大磯にて(1)
「三浦先生、お久しぶりです」
1893(明治26)年1月15日、日曜日。
伊藤さんが療養している大磯の岩崎別邸で、私を出迎えてくれたのは、元東宮侍医の三浦勤之助先生だった。
「増宮さま、お久しぶりでございます」
2年ぶりに会った三浦先生は、どことなく、名医のような風格を漂わせていた。
(そりゃそうだよね。未来の帝大教授だから……)
原さんから、“史実”で、彼は帝国大学の内科教授になったと聞いたことがある。それにベルツ先生も、“三浦君は首席で帝国大学を卒業した”と言っていたし……。
「先生も、お元気そうで何よりです」
「ありがとうございます。増宮さまこそ、相変わらずお元気そうで」
そう言われた私は、三浦先生に飛び切りの笑顔を向けた。元気で無い方がどうかしている。だって、一昨日と昨日で、大磯駅近くの山城――高麗山城の跡を、“放線菌がいそうな土壌を探す”という大義名分の下、たっぷり探索できたのだから。城跡探索、じゃなかった、土壌探しに付き合ってくれた東宮武官の橘周太中尉が、私の城郭関連の知識量に呆然としていたけれど、気にしないことにした。……あ、もちろん、放線菌が生息していると思われる土も採取した。
唯一不満だったのは、親王殿下が手配してくれた“野外活動服”が、どう見てもシャーロック・ホームズの服装そのものだったことだ。ブラウンの地色の、千鳥格子模様の鹿撃ち帽に、同じ布地で作ったインパネスコート。その下に、これまた同じ布で仕立てたジャケットとスラックス……。
――これ、パイプを咥えたら、コスプレ衣装そのものじゃないですか!
東京で試着した時に、親王殿下に抗議したけれど、「こすぷれ……というのは、よくわかりませんが、イギリスの男性が郊外で狩猟をするときは、このような格好が一般的ですね」と、軽く流されてしまった。しょうがない、郷に入っては郷に従えだ。我慢するしかない。
(服装には不満があるけれど、“放線菌を探す”という大義名分を掲げれば、山城が思う存分探索できるわね。趣味と実益を兼ねた山城巡り……ふっふっふ……)
探索のことを思い返して、私が幸せに浸っていると、
「ベルツ先生のみならず、北里先生や森先生からも、医学のお話を聞かれていると伺ったので、根を詰めすぎて、お身体を壊されていないかと心配していたのですよ」
三浦先生が微笑した。まるで、暖かい春風のような笑顔だ。私もその笑顔に、曖昧な微笑を返した。
本当は、医学のことを話しているのは私で、聞いているのがベルツ先生たちだ。そしてもうすぐ、そのメンバーに三浦先生を加える予定だ。これは、ベルツ先生たちとも話し合って決めた。
(三浦先生に私の前世のことを話したら、滅茶苦茶びっくりされそうだなあ……)
こう思っていると、
「あの、増宮さま、大丈夫ですか?やはり、体調がお悪いのでは……」
三浦先生が、ものすごく心配そうな表情になった。
「あ、ああ、大丈夫です、三浦先生。先生こそ、伊藤さまにつきっきりで疲れているんじゃ……」
両手を振りながら私が尋ねると、
「心配は無用ですよ、増宮さま」
三浦先生の顔に、微笑が戻った。「伊藤閣下のご容体は安定しています。食欲もおありですし、手足の麻痺や、その他変わった症状も出てきていません。あと10日ほどは、経過を見る必要はありますが……」
「そうですか……。日本に帰って早々、こんな役目を頼んでしまって、本当にごめんなさい」
「とんでもありません。さ、伊藤閣下がお待ちです。どうぞ」
付き添ってきた侍従さんに、待機しているように伝えて、私は三浦先生の後ろについて、お屋敷の廊下を歩いた。
和服姿の伊藤さんは、和室の縁側であぐらをかき、庭を眺めていた。
「ちょっと、伊藤さま、寒くないんですか?」
「おお、これは、増宮さま……」
伊藤さんが振り向いた。1か月半ぶりに会った伊藤さんは、右頬のアザもすっかり消え、とても元気そうだ。その場で正座し直して、私に頭を下げようとする伊藤さんに、
「挨拶はいいから、部屋に入ってください。寒いでしょう?」
私は慌てて言った。
「増宮さま……わしを、老人扱いするのですか?」
「そういう訳じゃないけれど、……寒さで血圧が上がって、脳卒中にでもなったらどうするんですか?」
「ははは……増宮さまは、心配症ですな」
「あのね……あなたは日本にとって大事な人だから、何かあったら大変なんです。さ、中に入ってください」
「では、お言葉に従いましょうか」
