大磯にて(2)
「なるほど、それならば全て合点がいくよ、原君」
伊藤さんは静かに言った。
「増宮さまは当初、皇室に関する事項を殆どご存じなかった。“史実”で、皇太子殿下にご兄弟がいらっしゃるかどうかも、ご存じなかったのだ。それなのに、節子さまが皇太子妃殿下になられたことを思い出された。児玉、山本、桂の存在もだ。それは大津事件の後、君が“梨花会”に入ってからだったな。わしに“史実”の知識が流れ込まなければ、不審にも思わなかったが……」
伊藤さんは言葉を切ると、原さんに厳しい視線を向けた。
「何が目的だね、原君?」
「目的、ですか」
原さんは腕を組んだ。
「大きく言えば、皇太子殿下をお守りするためになりましょうか」
「皇太子殿下を?」
「“史実”であなたが暗殺された後、今上が崩御されて天皇の御位につかれた皇太子殿下は、原因不明の不治の病にかかられたのです」
「な、何っ?!」
あの伊藤さんが、驚きの表情になった。
「本当です。第一次世界大戦やシベリア出兵などでのご心労が、体調に更に御負担を掛けて病状を悪化させ、総理大臣だった私は、摂政を立てることを考えざるを得なかった」
「……まことでございますか、増宮さま」
伊藤さんが私に視線を向ける。
「私が最初から覚えていた事項とも一致します」
私は伊藤さんに答えた。「関東大震災直後に発生した虎ノ門事件は、摂政宮を狙った襲撃事件です。大正が終わったのは、1926年。虎ノ門事件から、約3年後です。つまり、少なくともその3年間は、摂政が立っていたことになります」
「なるほど。確かに、“授業”の時にもおっしゃっておられましたな。その時点で、皇太子殿下は50歳にはなっておられないのに、なぜ摂政が立ったのかと、ちらと考えた記憶があります」
「そのような事態を、この時の流れで繰り返したくはない!……だから主治医どのに、皇太子殿下を病から守っていただくため、対価を払うことにしたのですよ。このわたしが“梨花会”に協力し、“史実”の知識と経験を主治医どのに提供すると」
「主治医と言うのは、増宮さまのことか。……大山さんが持ち掛けたのですかね?」
伊藤さんが、大山さんに視線を向ける。
「いえ……梨花さまが」
「増宮さまが?」
大山さんの答えに、伊藤さんが目を丸くする。
「……原さんが初めて私のところに来たときに、契約を結びました」
私は伊藤さんに言った。「原さんに“史実”の記憶が流れ込んでいると知って……原さんの心を、簡単には変えられないと感じました。私に従え、と言うのは無理だと思ったんです」
「心、ですか……大方、藩閥政治を、一刻も早く崩壊させたいということだろうが」
伊藤さんの言葉に、原さんがニヤリと笑う。
「でも、心が違っても、同じ目的の下に協力することはできるはずだから、原さんに取引を持ち掛けたんです。私が皇太子殿下の主治医になる報酬として、原さんが“梨花会”に協力することと、原さんの“史実”の記憶と経験を私に提供することを要求しました」
「さようですか……。増宮さまは、ご自身が未来の医療知識を持つ医者であることを、取引の材料に使われた、と……」
「結果としては、そういうことになりますね。でも、伊藤さん」
私は姿勢を正して、伊藤さんを見た。
「皇太子殿下を守りたいという思いは、私も一緒です。だから私は、医科研と産技研を立ち上げました。一刻でも早く、私の生きていた時代の医療技術をこの世にもたらすために。そして、政治的な懸案による皇太子殿下の心労を、私の手で、少しでも取り除けるのなら取り除きたい。……もちろん、政治をするための勉強なんて、前世では全くしていない。それに、今生でも医師免許を取らないといけない。しかも、前世と違って、女であることを、捨てちゃいけない、から……」
「梨花さま」
うつむいた私の両肩を、大山さんが支え直してくれた。
「大丈夫ですよ」
耳元で囁かれて、私は左を振り向いた。すぐそばに、大山さんの顔がある。彼の目はやっぱり、優しくて、暖かい。
――梨花さまは、俺の守るべき淑女でございますから。
彼の目は、そう言っているかのようだった。
(ありがと、大山さん)
私は大山さんに軽く頷くと、また前を向いて、伊藤さんを見据えた。
「伊藤さん、私、……皇太子殿下を守るために、できることはやります!」
「なるほど」
