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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第12章 1893(明治26)年立春~1893(明治26)年清明
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御料牧場(2)

「梨花……」

 不意打ちにも似た皇太子殿下の囁きに、

「うにゃあっ?!」

思わず、変な声が出た。余りの驚きに、身体がよろめきそうになったところを、皇太子殿下の腕に支えられる。

「ふう、危ない。事前に武官長に注意されていなければ、落馬させてしまうところだった」

 皇太子殿下が、私の顔を覗き込みながら、苦笑いした。

「で、殿下……」

「兄上と呼べ」

 皇太子殿下は即座に私に言い返した。「たとえお前に前世があろうと、今生では同じ血を分けた兄妹ではないか。“兄上”以外の呼び方は許さぬ」

「や、やっぱりお父様(おもうさま)から、聞いていたんですね。私の前世のこと……」

「ああ、一昨日な」

 殿下は頷いた。「お父様(おもうさま)お母様(おたたさま)と、伊藤議長と勝内府から、お前の話を聞いて……はじめは驚いたが、色々なことが腑に落ちたし、安心もした」

「は……?」

(色々なことが腑に落ちたって……どういうこと?)

 私が軽く眉をしかめると、殿下は「伊香保に行ったときのことを、覚えているか?」と私に尋ねた。

「はい……」

 あの時は、伊香保について早々、殿下がマラリアで発熱してしまった。殿下のお見舞いに来た伊藤さんたちに、医者を探してもらった結果、ベルツ先生がやって来て、私が殿下の指頭血採血をして……。その結果、ベルツ先生と、たまたまお見舞いにやって来た親王殿下に、私の正体がバレてしまって、後で騒動になった。

「マラリアに罹って、熱にうなされている時、お前の声が聞こえた。“私の前世は平民です。帝位につく資格などありません!”という叫びがな」

(聞こえてたのか……!)

 私は軽く目を見張った。まさか、あの叫びが、殿下に聞こえていたとは思わなかった。ただ、あの時、何もできないもどかしさと、激しい怒りとで理性を失っていたから、声の大きさは全く考慮していなかった。

「熱にうなされていたから、夢を見たのだと思っていた。だが、今から思い返すと、お前にはいろいろと、不思議なことがあった」

「は……?」

(不思議なこと?)

 花御殿に引っ越してから、あまりに頻繁に“梨花会”の高官たちがやってきて、皇太子殿下が怪しんだので、皇太子殿下がいない時に訪問するように、“梨花会”の面々には頼んだはずだ。“梨花会”の面々も、殿下に私の前世のことがバレないように、細心の注意を払っていた。だから、皇太子殿下に不審に思われそうな事柄は、ほとんどないはずなのだけれど……。

「おい……まさかお前、俺から全てを隠し通せていたと思っているのか?」

 皇太子殿下がクスッと笑った。「俺と勉強している時、お前はいつも、俺が悩んでいる算術や理科の問題を簡単に解いて、俺に教えてしまうではないか」

「あ」

 私はそう言ったきり、固まった。

 そういえば、殿下の勉強のお相手をする時、殿下が悩んでいる算術や理科の問題を、私が教えることが時々ある。前世では理数系の科目は得意だったし、科目は違えど、モノを教えた経験もあるから、殿下の学年の問題でも余裕で教えられるのだ。「どうして教わっていない範囲の問題が分かるのだ?」という殿下の質問には、「先に勉強しておこうと思って、伊藤さまに頼んで、兄上の学年の教科書まで手に入れました」と答えていたのだけれど……。

「なかなか教え方がうまいぞ。当然だな。お前は俺の学年の範囲の学習を終えているどころか、未来で大学を卒業しているのだから。おかげで算術も理科も、よくわかるようになった」

 皇太子殿下はニッコリ笑った。「それに、ニコライ皇太子に京都で会った時、英語であいさつをしたと聞いた。流石に英語は、学校では習っていないだろう?」

(そうでした……)

 私はうなだれた。流石に、殿下と一緒に東京でニコライ皇太子に会った時には、日本語だけを使っていたけれど、京都で会った時には英語を使ったのだ。そう言えば、英語を使った件は口止めしていなかったから、どこかから、殿下の耳に入ったのだろう。