伊藤さんが立ち上がったところで、一度部屋から出ていた三浦先生が戻ってきた。
「閣下、東京から、大山東宮武官長と、原内務次官がいらしているそうですが……」
(ああ、予定通りね)
今は、朝の8時半になっていないところだ。確か、大山さんと原さんは、8時5分に大磯に着く列車で来ると言っていたはずだ。
「閣下、今、増宮さまがいらっしゃいますが……お通ししてよいのですか?」
「構わんさ。……増宮さまも、よろしいですか?」
「ええ、構いませんよ」
私は、伊藤さんに、次いで、三浦先生に笑顔を向けた。
「……最初から、そのおつもりだったのでしょう?」
三浦さんが、大山さんと原さんのところに向かい、伊藤さんと二人きりになったところで、伊藤さんが私に小声で確認した。
「ええ。……政治の経験がない私には、手に余る話になりそうだと思ったから」
「なるほど……しかし、大山さんはわかりますが、なぜ、原君を?」
「だって、他の皆は、今日は陛下にご陪食を命じられていますから。児玉さんと山本さんも、ハワイ問題の件で国軍省に詰めて情報分析をしているし……だから、原さん」
私の言葉を聞いた伊藤さんは、微笑した。
「ほう、日曜日の本日にご陪食ですか……まあ、いいでしょう。わしも、東京に戻る前に会っておきたかったのですよ、あの2人には」
(大山さんと、原さんに?)
私が首を傾げた瞬間、三浦先生に案内されて、大山さんと原さんが部屋に入ってきた。二人とも、フロックコートを着ている。
「ありがとう。……では、茶を用意してもらってよいかな?そして、この部屋に、誰も近づけぬように」
「わかりました。閣下、ご無理なさいませぬよう」
三浦先生は伊藤さんに一礼して、部屋を出て行った。
「さてと……。何から話せばよいですかな、増宮さま?」
湯呑を手にした伊藤さんが、首を傾げた。
「……正直、私もどうしたらいいか、わからないです」
私は苦笑した。「明治42年までの“史実”の記憶が、伊藤さんの中にはあるけれど……この時点で、“史実”と比べて、状況は色々と変化しているんですよね?」
「ええ、それは、昨年事故に遭った直後に、お話しした通りですな」
伊藤さんが、お茶を一口飲む。
「憲法が変わっていること。治外法権が撤廃されたこと。今の内閣が崩壊していないこと。国軍が合同したこと。大津事件の結末が違うこと。濃尾地震での人命損失が減ったこと。主なところは、このぐらい?」
私が確認すると、
「そうですな。それから重要なのは、議会が、政治にとって相当よい形で機能している、ということです」
伊藤さんが付け加えた。
「……伊藤さん、ごめんなさい。私、“史実”の議会のことは、第1回帝国議会のことぐらいしか知らないです。板垣さんの訴えた“民力休養”ぐらい」
「おや……状況が好転しているのは、増宮さまのおかげですが」
伊藤さんが私を見た。「まず、条約改正の成功を受け、大隈さんの立憲改進党が議席を伸ばし、板垣さんの立憲自由党とほぼ同数の議席を獲得しました。立憲改進党が政府の与党として機能しておりますから、国会運営がやりやすくなっていますな。今は、最初無所属だった議員が何名か、立憲改進党に入党しましたから、立憲改進党の議席が立憲自由党を上回っている。そして、両党の間で、至極建設的な議論がなされている……己の権力をいかに伸ばすかという政争や抗争ではなく、理性の下に、何が国益であり、何が国益でないかについての議論が行われている。これは……わしが“史実”でやろうと思って、やれなかったことです」
「え、ええと……確かに、私の時代みたいに、国会内で乱闘とか、党内の派閥間での争いとかは起こっていないみたいだけれど……」
私は戸惑った。ただ、ネットやテレビで情報をちょっと齧っただけの前世の私の認識は、一方的なものの見方になってしまっていると思う。本来なら、テレビの国会中継を見るなり、議事録を読むなりして、情報を得なければいけなかったのだから。
「そう、最終的には、理性は感情や欲望に負けてしまいがちです。偉くなって人を支配したい、国を支配したい、そして、目的のために自らと異なるものと協力するのではなく、排除しようとする……」
伊藤さんは大きなため息をついた。「今思えば、前世のわしは、理想にこだわりすぎたのかもしれん。“史実”の後世の評価など、わしの知ったことではないが……」
(ああ……)
――あてにもならねぇ後世の歴史が、狂と言おうが、賊と言おうが、そんなことは構いやしねぇ。だからおれたちは、誠心誠意、今の最善と思われることをするしかねぇのさ。
