくべきと、吾輩は考えるんである!

大隈さんは、こう山縣さんに反論した。

――なあ、梨花、大臣たちはいつも、このような議論をしているのか?

 私の服装を巡って、何故か真剣に議論している“梨花会”の面々を見ながら、私の隣に座った兄が、私にこっそり話し掛けた。

――いつもはもう少し、まともな議論をしているはずよ?

 私はこう兄に答えて、ため息をついた。全く、兄が初めてこの会合に参加するから、名古屋の桂さんまで久し振りにやって来たというのに、展開される話が、「帽子は被るのか」「持つのは扇だ」「いや日傘だ」だとか、こんな下らないものになってしまうなんて……。ちなみに、その桂さんは、「この際、和服も一着仕立てるべきだ」と強硬に主張していた。

――これ、みんながみんな、自分の趣味を言ってるだけじゃない。私は着せ替え人形じゃないのに……。

――ははは。しかし、皆、それだけ梨花が好きなのだろう。皆に任せておけ、梨花。

 兄はこう言って、微笑した。

――私は、和服で十分なんだけどなあ……。

 すると、

――俺は見てみたいがな、お前のドレス姿。

兄が真剣な表情で私を見た。

――へ?

――ドレスをまとって要人と渡り合い、“上医”としての務めを果たすお前は、俺にとってどんなに誇らしく、どんなに頼もしく思えるだろう。

――“上医”としての、務め……。

 微笑した兄の顔を、ぼーっと見ていると、

――梨花さま。

私の左側に座った大山さんが、私の肩を叩いた。

――決まりましたよ。フランツ殿下とのご面会の際の服装が。

――へ?

――あちらから花御殿にいらっしゃる時には和服に女袴を、こちらからフランツ殿下のご宿所に、答礼で出向く時にはアール・ヌーヴォー式のドレスを、と決まりました。

――あの喧々諤々の議論が、よくまとまったわね。それは、一体どういう根拠で……。

――先ほど、オーストリアの在日公使から、一度は梨花さまの和服が見たいと、フランツ殿下が希望されたという伝言があったのですよ。それでまとまりました。

――はあ……。

 私は曖昧に頷いた。確かに、先方から要望があったのならば、それに従うというのは至極当然な発想だ。

――で、ドレスがアール・ヌーヴォーに落ち着いた理由は?

――お前には、バッスルを付けるのは無理だ。暴れまわって、バッスルが壊れるだろう。

 答えたのは、お父様(おもうさま)だった。

――それに、バッスル・スタイルでは、ごてごてとリボンやら襞やら付いておるし……それでは、あのペンダントが映えんではないか!

 お父様(おもうさま)の叫びに、私は気圧されたように頷くしかなかったのだけれど……。

「……この“ぶらじゃー”、というものもですが、わたくしは“しょーつ”というものにも驚きましたよ」

 一通り、私の身体の寸法を測り終えた花松さんが、そう言ってほほ笑んだ。

「これが、最新式のヨーロッパの下着なんですって、花松さん」

 私も花松さんに微笑み返した。

 もちろん、このセリフは嘘だ。この時代の日本、いわゆる“下ばき”に相当するものが、湯文字(ゆもじ)と呼ばれる巻きスカートのようなものだとは、転生するまで、全く知らなかったのだ。つまり……最後までは、流石に言いたくない。

 女袴をつけて、華族女学校(がっこう)に行き始めた時からは、“ドロワーズ”という、洋装の時に付ける、少し裾の長い薄い半ズボンのような下着をつけていた。自宅にいることが多かったころはまだしも、外に出る機会が多くなるのに、その……「はいてない」状態には、どうしても耐えられなかったのだ。

 だけど、産技研の豊田さんが頑張ってくれて、ヘアゴムが完成した直後、手芸に使うゴムひもの製造機械も作ってくれた。それで、野外活動服を仕立てる時、花松さんにお願いして、前世(へいせい)と同じような形のショーツを作ってもらうことができた。今では、下ばきはドロワーズの代わりに、ずっとこれで通している。そして今回、ドレスを仕立てるにあたり、ブラジャーの構造を花松さんに伝えて、作ってもらった。流石に成長途上の胸なので、ワイヤーは使わなかったけれど、成長しきったら必要になるだろう。

「わたくしも自分の“ぶらじゃー”と“しょーつ”を作ってみましたが、なかなかいいですね。洋装の時は、ずっとこれを使っています」

 私が取った下着類と靴を受け取った花松さんが、肌襦袢を着せかけてくれた。

「そうなんですね。それだったら、周りに広めてみてもいいかもしれませんよ。……あ、花松さん、あとは自分で着ます。ありがとうございました」

「はい、かしこまりました。では、下がっておりますね」

 花松さんがそう言って部屋を出た後、

(“上医”としての務め、か……)

私は軽くため息をついた。

 ニコライ皇太子に会った時は、大津事件の対応でそれどころではなかったけれど、今回は外賓の対応に集中できるはずだ。私の果たす役割自体は本当に小さいだろうけれど、少しでも、フランツ殿下がこの国に好印象を持ってくれるようにしたい。そして、将来のために、ほんのわずかでもいいから、経験を積んでおきたい。その量は、“梨花会”のみんなには、遥かに及ばないけれど、「千里の道も一歩から」と、大山さんも言っていたではないか。

(頑張らなきゃな……お父様(おもうさま)お母様(おたたさま)や、兄上のためにも……)

 自分で着付けをしながら、私は決意を新たにしていた。

※“史実”の後藤さんが巻き込まれた厄介ごと……いわゆる相馬事件のことです。連座してしまい、1893(明治26)年11月から半年ほど、入獄してしまいます。渦中の相馬誠胤さんが入院先から脱走した時に、後藤さんの家に一泊泊まったらしいのですが(当事者の一人である錦織剛清さんの本「神も仏もない闇の世の中」より)、1892(明治25)年に誠胤さんが死去した後の後藤さんの行動が「錦織をけしかけた」ととられるようなものだったために入獄……と拙作では解釈しています。流石に相馬事件まで詳しく手を出すと、大変なことになるので、スルーさせてください……。


※そして、ブラジャーに関しては、原型になるものは既に開発をされていましたが、さらに現在の形に近いものは1913年に開発されました。ショーツは……少なくとも、大正年間には、今の形ではなかったはずです(高等美容学院「美容術講習録」の洋装下着の図解を参照しました)。詳しい資料が手に入ったら書き直すかもしれません。

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