舞い落ちた雪(1)
1926(大正11)年2月2日火曜日午前9時15分、皇居・表御座所にある天皇の執務室、御学問所。
「そうか……」
報告をしにやって来た宮内大臣の牧野伸顕さんに応じると、兄は天を仰いだ。
「リリウオカラニ女王陛下が、亡くなられたか……」
「はい」
呻くような兄の声に、牧野さんは返答すると一礼する。袖机の前に座っている私も、黙って頭を垂れた。
ハワイ王国のリリウオカラニ女王は、ここ2、3年、体調を崩して療養していた。しかし、その甲斐なく、現地時間の2月1日の昼過ぎ……今から数時間前に亡くなった。牧野さんはハワイの日本大使館から至急電で届けられた情報を、兄に言上しに来たのだった。
(87歳か……この時代としてはかなりの長寿ね……)
私は10年前、ハワイ王国を訪れた時に出会ったリリウオカラニ女王の姿を脳裏に思い描いた。好奇心が旺盛な彼女は、ハワイ王国の生き残る道を常に模索する、しっかりとした人だった。リリウオカラニ女王の跡を継ぐカイウラニ王女は、聡明で、国民からの人気も高い人だ。けれど、30年以上の長きにわたってハワイ王国を治めた女王の崩御は、ハワイ王国の内外に少なからぬ動揺を与えるに違いない。
「兄上」
私は少し椅子を動かし、兄に身体を向けた。
「栽仁殿下と私を、東京でのリリウオカラニ女王陛下の追悼式に派遣してもらえないかな?兄上と節子さまの名代で」
「梨花?」
訝しげな目を私に向ける兄に、
「日本とハワイは、同盟は結んでいないけれど、強い友好関係にあるわ」
と私は言った。
「リリウオカラニ女王陛下が亡くなったから、日本とハワイは今まで通りの関係ではなくなる……と邪推する国が出てくるかもしれない。そんな国が、代替わりで混乱するハワイの領土を狙う展開も考えられる。ハワイは絶対に守らなきゃいけないわ。お父様が陸奥さんに命じて建て直させた国だもの。……だから、日本とハワイは引き続き友好関係にあるというメッセージを、私が追悼式に出席することで世界に発信したいの。本当は、兄上と節子さまが追悼式に出られればいいのだけれど、外国の王族の追悼式には、兄上と節子さまの名代で皇族が出席する決まりだから……」
「……随分と強いメッセージになるぞ」
兄がそう言うと、口の右端だけを上げた。「“極東の平和の女神”と崇められるお前が自ら動くのだ。それに、今まで、お前が外国の王族の追悼式に出席したことはないしな」
「そうね。強すぎるメッセージになってしまわないか、というのは、私も心配しているわ」
懸念を口にした兄に、私は素直に頷いた。
「だから、幣原さんとは相談したい。牧野さんと大山さんとも、じっくり話し合いたいし、必要があれば、伊藤さんと陸奥さんと、それから……」
山縣さん、と言おうとして、私は口を閉じた。……ダメだ。今の山縣さんに、国政に関わることを聞くのは、余りにも酷だ。だって……。
「梨花」
兄が即座に口を開いた。「山縣顧問官の名を挙げようとしたか?」
「うん……」
私は目を伏せた。「あの状況で、こんなことを聞くのは……」
すると、
「私は聞くべきだと思います」
牧野さんが穏やかな声で、けれどキッパリと言った。
「山縣閣下にご下問なされば、山縣閣下の命を縮めてしまうのではないかと内府殿下が恐れるのも分かります。しかし山縣閣下は、自らの身体がどうなろうとも、国事に全力を尽くしたいと考える方です。そのような方に、国事に関するご下問が急になくなってしまえば、自らの力を尽くせないことを嘆き悲しみ、それで寿命を縮めてしまうでしょう」
「そうですね……」
私は牧野さんに答えると両肩を落とした。「それもあり得ますね。山縣さんの性格を考えると……」
「伊藤顧問官にも聞いてみよう。山縣顧問官にこの件を尋ねてよいかどうかを」
兄が優しい声で私に言った。「山縣顧問官に尋ねるのは、その答えを聞いてからでも遅くはないだろう」
「分かった。兄上の言う通りにする」
私が顔を上げて頷くと、
「それよりも、だ」
兄は私に向けていた視線を、今度は牧野さんに注いだ。
「俺は山縣顧問官の見舞いに行けるのだろうな?」
「はい、今週の金曜日には」
打って変わって厳しくなった兄の声に、牧野さんは落ち着いて答えた。