大津事件の直前、勝先生が言った言葉が、私の頭を過る。
「おっと、話が逸れました。議会の状況の話でしたな。“史実”では、狂介が軍備拡張を主眼とした予算を議会に提出して、第1回議会からその予算をめぐって揉めました。その後も海軍の軍拡予算で、議会と内閣が衝突を繰り返しましたからな。増宮さまも“授業”でおっしゃっておられましたが、軍艦建造の予算を成立させるため、皇室費から軍艦増備のために支出を行い、官僚の俸給を削り、陛下に詔勅を下していただくということまでやらざるを得ませんでした。今の時の流れでは、軍艦建造予算を含む国家予算については、第2回議会で無事に成立しました。“富士”という名前になるかはわかりませんが、来年の春には、軍艦が1隻進水できるでしょう」
“富士”……恐らく、“史実”で何とか成立させた予算で建造した軍艦の名前なのだろう。
「それに、“民法典論争”でも、国会は混乱をきたしておりました。民法は無事に議会を通過したと、数日前、市之丞から連絡をもらいました。“史実”でも、わしは法典調査会を作って民法と商法とを起草しましたが……」
そうでしたね、と相槌を打ちかけて、私は言葉を飲み込んだ。民法典論争が“史実”で発生したこと自体は、“授業”の時にも話しているけれど、法典調査会が“史実”でもあったことは、原さんに聞いて初めて知ったことだ。下手に口出しをしてしまうと、伊藤さんに怪しまれてしまう。
「あとは?伊藤さん。“史実”と今の時の流れで、他に変わっていることは?」
私が慌てて尋ねると、「枚挙に暇がありませんが……」と伊藤さんは腕を組んだ。
「一番は、増宮さまが生きていらっしゃること。それと、三条どのも生きておられるし、市之丞も生きております」
「は……?!」
私は目を丸くした。
「う、嘘でしょ?!」
三条さんが、“史実”では一昨年の2月に亡くなっていたことは知っている。けれど、山田さんまで……?まだ50歳になっていないはずだけれど……。
そっと原さんと大山さんの方を見ると、2人とも驚いているように、私の目からは見えた。山田さんはともかく、三条さんの“史実”での死期は、この3人での秘密だから、上手くお芝居しているのだろう。
「本当です。三条どのは、一昨年の2月にインフルエンザで。市之丞は昨年の11月、生野銀山を視察中に、突然倒れて亡くなりました」
「インフルエンザと……視察中に突然倒れたって……あ゛」
私は変な声を出した。
「一昨年の2月って……三条さん、インフルエンザに罹っていたけれど、“史実”では、それが命取りになってしまったということですか?あと、山田さんが突然倒れて亡くなったって……まさかとは思うけれど、脳梗塞とか脳出血とか、くも膜下出血とか大動脈瘤破裂とか、高血圧が危険因子になる疾患で……」
血の気が引いて、私は思わず、畳に前のめりに倒れそうになった。
「梨花さま!」
大山さんが、素早く私の左側に寄って、私の身体を支えてくれる。
「大事ありませんか?」
「大丈夫、大山さん、驚きすぎただけ……」
私は呼吸を整えながら答えた。「ああ、何とかして、降圧薬を開発しなきゃ。でも、細菌や植物が産生する物質に、降圧作用のある成分ってあるのかなあ……?」
「まあ、それは牧野先生たちにお任せすればよろしいでしょう、梨花さま」
「そうね……」
両肩を横から大山さんに支えられながら、私は大きく息を吐いた。
「三条どのの件は……時期的に、増宮さまのおっしゃった通りでしょう。市之丞に関しては、詳しい死因までは分かりませんでした。倒れた時に頭をぶつけ、そのまま起き上がれなかったということぐらいしか」
伊藤さんが言う。
病気で倒れて頭をぶつけたのか、それともたまたま転倒して、頭を強打して外傷性の脳挫傷や脳出血を起こしたか……。どちらかは分からないけれど……でも、とにかく、今、山田さんが生きていてくれて、本当に良かった。
(山田さんに、ストレスや過重な負担を掛けないようにして、血圧が上がらないようにしないと……)
密かに決意していると、
「ところで、増宮さま。わしも増宮さまに聞きたいことがあるのです」
伊藤さんが口を開いた。
「増宮さまは、どうやって、“史実”ではご自身がとうに亡くなられていることをお知りになったのでしょうか?」
一瞬、周りから音が消えたような気がした。
「どうやって、って……伊藤さん、あなたが事故で気を失って、目を覚ました時に教えてくれたじゃないですか」