「つい最近まで、お父様(おもうさま)のことを“陛下”と呼んでいたし……しかし、一番不思議だったのは、伊香保で、お前が俺の指に、針を刺した時だよ」

「え?」

 首を傾げる私に、

「本当は、少し怖かったのだ、針を刺されるのが」

と殿下は苦笑しながら言った。

「しかし、お前の振舞いが、本当に医者のように堂々としていて、それを見ているうちに、俺の不安が消えたのだ。なぜだろう、と思い返してみて不思議だったのだが……道理だな。お前は前世で、医者だったのだから」

「怖くは……」

 私は口を開いた。

「怖くはないんですか、私のことが?」

「怖い?」

「お転婆な上に、こうやって男装もするし、それに、剣道だって強くなってしまったから、学習院の生徒たちに恐れられてるこの私に、前世があるって更に知って……私のことが、怖くはないんですか?」

 すると、皇太子殿下は、口を大きく開けて笑った。

「な、なにがおかしいんですか。私に前世があると知って、三浦先生は失神したんですよ?」

 私が頬を膨らませると、「すまんすまん」と皇太子殿下は笑いを堪えながら謝罪した。

「賢くて美しい、この愛しい妹を、怖いなどとは全く思わないよ」

 殿下は私の目を覗き込みながら微笑した。

(愛しい妹……?)

 戸惑っていると、

「それに、お前が剣道を続けているのは、“身を守る術を学べ”と、お父様(おもうさま)が命じられたからではないか」

殿下は更に続けた。

「そ、そうですけど……でも私、今生でも医者になりたいんですよ?!この時代で女が医者になるのって、すごく大変みたいだし、女性に対する偏見もあるし……」

「だが、医者になるというのは、お前が考えて決めたことだろう?」

 皇太子殿下の言葉に、

「はい……」

私は頷いた。

「殿下を、……私の持つ全てを使って守りたい。今はまだ、医学しかないけれど、そのうち、もっといろんなことをできるようになって、あらゆる苦難から、殿下を守りたい。それが、お父様(おもうさま)のおっしゃった、上医(じょうい)の務めにつながると思うから……」

「梨花……」

 殿下の両腕に籠められた力が、いっそう強くなった。

「そう思ってくれるのか。ありがとう。俺は嬉しい」

 殿下が私の耳元で囁いた。「ならば、俺は、俺を守ってくれるお前を守ろう」

「はい?」

 キョトンとした私に、殿下は苦笑した。

「お前も言ったではないか。この時代では、女性に対する偏見がある、と。お母様(おたたさま)が言っておられた。お前が進もうとする道は、ある部分は女性の先駆者が歩く道と重なるだろう。女性に対する偏見や差別と、闘う時も出てくるだろう、とな」

(確かにそうだ……)

 皇族が、しかも女性の皇族が医療職に就けば、少なくとも日本では初めての事例になる。石黒のように、女性を差別する奴もいるから、私が実際に医療現場に出て働くとなれば、世論は賛否両論、渦巻いてしまうかもしれない。そして、私に政治をやれるだけの能力が身に付いて、実際に政治をやるとなれば……。

「だから、俺はそれらからお前を守る。俺が命じたと言えば、世間の風向きも、多少は梨花に有利になるだろう。その効力を、最大限に発揮させるためにも、俺は立派な皇太子に、立派な帝になるよう努めなければな。……俺とて軍人の端くれ。愛しい者は、この手で守り抜いてみせるさ」

「殿下……」

 私は、皇太子殿下の顔を見上げた。

「だから、兄上と呼べ」

 皇太子殿下は、再び私の言葉を訂正して、少し寂しそうに私を見つめた。「お前には前世でも兄がいたと言うが……やはり、その兄たちと重なってしまって、俺のことは“兄”と呼べぬか?」

「そんなことは……」

 私は首を横にブンブン振った。「前世の兄たちも、それなりに頼もしかったけれど……こんなに優しくはなかった……」

 むしろ、親王殿下や西郷さんのように、私をからかうことの方が多かった気がする。

「では、兄上と呼べ」

 皇太子殿下は強く言った。「俺のまことの心を打ち明けられるのは、お前と節子だけだというのに……そのように他人行儀な呼び方をされてしまっては、俺は困る」

(あ……)

