飛行器実験(1)
※1人称ミスを修正しました。(2019年4月28日)
1893(明治26)年4月5日、水曜日。
私は朝から、皇太子殿下と一緒に馬車に乗っていた。華族女学校の春休みを利用して、皇太子殿下と一緒に、千葉県にある御料牧場に小旅行に行くことになったのだ。
「楽しみだな」
国軍の歩兵中尉の軍装を着た皇太子殿下は、嬉しそうに言う。今年の7月で、学習院の初等科を卒業される皇太子殿下は、ここ1年くらいで、すごい勢いで身長が伸びている。今の背丈は、160センチぐらいあるかもしれない。
「牧場では思う存分、馬に乗れるだろうし、習志野では飛行器とやらが見られるそうな」
殿下の話を聞きながら、私は、一昨日参内した時のことを思い出した。
――明日、嘉仁に、そなたの前世のことを告げるぞ。
お父様は、私にこう言った。
――9月からは、嘉仁も学問所に入る。そろそろ、一人前として扱わねばならないからな。
本来なら、皇太子殿下は9月から、中学校に入学する。だけど、皇太子殿下はもちろん、次代の天皇陛下なので、それに相応しい学問……いわゆる“帝王学”を身に付けなければならない。
帝王学なんて、普通の学校で教えられるものではない。けれど、この年齢で、同じぐらいの年齢のクラスメートたちから離れるのは辛いだろう。かといって、学習院に通うと言っても、来年の東京地震で、学習院の校舎が半壊するから、それに巻き込まれれば大変なことになるし……と、“梨花会”の面々が悩んでいたところ、
――“史実”の迪宮さまと同じく、東宮御学問所を作ればよいでしょう。
伊藤さんと大山さんと私しかいない席で、こう言ったのは原さんだった。
――ご学友を5人ほど選抜して、彼らと共に学んでいただければよいのではないでしょうか。花御殿の敷地に、寄宿舎も兼ねた御学問所を建設し、ご学友とともに寄宿舎生活をしていただければ……。
――男子だけでの寄宿舎生活かぁ……皇太子殿下、すごく喜びそう。私はちょっと寂しいけど……。
――しかし、原君の言うことはもっともです。今の皇太子殿下ならば、寄宿舎生活にも耐えられるでしょう。ここは何卒ご辛抱を、増宮さま。
東宮大夫兼、私の輔導主任である伊藤さんにこう言われてしまったので、私は反論できなかった。
――同じ敷地ゆえ、梨花さまが御学問所にお立ち寄りになってもよろしいのですよ。
大山さんが、私を宥めるように言った。
――会いたいのは会いたいけれど……。
寂しいのももちろんだけど、皇太子殿下には、華族女学校で作文の宿題が出た時、かな遣いや文法が間違っていないかどうかなどを、いつもチェックしてもらっているのだ。書いた文章を添削してくれる人がいないというのは、この時代のかな遣いや文法に、完全に慣れきっていない私には、少々痛手だ。
――私が御学問所に行くと、ご学友の人たちが怖がるんじゃないかな?
――ならば、皇太子殿下が、梨花さまの所に度々おいでになればよいでしょう。大丈夫です。皇太子殿下は、梨花さまを寂しがらせることはなさいませんよ。
大山さんはニッコリ笑って、私にこう言った。
そんなやり取りがあった後、伊藤さんが東宮大夫として、東宮御学問所の開設をお父様と梨花会の面々に正式に提案し、9月から皇太子殿下は東宮御学問所で学業を続けられる、ということになった。学業の期間としては、7年後と定められた、節子さまとのご結婚までになる。今、花御殿の敷地では、東宮御学問所の建設が始まっていた。帝大の辰野先生が、設計に参画したということだ。
そんなことを思い出していると、
「章子?」
皇太子殿下が私を呼んだので、私は慌てて現実に戻った。
「あ……申し訳ありません、兄上。ぼーっとしてしまいました」
私は取り繕うように微笑した。
「そうか。体調を崩したという訳ではないのだな?」
「はい、大丈夫です」
私が頷くと、「それはようございました」と、皇太子殿下の侍従さんが言った。
「ああ、我が妹が元気で無くては、わたしが困る」
皇太子殿下は私に微笑みかけた。その様子も、言葉も、普段の皇太子殿下と変わりがなかった。それを確認して、
(お父様、本当に、皇太子殿下に私の前世のことを言ったのかな?)