山縣さんは今年に入ってから体調を崩し、小石川区にある自宅で療養している。東京帝国大学医科大学の三浦謹之助先生が山縣さんに下した診断は摂護腺癌……私の時代で言う前立腺癌だった。しかも三浦先生の見立てでは、既に肺に転移しているということだ。山縣さんに残された時間は、長くはないだろう。
「しかし陛下、よろしいのですか?」
牧野さんの言葉に、兄は「ん?」と眉を動かして応じた。
「天皇が臣下を見舞うのはただ一度、それも臨終の直前にするべきだと申す者もいます。今の山縣閣下は、不治の病にかかられているとは言え、命尽きるのが差し迫っている訳ではございません。この時期に山縣閣下をお見舞いになりますと、とやかく言う輩が出て参る可能性もございますが……」
「言わせておけ」
兄は牧野さんに不機嫌そうに言った。「俺は何度でも山縣顧問官を見舞う。教えを乞いたいこともあるし、礼もたくさん言わねばならない。本当は、山縣顧問官の病室を皇居に移してしまいたいくらいなのだ」
「はっ……」
「もし、“前例がない”としつこく言ってくる奴がいたら、お父様が岩倉公を見舞った時の例を引いて反論しろ。お父様は岩倉公が亡くなる2週間ほど前、そして亡くなる前日と、2回お見舞いなさったのだ」
頭を下げた牧野さんに、兄は厳しい声でなおも指示する。
「兄上、そのくらいで大丈夫よ。牧野さんはちゃんと分かっているから」
見かねた私が横から止めると、兄は「あ、ああ……」と頷き、やっと口を閉じた。
「では、諸々、進めさせていただきます」
一礼して冷静に言った牧野さんに、
「ああ……済まなかった。つい、頭に血が上ってしまって」
謝罪の言葉を口にして頭を下げた兄は、
「そうだ、山縣顧問官に、俺が見舞いに行く時は何も準備しなくていい、と伝えてくれよ。俺への礼を失してはならないと必死になり過ぎて、山縣顧問官を疲れさせるようなことがあってはならないからな」
こう付け加えて、牧野さんを睨むように見つめた。
1926(大正11)年2月7日日曜日午前10時、東京市小石川区関口町にある山縣さんの家。
「この度はお見舞いいただき、まことにかたじけなく存じます」
山縣さんが寝室として使っている洋間。その床に敷きつめられたじゅうたんの上に、山縣さんは平伏していた。寝間着の上から紺色の羽織と袴をつけた山縣さんは、少し痩せている以外は全く病人らしく見えなかった。
「山縣さん……」
鼠色の背広を着た栽仁殿下の隣で、私はため息をついた。「おとといも、兄上に言われたじゃないですか。“羽織袴をつけて出迎えるには及ばない。ベッドで寝ていろ”って」
「お言葉ではございますが、内府殿下」
上体を起こすと、山縣さんは鋭い視線を私に投げた。「それは恐れ多くも、天皇陛下からのご命令でございます。内府殿下からのご命令ではありません」
「確かにそうですけれど……」
私が顔をしかめると、
「諦める方がよろしいですぞ、内府殿下」
山縣さんの看病のために病室にいた伊藤さんがカラカラと笑った。
「狂介は、なかなか意見を曲げぬ男ですから」
「それは知ってます。……なら、実力で対抗するしかないですね」
私の言葉に、
「ああ、なるほど、そういうことか」
栽仁殿下はニヤッと笑うと、「謙仁、禎仁、こっちにおいで」と、後ろにいた息子たちを手招きした。
「山縣の爺を起こして、ベッドに寝かせるよ。手伝ってくれるかい?」
「「はい!!」」
学習院中等科の2年生に進級した謙仁と、同じく中等科の1年生になった禎仁が、元気よく返事をすると山縣さんの両脇に取りつく。成長期に入って背が伸びてきた2人の少年と、更に後ろから加わった栽仁殿下に、山縣さんはあっと言う間に持ち上げられ、そばにあったベッドに寝かせられた。
「これはやられたな、狂介」
話しかけた伊藤さんに、「ああ、恐れ多きことだが……」と応じた山縣さんは、左右を見回すと、
「そう言えば、女王殿下の姿が見えませぬが……いかがなさったのですか、内府殿下?」
私に心配そうに尋ねる。
「ああ、万智子も一緒に来ていますよ。今、この家のお台所を借りていますけれど」
「台所……でございますか?」
山縣さんが私の答えに首を傾げた瞬間、病室のドアがノックされ、