 脳裏に、原さんの言葉が蘇る。

――年の近い兄妹にすべて先立たれ、孤独な幼少時代を過ごされた嘉仁さまに、妃殿下と言う存在が、公私ともに、どれだけ支えになったことか。そして今、あなたは、年の近い妹として、皇太子殿下と同居されている。少なくとも、皇太子殿下は今、孤独ではないはずです。

(そうか……“史実”の皇太子殿下が、節子さまと結婚してから元気になったのは……)

「私でよかったら……どうか、何でも打ち明けてください、兄上」

 私は、皇太子殿下に向かってほほ笑んだ。

「全身全霊を懸けて、兄上を、……兄上の心を受け止めます」

 多分それが、“史実”で節子さまがやったことなのだろう。

 ならば、殿下が節子さまと結婚するまで、私がその役割を手伝おう。血を分けた妹として。

「うん……気持ちは嬉しいが、まだ他人行儀だぞ、梨花」

 皇太子殿下は眉を少ししかめた。「俺とて一緒だ。俺も、お前を全力で受け止めて、守る。俺と梨花は、兄妹なのだからな」

「わかった……ありがとう、兄上」

 私は皇太子殿下に――本当に頼もしい今生の兄に、一つ頷いてみせた。


「しかし、安心したよ」

 馬をゆっくりと歩かせ始めると、兄は私に言った。

「安心したって?」

 肩越しに兄を見上げると、

「お前が、大臣たちに叱られていなくて」

兄はこう言って、私に微笑した。

「花御殿にお前が来た当初は、大臣たちがしょっちゅうお前の所にやって来ていたから、俺は、お前が大臣たちに叱られているのではないかと心配していたのだ。ある時期から、俺がいない時を狙って来るようになったが、それでも、俺がいないのをいいことに、大臣たちがお前を叱っているのではないかと、俺は気が気でならなかった」

「あー……」

 私は苦笑するしかなかった。私を訪ねる時は、兄がいない時にするようにと、伊藤さんを通じて“梨花会”の面々に頼んでいたけれど、兄は、大臣たちが来た形跡を敏感に感じ取っていたらしい。

「しかし、本当は、大臣たちはお前に意見を求めに来ていたのだな。だから、安心した」

「兄上、心配をかけてごめんなさい」

 私は頭を下げた。

「……あ、でも、大磯に避寒した時は、伊藤さんにお説教と言うか、苦手な話ばかりされたから、拷問に近かったかな……。逃げようと思っても、大山さんが横にいたから逃げられなかったし」

「武官長は、なかなか手厳しいな。しかし、お前は武官長に、心を許しているではないか」

「心を許しているというか……思っていることをすぐ読まれちゃうというか……」

 私はため息をついた。どうやったって敵わない、私の有能すぎる臣下。本当に、なぜこの未熟な私と、君臣の契りを結ぶと言ってくれたのか、未だによくわからないのだけれど……。

 と、遠くから、馬の足音が聞こえた。

「ああ、噂をすれば、来たか」

「誰が?」

「武官長だよ」

 兄が首を向けた方向に、馬に乗った人影が見えた。みるみるうちに、人と馬とは私たちに近づく。兄の言った通り、それは馬に乗った大山さんで、私たちのすぐそばに馬を止めると、兄に向かって敬礼した。兄もそれに答礼する。

「殿下、御首尾は」

「ああ……話したよ、()()と」

 頭上で、兄が微笑する気配がした。

「それは、ようございました」

 大山さんは笑顔になった。「梨花さまは、大丈夫でしたか」

「武官長の注意が無ければ、危うく馬上から落とすところだった。助かったよ。ありがとう」

「いえ、殿下の馬術の腕がよいのでしょう」

(ん……?)

 大山さんと兄の会話が、何か引っかかって、私は首を傾げた。

(兄上に注意したって……一体、何を?)