私は目を閉じて、伊藤さんの質問に答えた。
すると、
「いいえ、その前からです」
伊藤さんが静かに言った。
私の肩を支える大山さんの手の力が、ちょっとだけ強くなった。
「は?」
私は目を閉じたまま、大げさに首を傾げてみた。
「増宮さまは、わしが事故に遭う前から、“史実”ではご自身が亡くなられていることを、ご存じのはずです」
「伊藤さん、何を言っているのか分からないです」
私は、伊藤さんが目を覚ました時のことを必死に思い出しながら、苦笑してみせた。
伊藤さんは、私のことを疑っているのだ。私が“史実”のことを、知り過ぎていると。それを私は感じ取った。
けれど、その“史実”の知識の供給源が原さんであることは、絶対に隠し通さなければならない。原さんと伊藤さんが争って、その結果国力を下げるような事態には、絶対になってほしくない。
(この場は、絶対に切り抜けないと……)
それも、私の力だけで、だ。伊藤さんが事故に遭ってから意識を取り戻した時、大山さんも原さんもその場にはいなかった。だから、私が何とか、真実を隠し通さなければならない。
「ほう、そうですか。それではなぜ、わしが目を覚ました時に、“私の存在が、一番不思議だろうが”と仰せになられました?」
伊藤さんは更に私に尋ねる。
「それは、……伊藤さんは私の輔導主任なのに、こんな私のことを口説こうとしたから、私のことを分かってないんだろうなって」
「認識を改めていただきたいことがありますが、それは脇に置いておきましょう。……ではなぜ、わしに“史実”の記憶が流れ込んだことを、すぐに見抜かれましたか?」
「“満鉄”とか“ココツェフ”とか“ハルビン”とか言ってたから、まるで、“史実”で暗殺されたときの伊藤さんのことだと思って……」
「増宮さま」
伊藤さんの声が硬くなった。
「目をお開け下さい」
「嫌です。伊藤さんの怖い顔を見たくありません」
「輔導主任の申し上げることが、聞けませぬか」
伊藤さんがピシャリと言った。初めて聞く、伊藤さんの厳しい口調に、背筋が凍りそうになる。
「以前より、思っていらっしゃることが表情に出なくなったとはいえ、必死に頭を働かせていらっしゃることぐらいは読み取れます。いい加減、観念なさったらいかがか」
まるで、耳元に銃口を突き付けられたようだ。身を竦めそうになるのを、堪えるのがやっとだった。
「お待ちください、伊藤閣下。殿下が怯えていらっしゃるではありませんか」
横から、原さんが伊藤さんに抗議する。
「原君……口出ししないでもらおうか。これは輔導主任として、申し上げなければいけないこと」
伊藤さんは、原さんにも厳しい声で告げる。原さんに“史実”の記憶があることを、伊藤さんは感づいているのだろうか。
と、
「梨花さま」
大山さんが、そっと私の耳元で囁いた。
「伊藤さんの言う通りに……」
分かっている。
でも、怖い。目を開けたら、伊藤さんの鋭い眼光で射すくめられて、全く身動きが出来なくなりそうで怖い。
「梨花さま」
大山さんが、また囁いた。私の両肩を支える力が、更に少し強くなる。
(あ、そっか……)
この状況の中でも、大山さんなりに、私を励ましてくれているのだ。
だけど、この場から逃げろとは言わない。
例え結果が決まっていたとしても、これは、私が、最後まで戦い抜かなければならないことだから。
(しょうがない、か……)
私は深く息を吸い込んで、ゆっくり目を開けようとした。
すると、
「やれやれ、勝負にもならないか。そちらがボロを出しては、どうしようもないな」
原さんの声が聞こえた。
「え……?」
私は目を見張った。原さんの口調は、普段、伊藤さん達に相対する時のような、丁寧で恭しいものではない。私と大山さんしかいないところでしかしない、ちょっと偉そうな物の言い方だった。
「まあ、当然か。いくら上医を目指しているとは言え、前世では医術の修業しかしておらぬのだ。この状況で、伊藤公に抗って白を切るなど、無謀に過ぎるよ、主治医どの」
(伊藤“公”?)
伊藤公爵、ということだろうか。でも、今の伊藤さんの爵位って、確か伯爵だったはずだけれど……。
「ほう」
伊藤さんが腕を組んで、原さんを見やった。
「わしが伯爵から陞爵したのは、“史実”では再来年の話だ。それを知っている、ということは……」
伊藤さんはニヤリと笑った。
「増宮さまの“史実”の知識の出所は、やはり君か、原君」
「その通りですよ、伊藤さん」
原さんも、不敵な笑みを返した。