私は疑問に思った。
肝が据わりすぎている“梨花会”の面々はともかくとして、私に前世の記憶があると知ったら、普通はとても驚くと思う。ところが、皇太子殿下は、私に対して、何の疑念も恐れも抱いていないように思えた。
(ま、いいか、今は侍従さんもいるし、お父様に昨日何を言われたか、殿下に確認するのはまた後日かな)
東宮大夫の伊藤さんは、法典調査会の業務があるので、今回の小旅行にはついて来ない。東宮武官長の大山さんは私たちに同行していて、別の馬車に乗っている。
(あ、そうだ。皇太子殿下とどう話したらいいか、大山さんと相談してから、殿下に確認しよう)
自分の中である程度の結論を導き出すと、私は皇太子殿下や侍従さんとのおしゃべりに意識を集中させた。
国軍の習志野演習場に到着したのは、ちょうど正午ごろだった。
国軍の施設に入るのは初めてだ。もちろん、前世では、自衛隊の施設を見学する機会はなかった。周りをキョロキョロ見ていると、
「ああ、そうか、章子は国軍の施設に入るのは初めてか」
隣を歩く皇太子殿下が言った。皇太子殿下は、よく近衛師団に出入りしているから、軍隊には慣れているのだろう。
「はい、色々珍しくて……」
整列して私たちを出迎えてくれる兵士さんたちの向こうに、ちょうど訓練帰りらしい、薄い茶色を基調とした迷彩服を着た兵士さんの一団が見えた。去年のお正月、迷彩服が最終試験中だと西郷さんが言っていたけれど、とうとう実現してしまった。
「うむ、“二種軍装”は、やはり周りの風景に溶け込んで、擬装効果が高いな、武官長」
後ろを歩く大山さんに、皇太子殿下が話しかける。“二種軍装”……今までの軍隊の制服に加わった迷彩柄の戦闘服を、そう呼ぶことにした、というのは、去年の末に、西郷さんから聞いた。よく見ると、服のデザイン自体も、私が小さいころ、西郷さんに求められるまま描いた“未来の映画に出てくる兵士の戦闘服の絵”と、ほぼ同じようなものになっているようだ。
「さようでございます」
大山さんが静かに皇太子殿下に返答する。
「しかし、今の時期だからあの色でよいだろうが、草萌ゆる季節となれば、あの色は目立ってしまうだろう。雪が積もった中でも目立ってしまう」
「おっしゃる通りでございます。戦う環境に応じて、色調を変えることも肝要かと」
(なるほどねえ……)
私は、皇太子殿下と大山さんのやり取りを聞きながら考えていた。
城郭マニアの私の頭の中には、周辺知識として、戦国時代の合戦や城攻めの知識は多少ある。だけど、それ以降の戦争の知識、特に近代以降の戦闘についての体系だった知識は持っていない。日清戦争や日露戦争、第一次世界大戦の話は、原さんに聞いたから少しは知っているけれど、前世の兵器の知識に関しては、断片的にしかない。だから、皇太子殿下と大山さんのやり取りが、とても新鮮に感じられた。……まあ、この“二種軍装”自体は、私の怪しい知識から生まれてしまったものなのだけれど。
この習志野演習場の周辺には、兵舎はもちろんのこと、砲兵学校や、国軍合同を機に新しく設立された工兵学校もある。もうすぐ、麹町にある国軍の乗馬学校も、“騎兵学校”と名前を変えて、この周辺に移転するそうだ。そして、帝国大学の田中館愛橘先生が主導する飛行器の研究室も、この習志野に建てられていた。
「近頃は、大学と習志野の往復で忙しいですよ」
昼食を取った後に、建物の外で会った田中館先生は、そう言って私に笑いかけた。大学では、長岡半太郎先生の地磁気の研究をサポートし、習志野の研究室では、帝国大学の造船学の助教授の寺野精一先生と、飛行器の研究に励んでいる。東京と習志野の間は、自転車で往復しているそうだ。
「自転車……そう言えば、大兄さまが持っていましたね」
前世のものとほぼ同じで、“この、空気の入ったゴムタイヤが新式なのですよ”と親王殿下は自慢げに言っていた。花御殿に自転車を持ってきてもらって、乗ってみようとしたけれど、身長が足りなくてうまく乗れなかった。
――このタイヤは、私の時代でも同じようなものを使っていました。自動車もですよ。
と指摘したら、大山さんが顔色を変えて、“それならば、この形が非常に有益であるということになります。産技研で開発させなければいけません”と言っていたけれど……。
「でも、お値段、かなり高かったでしょう?」
確か、親王殿下が“それなりの値段がした”と言っていた記憶がある。
「250円ほどしましたか」
「……はい?」
私は目を丸くした。前世の大学生時代に、自転車を乗り回していたけれど……一番安いのを買ったから、1台1万円前後だった気がする。
(この時代の250円って……私の時代だと数百万円に相当すると思うから……私の時代で高級自動車を買うのと、ほぼ同じ感じになるのかな……?)