伊藤さんの口元が、少しだけ緩んだ。「……なぜ最初は、原君に“史実”の記憶があることを、わしに隠そうとなさいましたか?」
「あなたと原さんが争った結果、国力が下がるのを避けるためです。それは将来的に、皇太子殿下の心労につながって、病気の発症の危険を高めるから、皇太子殿下の主治医である私としては、絶対に避けたいことです。だから大山さんにも、原さんのことは秘密にするようにお願いしました」
すると、伊藤さんは、ふうっと息を吐いた。
「わかりました。どうやら、輔導主任でありながら、わしは増宮さまを……医師としての増宮さまの力を、低く見すぎていたようですな」
伊藤さんは湯呑を取って、またお茶を一口飲んだ。
「ええと、伊藤さん、それはどういう……」
私は戸惑った。
確かに、私の頭の中には、2018年時点の医療の知識がある。けれど、実際に病院で働いたのは、たったの3か月だ。診察の経験なら、ベルツ先生や森先生の方が、私よりもはるかにある。
私の表情に、困惑の色を見たのだろう。伊藤さんは苦笑いを顔に浮かべると、口を開いた。
「以前、陛下がこう仰せられたことがありました。“章子は、病と城のことになると、人が変わる”と」
「はあ……」
私は曖昧に頷いた。確かに、城郭オタクだから、城郭に関係あることは、とことんまで追求したいという欲求はある。だけど……。
「あの、伊藤さん、私、病気のことを話すとき、そんなに人格が変わっています?確かに、禁煙と禁酒のことを話した時に、“恐ろしい剣幕だった”と陛下がおっしゃったとは聞いたことがありますけれど……」
恐る恐る口に出した私の疑問に、
「変わっておられますよ」
回答したのは大山さんだった。
「へ?」
「毎週のベルツ先生たちとの会合の時、梨花さまの瞳は、刀剣をご覧になるときの陛下の瞳と同じように、とても輝いております。俺には、城郭と医学の“まにあ”な話をなさっている時が、梨花さまが一番生き生きとなさっているように見えます」
「マジで?……じゃなかった、本当に?」
私は左に首を向けた。大山さんは微笑しながら、黙って頷いた。
「うーん、そうかあ……。大山さんが言うなら、本当なんでしょうね」
「そう。増宮さまは、普段からご活発で、ご聡明でもあらせられますが、時折、その活発さも聡明さも、全く失われてしまう時がございます。特に、政治や経済の話になると、借りてきた猫のように、おとなしくなってしまわれる」
伊藤さんに指摘された私は、全く反論できなかった。政治や経済の話は、確かに苦手とするところだ。
「ところが、その苦手な分野も、少しでも医療が絡むと、活発さと聡明さを取り戻されて、我々の思いもよらぬ知恵を考え付かれる」
「それは間違いないですね、伊藤さん。少しでも医学が絡むと、主治医どのは、途端に頭が回り始める。改軌論争の時は、医学が絡んでいないのに、わたしがやり込められてしまいましたが」
「ほう……原君がやられるとは。大山さんが助けたのであろうが」
「その通りです」
私は頷いた。あの時大山さんには、あらゆる面で助けられた。
「流石だ。大山さんが、“史実”と変わっているのは……」
伊藤さんはそこまで言って、言葉を止めた。
「どうしたんですか、伊藤さん?」
私が尋ねると、伊藤さんはハッとしたように私を見て、すぐに微笑した。
「いえ、何でもありません。……これは、わしの胸の中にしまっておきましょう。言ってしまったら、増宮さまが増長されますからな」
「何ですか、それは?そんな風に言われると、気になってしまいます」
「輔導主任としての、教育的な判断というものですな。わしが死ぬまで、漏らしませぬぞ」
伊藤さんはすました顔で答えた。「それはともかくとして、増宮さまはこのまま医師に、いや、上医になるための修業を積まれる方がよろしいと、この伊藤は思うのです」
「確かにな。わたしとしても、あなたが医療でも政治でも、その腕を振るってくれなければ困る」
原さんも重々しく頷く。
「大山さんも、それに異存はないでしょう?」
伊藤さんの言葉に、「もちろんですよ」と大山さんは即答した。
「そうですか……そうと決まれば、輔導主任として、増宮さまの教育の計画を立てなければならない。ふふふ、この美しくご聡明なプリンセスを、いかにして、世界に通用する上医にお育て申し上げるか……」