「おや、梨花さま、どうなさいました?」

 私の表情の変化に気が付いたのか、大山さんが私に視線を向ける。

「あの……大山さん、兄上に何を注意したの?」

 すると、

「ああ、“殿下が梨花さまの御名を呼ばれれば、梨花さまは仰天して、必ず身体がよろめくでしょう”と」

大山さんはこう言った。

「その言葉通りになった。わたしが身体を支えていなければ、落馬させるところだったよ」

「は……?!」

 私は、前にいる大山さんと、頭上の兄とを交互に見た。

「ってことは……大山さんと兄上……グルだったの?!」

「グルだったとは、人聞きが悪いですよ、梨花さま」

 大山さんが微笑した。「皇太子殿下が梨花さまの前世のことを、陛下からお聞きになっているのか……それを確かめられずに、梨花さまが苛立っておられるというのが分かりましたから、少し策を思い付いただけでございます」

(うぐ……)

 先ほどまでのいら立ちの原因を見事に言い当てられて、私は唇を引き結んだ。

「武官長が突然、梨花に着替えて来いと言うから、梨花ならば女袴でも馬に乗ってしまうだろうに、と少し不思議に思ったのだが……馬に相乗りして遠駆けせよと耳打ちされて、武官長の策だと分かったのだよ」

「え、じゃあ大山さん、佐倉城や本佐倉城の話を持ち出したのは、まさか……」

「当然、策の一環でございますが?」

 私の質問に、大山さんは澄ました表情で答えた。

(そんなあ……)

 私は大きくうなだれた。

「だ、騙された……頑張ったら佐倉城と本佐倉城に行けると思って、すごく、すごく楽しみにしていたのに……未熟とは言え、主君を騙すなんて、それってどうなのよ……」

「恐れながら……お好きな物事に夢中になるのは、梨花さまの強みでもあり、弱点でもあります」

 大山さんが真面目な顔で言った。「医学や城郭のことに夢中になるのも結構ですが、時には一歩引いて、冷静な気持ちを取り戻すことも覚えられるのが肝要かと」

「むー……」

 私は眉をしかめると、大きくため息をついた。「わかった、確かに大山さんの言う通り。気を付けるようにする」

(本当に敵わない……)

 未熟な主君(わたし)は、有能な臣下(おおやまさん)に、いつも一歩どころか、何歩も上を行かれている。だけど、いつかは、彼に相応しい、立派な主君(わたし)にならなければならない。今生の、頼もしい兄のためにも。

「そうむくれるな、梨花」

 兄が軽く、私の頭を撫でた。「梨花が一人で、馬に乗れるようになったら、ここから馬で、佐倉城や本佐倉城に行こう」

「本当に?!」

 私は兄を見上げたけれど、すぐ目を伏せた。

「いや、騙されない。何か裏があるかも……大山さんにも注意されたばっかりだし」

「疑り深いなあ」

 兄が苦笑する。「俺は本気で言っているぞ、梨花。だから、牧場から馬を一頭、花御殿に連れて帰れ。それで馬に乗る稽古をしろ。馬に乗れるようになったら、一緒に行こう」

 私の目を、兄が覗き込んだ。まっすぐで頼もしい光が、瞳の奥で優しく揺れていた。

「わかった、兄上」

 私は頷いた。

「現地についたらガイド……じゃない、案内は任せて。縄張りの意図や残っている遺構、そして私の時代の保存状況まで、あらゆる点を解説できるように復習しておくね」

「おお、これは覚悟しておかないとな。お父様(おもうさま)の刀の話と、どちらが武官長の言う“まにあ”な話になるか……」

「いや、それなら絶対、お父様(おもうさま)の話の方がマニア。だって、私、物心ついてから初めてお父様(おもうさま)に会った時、お父様(おもうさま)にずーっと刀の話を聞かせられたのよ?爺だって呆れてたわ」

「ははは……それといい勝負になりそうだが。師匠が大磯から帰って来た時、梨花の城の蘊蓄に、呆然としていたぞ。“一体どこで、これだけの知識を学ばれたのか”と」

「えー?私、師匠にそんなマニアな話はしなかったつもりだけど……」

 私と兄の話は、尽きることを知らなかった。

 大山さんは、そんな私たち兄妹を見つめながら、馬上で静かに微笑していた。

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