「め、滅茶苦茶高かったんじゃないですか?」
恐る恐る田中館先生に尋ねると、
「まあ、教授になって、だいぶ貯金が出来ましたから、何とか大丈夫でした」
田中館先生は、顔の下半分を覆う立派な髭を撫でながら答えた。そして、
「……ところで増宮さま、増宮さまが未来の世を見ておいでなのは、皇太子殿下はご存知なのでしょうか?」
私の耳元でそっと囁いた。
「うーん……とりあえずは、ご存じないものとして、対応してもらってもいいでしょうか?」
私は苦笑しながら、小声で返した。どうも、皇太子殿下が私の前世のことを知っているのかいないのか、確証が持てない。
と、
「章子、何をコソコソ話しておる」
少し離れたところにいた皇太子殿下が、私に声を掛けた。
「ああ、申し訳ありません、兄上。去年、産技研に行ったときに、田中館先生に会いましたので、あいさつをしていました」
「そうか」
私の答えを聞いて、皇太子殿下は頷いた。「田中館先生、申し訳ないが、わたしは早く、飛行器が空を飛ぶところを見たいのだ。準備に取り掛かってもらってもいいだろうか?」
「おお、確かにそうでございます。では、私も寺野君と二宮君を手伝って参りましょう」
「あ、じゃあ私も行こうかな。あの二人にも挨拶しておきたいし」
寺野先生とも、二宮さんとも、もちろん初対面だ。田中舘先生にくっついて、飛行器の準備をしている2人の所に行くと、とても驚かれてしまった。
「ま……増宮殿下、御自ら……」
「じゅ、準備が遅れて申し訳ありません!」
慌てて頭を下げる2人に、
「ご、ごめんなさい、驚かせてしまって!」
私は深々とお辞儀してから自己紹介をして、寺野先生と二宮さんと少し喋った。
寺野先生は今、習志野に住んでいて、飛行器の実験を主導している。帝大の造船学科に一応籍はあるけれど、学生の指導は助手に任せているそうだ。
「正直、こちらの方が面白くて、専従になりたいのですよ」
「そうですか……」
私は少し考え込んでしまった。
もし、寺野先生が帝大を辞めたら、後任の造船学科の助教授は誰になるのだろう。造船学科の卒業生を招いてもよいのだろうけれど、卒業生だって、それぞれの職場で、自分の学んだ学問を生かして働いているはずだ。民間企業や、国軍の造船部にいる人を帝大に招けば、その企業や国軍の技術進展のスピードが、遅くなってしまうのではないだろうか?