「あ、あの、伊藤さん、……そもそも、あなたは枢密院議長で、東宮大夫も兼ねているでしょう。私の計画ばかり立てるわけにもいかないんじゃないんですか?それに、政治的にもやらないといけないことがあるんじゃ……」
どこかうっとりとした表情で宙に視線を向けている伊藤さんに、私は突っ込んだ。
「政治的にやらなければいけないことですか……。それはほぼ、終わっておりますよ」
「は?」
「“史実”では、憲法の規定下では、内閣の中での、総理大臣と各大臣の関係があいまいでした。それは総理大臣の本来の地位と権限を、大幅に低下させるもの……。そして、総理大臣の支配を離れている軍が、暴走する危険も秘めていた。それゆえ、“史実”では、公式令を作成しました。……原君、覚えているかね?」
「あれですか。あのまま機能していれば、軍の行動が、だいぶ抑制されたでしょうな。当初は、わたしもその真の目的に気が付きませんでしたが……山縣が軍令を制定してしまったゆえ、主治医どのから聞いた“史実”が起こってしまったのでしょう」
(こうしきれい?ぐんれい?)
伊藤さんと原さんのセリフが全く分からなくて、私の思考が止まった。
「梨花さま?」
異変に気が付いたのか、大山さんが私に声を掛ける。
「ごめん……伊藤さんと原さんの言ってることが、全く分からない……」
「そのようだな。やれやれ……やはり、医学が絡まぬとだめか」
原さんがため息をつく。
「増宮さま、帷幄上奏についてはご存知ですか?」
伊藤さんの質問に、私は首を勢いよく横に振った。
「増宮さまがご存じの“史実”の帝国憲法には、天皇陛下が統帥権を持つ、と規定されておりました。統帥権と一般的な統治権とは区別され、内閣は統帥権に関して輔弼ができないことになっていました。ここまでは、増宮さまも“授業”の時、おっしゃっておられましたな」
「あ、はい、確かに……」
ようやく伊藤さんが、私にもわかるセリフを言ってくれた。
「統帥権に関して、天皇陛下を輔弼するのは軍です。軍は軍事に関する事項を、直接陛下に上奏し、統帥権を輔弼していました。これを帷幄上奏と言います。軍事に関する勅令は、“史実”では、陸海軍の大臣が、閣議を経ずに直接陛下に上奏して裁可を得て、その後、大臣の副署……英語では、カウンターサインと申しますが、それがあるだけで成立していたのです」
(カウンターサイン……)
そういえば、私も前世で研修医として働いていた時、カルテを書くにも、薬や点滴を処方するにも、必ず上級医のカウンターサインをもらわなければならなかった。処方する薬の内容によっては、カウンターサインがないと、薬局から病棟に薬が払い出されないものもあったのだ。
――ダメです。指導医の先生にカウンターサインをもらってからでないと、この処方薬は病棟に払い出せません。
慌てて処方をオーダーして、指導医のカウンターサインをうっかりもらい忘れ、薬剤師さんたちに叱られたことが、何度もあったことを思い出す。
「……その方式では、将来軍が勝手に行動して、内閣の意に添わぬことをやらかしかねない。そして、総理大臣の権限も強化しなければいけない。そこで、“公式令”という、命令の形式に関する法律を作成したのです。すべての法律や勅令には、総理大臣の副署が必要、という……」
「ええと、つまり、総理大臣が上級医で、各大臣が下級医だとすると、今まで下級医だけの判断で診療録を書いたり、処方したりしてよかったものが、全てに上級医の承認が必要になったってことかな?……確かにそれなら、陸海軍の大臣も、帷幄上奏ができなくなって、軍も総理大臣のコントロール下におかれますね」
「!」
原さんが目を見張った。「同じ状況が、医学でもあるのか?!」
「ああ……前世で医者として働いていた時は、そういうシステムで仕事をしていましたから。それで、軍令っていうのは、もしかして、その帷幕上奏を残すために山縣さんが作ったんですか?」
「……流石でございます」
伊藤さんが満足げに頷いた。「しかし、“史実”でわしが死ぬまでは、帷幄上奏を使って軍が暴走することはありませんでした。狂介はむしろ、軍令を濫用するな、と軍を厳しく戒めていた」
「わたしが死んだ当時も、同じ状況でした。山縣が生きていたからでしょう。恐らくその死後に、重石が外れた軍部が、帷幄上奏を濫用して暴走した……わたしはそう見ています」
「わしらが“授業”を聞いた後、話し合って出した結論と同じだな」
(え……あの時、そんなことを話してたっけ?)
首を傾げたら、
「あの時、梨花さまは話し疲れて、堀河どのに抱かれて長い間、眠っておられましたから」
大山さんが補足してくれた。そう言えばそうだった。
「しかし、現在の帝国憲法では、軍を指揮するのは内閣総理大臣と規定されていますし、内閣総理大臣が内閣の他の大臣を任命し、罷免する権利があることも示されています。今の公式令にも、全ての法律・勅令は、内閣総理大臣が上奏して裁可を請うことも、各大臣の署名とともに総理大臣の副署が必要なことを明記しました。帷幄上奏も廃止されております。皇室に関する皇室令も整備しなければいけませんが……これは勝先生と三条どのに任せましょう。有賀君を付けておけば万全です」
「なるほど……“史実”でもそうでしたね。今は総理秘書官ですが」
原さんが微笑する。
「法典調査会の、商法起草の業務は残っておりますが、金子君も、伊東君も、西園寺君もいる。それに何より、市之丞もいる。本年中には、大体終わりましょう。立憲政治も、今の議会の状況が続けば安定するでしょう。狂介も、“史実”とかなり考え方を変えて、政党の存在に否定的ではなくなっております。……君もだいぶ暗躍したようだが、原君?」
伊藤さんの問いに、「露見しておりましたか」と原さんが軽くため息をついた。
「いや、わしに“史実”の記憶が流れ込まなければ、気づかなかっただろう。それほど巧妙だったよ。……だが、原君。君が思っている以上に、狂介は自らの力で、己を変えているよ。心しておいた方がよい」
「どうやら、原のことは、心配をなさらずともよさそうですね、梨花さま」
伊藤さんと原さんのやり取りを聞いた大山さんが、私に囁いた。
「みたいね」
流石伊藤さん、と言うべきだろう。原さんが山縣さんを操ろうとしていたことなど、とっくに見通していたらしい。
(それじゃあ、私の嘘なんて、バレて当然だよね……)
「増宮さま?」
伊藤さんが私を呼んだので、私は慌てて背筋を伸ばし、「は、はい」と返事をした。
「落ち込んでいる暇はありませんぞ。“史実”よりも遥かにご立派に成長されている皇太子殿下のことは、この伊藤、心配致しておりませぬが、上医としてはまだまだ足りぬ、増宮さまの方が心配です」
「へ?」
(“史実”より、皇太子殿下が立派……?)
私の疑問をよそに、
「ですな。このお転婆を、せめて皇太子殿下と釣り合うように鍛えなければならない。でなければ将来、皇太子殿下の主治医として、廟堂で横に立つ資格はないだろう」
原さんは両腕を組んで、見事なドヤ顔で言い放つ。
「その通りだな、原君。君という有能な男も仲間に加わったことだ。我々4人で、いかに日本の将来を形作っていくか、そして増宮さまをいかにして上医とするか、智慧を巡らそうではないか」
伊藤さんがどこか凄みのある微笑を見せる。本能的に危険を察知して、私は恐る恐る大山さんを振り返った。
「あ、あの……」
「逃がしませぬよ、梨花さま」
気が付けば、両肩に掛かっていた力が取れていて、私は大山さんに横からしっかり抱きかかえられていた。
(逃げられない?!)