(人材の数にも限りがある……少しでも、その人材を増やす努力をしないといけない、ということか)
帝国大学に限って言えば、この9月に、京都に帝国大学が設置されることになった。原さんと伊藤さんによると、“史実”より4年早いらしい。だから、人材の育成は“史実”より早いペースで進められそうだけれど、人材の育成は、何年も時間が掛かるものだから、実際にその効果が出てくるのは、10年ぐらい先かもしれない。そして、育てた人材をどう配置するか……今は“梨花会”の皆に頼るしかないけれど、いつかは、私がそれを考える側に回れるよう、私も修業を積まなければならない。
丸亀の連隊にいた二宮さんは、東京に呼ばれて、自分が考案した飛行器の研究をすることになった。ただ、二宮さんは、大学で物理学を習った訳ではない。なので、今行われている基礎実験……特に、実験内容の立案や、データの分析に関しては、全く戦力にならないそうだ。結局今は、寺野先生や田中舘先生に物理学や数学を教わりながら、実験の手伝いをし、飛行器の世界初のパイロットになるべく、体を鍛えているそうだ。
「体を鍛える?何故ですか?」
私の質問に、
「二宮君が飛行器で空を飛べれば、二宮君は、我々人類にとって未知の領域に到達してしまうからです」
田中舘先生は小声で答えてくれた。
「あ……なるほど」
私は首を縦に振った。
そうだ。この飛行器が発展して、人を乗せることができたら、人類は初めて、自由自在に空を飛ぶことになる。もちろん、高度が上がれば酸素の濃度が下がる。将来、飛行速度が上がったり、旋回機能が向上したりしたら、動体視力はもちろん必要だろうし、旋回時に掛かる凄い遠心力にも対応しなくてはいけない。身体を鍛えておけば、少しは、過酷な環境に耐えることができるだろう。
(要するに、今、パイロットになるというのは、私の時代で宇宙飛行士になるのと、同じぐらいの困難が伴う、と思う方がいいのかな?)
とりあえず、こう理解することにした。
田中舘先生と寺野先生と二宮さんが準備した模型飛行器は、長さ60センチくらいの竹ひごの真ん中から、二枚の大きな翼が横に生え、後ろに小さな尾翼が付いていた。推進力は、一番前についたプロペラが、竹ひごに沿って付けられたゴムの動力で回ることによって得られる。
「去年のお正月に見た飛行器と、形が変わりましたね」
声を掛けると、
「我々も実験を積み重ねまして、ひとまずはこれが良いだろうという結論に達しました」
寺野先生が胸を張った。
「ただ、実験がなかなか難しくて……常に一定の力で、一定の方向で風が吹いているわけではありませんからね」
「お天気が相手だから、しょうがないですよね。室内で、扇風機を使って風を起こして、それで実験するぐらいしか方法がないかな……」
話していると、
「先生方、準備ができました!」
二宮さんが報告した。
「おお、ありがとう。きちんとゴムも巻いているかね?」
「大丈夫です!」
寺野先生の声に、二宮さんが明るく答える。
「よし……では、やってもらおうか、二宮君」
田中館教授が重々しく告げると、
「了解です!」
二宮さんはプロペラを押さえた左手を外し、おもむろに飛行器を空に投じた。
※田中館先生の東京―習志野の往復に、自転車を使わせるか馬を使わせるか、非常に迷いました。幼少時に馬に乗る練習をしていますし、明治末年に飛行場の用地を決めた時に、自転車を乗り回してますし……(中村清二著「田中館愛橘先生」より)。
そして、自転車は、1885(明治18)年に、現在の自転車の原型となるような安全型自転車が開発されましたが、1899(明治32)年の時点で1台200から250円という超高級品です。(山本博文「明治の金勘定」より)
ただ、1891(明治24)年7月の勅令139号(帝国大学文部省直轄諸学校及図書館高等官俸給令)によれば、帝国大学の教授の年棒は、2800円か3000円ということなので、滅茶苦茶な無駄遣いをしなければ自転車が買えるはずなのと、威仁親王殿下が、千代田の艦長をしていた1892(明治25)年から1893(明治26)年に、自転車で遠乗り(サイクリング)していたという記述が『威仁親王行実』にあったので、“章子さんもこの時代の自転車に触ったことがあり、田中館先生も自転車を持っている”という設定にさせていただきました。ご了承ください。
※寺野精一先生は、1918(大正7)年の東京帝国大学の航空研究所の設立に関わった方です。現時点で既に造船学科の助教授だったので、引っ張ってきました。