「梨花さま、何事も修業ですよ。この大山も、助力いたしますゆえ」
大山さんの微笑を見て、私は理解した。
もうこの場からは、絶対に逃げられないことを。
……結局、私たちが伊藤さんの所から辞したのは、正午過ぎだった。
本当は、もっと話が続きそうだったのだけれど、
「あの、皆様方、流石にこれ以上は、伊藤閣下のご容態に差し障りますので、そろそろご退出いただくよう……」
正午ごろに、三浦先生がやってきて、一同にきっぱりと告げたので、ようやく大山さんと原さんが腰を上げたのだ。
(助かった……でも、もっと早く、声を掛けて欲しかったなあ……)
余りにも濃密な話が長時間続いて、頭がいっぱいいっぱいになった私は、大きなため息をついて立ち上がった。私の今後の“教育方針”の話だけではない。現時点での政治の状況はもちろん、古今東西の政治体系やその成り立ち、そしてもちろん、世界情勢や外交の話など、苦手な分野のディープな話に、私の脳はオーバーヒートして、機能を停止しかかっていた。
「時計の針を、遅らせておけばよかったですな」
伊藤さんが、そんな私を見ながらニヤニヤ笑う。
「伊藤さん、これ以上は勘弁して……あなただって、疲れているでしょう?」
「なんのなんの。久しぶりに増宮さまにお会いできたのです。元気にならぬ方がどうかしております。まあ、玄人のおなごの相手をするのも、悪くはないですがな」
「ははは……“史実”でも今生でも、伊藤さんの女好きは変わりませんか」
原さんが苦笑しながら言う。
「当たり前だよ、原君。同じ話し合いでも、男の顔ばかり見ていてはつまらん。女性を相手する方がよほど気がまぎれて、いい知恵が浮かぶ。そう言っているのに、三浦君は堅物でなあ……。東京に戻るまで、女遊びはならんと言うのだ」
「それは医者として当然の判断です」
私は伊藤さんに冷たく言った。「きちんと三浦先生の言うことを聞いて、療養に励んでください。私からも、三浦先生によくお願いしておきます」
「冷たいですなあ……では、明日から、増宮さまに毎日御成になっていただきましょうか。増宮さまの顔を拝見するのが、この伊藤には一番の薬ですから」
「は?!」
私は目を丸くした。この“呪いの市松人形”の顔が薬になる、という、その発想にも驚くしかないのだけれど、いや、それよりも……。
「伊藤さん。私のほかにも、お見舞いのお客さんが来るでしょう?その人たちはどうするの?」
「“梨花会”の面々以外は、全員面会謝絶にしているのですよ。それに、明日からは平日ゆえ、みな仕事で大磯には来られませんな」
伊藤さんは余裕たっぷりの表情で私の質問に答えると、ニッコリ笑ってこう付け加えた。
「ひと月以上もの間、花御殿を空けていたのです。“士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし”とも申します。まだまだ、話足りないこともございますし……ご成長ぶりを、輔導主任に見せていただかなければ困りますぞ?」
「あの……ちょっとそれは、遠慮させてもらおうかな……」
そんなことより、大磯の山城の跡を、もっと探索したい。ひきつった笑顔を伊藤さんに向けると、ぽんと左肩を叩かれた。大山さんだ。
「梨花さま。申し上げるのを忘れておりましたが……」
「?」
首を傾げた私に、大山さんは微笑しながら言った。
「実は、今日から橘中尉と勤務を代わりまして……俺が増宮さまに、帰京まで付き添うことになりましたので、よろしくお願いいたします」
「え……ってことは……」
「伊藤さんのお見舞いにも、同行させていただきます」
(うえええええええ?!)
つまり、伊藤さんのお見舞いに、帰京まで毎日大山さんに連れて行かれる、ということだ。さっきまでの話し合いと同じような、私の苦手なディープな話が、これから毎日続くなんて……。
私の心を、激しい絶望が襲った。
「ふふふ……まあ頑張れ、主治医どの」
うつむいた私に、原さんが、ニヤリと笑いかけた。