「お待たせ、山縣の爺」
丸盆を捧げ持った万智子が笑顔で病室に入ってきた。
「余り食欲がないと聞いたから、これなら少しは食べられるかしらと思って、みかんのシャーベットを作ってきたの。お台所を借りて盛り付けたわ」
「何と……」
目を丸くした山縣さんに、
「万智子は、昨日から頑張って準備をしていたんですよ。よろしければ、召し上がってください」
栽仁殿下が優しく言う。ベッドの上に身体を起こした山縣さんは、万智子が持ってきたシャーベットに合掌すると、スプーンを手に取った。
「ああ……」
シャーベットを一口食べた山縣さんは、両目に涙を浮かべた。
「今までに口にしたシャーベットの中で、最も美味なるものでございます。まさしく、甘露と呼ぶべき……」
「本当?!よかったわ」
山縣さんの感想を聞いた万智子が満面の笑みで言う。
「みかんにはビタミンが含まれているのよ。これで山縣の爺もきっと元気になるわ。早く元気になって、また盛岡町に来てちょうだい」
明るい声で励ます万智子に、
「恐れながら……」
山縣さんは頭を下げた。
「女王殿下のご期待に沿い奉りたいのは山々ですが、残念ながら、わしの身体を蝕んでいるのは、今の医学では治すことのできない病でございます。ですから、もう盛岡町に参上することはできますまい」
「そんな……」
万智子は山縣さんの言葉に目を見開いた。そして、縋るように私を見つめる。万智子と、そして万智子と同じような目で私を見つめる謙仁と禎仁に、私は頷くことしかできなかった。
「いくら医学が発展しても、人は必ずいつかは死ぬるものでございます」
悲しげに自分を見る子供たちに、山縣さんは穏やかな声で言った。
「しかし、人は死んでしまえばそれで終わり、というものではございません。人には記憶というものがございます。死んだ者の名を目にした時、死んだ者の事績に触れた時、人は死んだ者を思い起こすことができます。その声を、その想いを、在りし日と同じように……そうやって、人は大なり小なり、先人の想いを継いで生きていくのです。少なくとも、わしはそうして参りました」
「「「……」」」
謙仁と禎仁は、静かに語る山縣さんをじっと見つめている。万智子はうつむいて、時折両肩を震わせていた。
「女王殿下」
山縣さんの声に「はい」と答えた娘の顔は、涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「女王殿下はご聡明で、非常にしっかりしていらっしゃいます。以前、お母上から伺いましたが、栄養学を学びたいと考えていらっしゃるとか。であれば、このシャーベットが甘露のようであるのも納得致します」
「山縣の爺……」
「栄養学というものは、維新の頃にはない学問でした。発展すれば、多くの者の生活を豊かにするでしょう。ですからどうぞ、初志を忘れずに学問に励まれますように。そして、お母上と同じく、よき夫君に恵まれますことを祈っております」
山縣さんの言葉を聞いた万智子は、顔を上げて山縣さんを見つめると、
「分かった、山縣の爺。私、きっと、爺の言うようにするわ」
しっかりした口調で言う。それを聞いた山縣さんは満足そうに頷き、次に謙仁に目を向けた。
「謙仁王殿下」
「はい」
顔を強張らせて返事をした謙仁に、
「殿下は将来、お父上や祖父君と同じように、海兵士官を志していると聞き及びました」
山縣さんは静かに語り掛ける。
「その一方、殿下は将来、有栖川宮を継ぐ方でもあらせられます。ですから、欲を満たすために殿下に近づく者たちに、どうしても付きまとわれてしまうでしょう。付き合いをなさる方はよくお選びになって、邪心をもって自らに近づく者たちを遠ざけるようにお願いいたします」
「分かった、山縣の爺。肝に銘じるよ」
謙仁が首を縦に振ると、山縣さんは、今度は禎仁をじっと見つめる。まさか自分に順番が回って来るとは思っていなかったのだろう。禎仁が慌てて背筋を伸ばした。
「さて、禎仁王殿下は、いずれ臣籍に入られる身でございますが、だからと言って、怠けてよいという訳ではありません。今のうちから、学問も諸芸も、そして心も磨かなければ、臣籍に降下なさった時、凡百の華族のうちの1人になってしまいます」
「うん」
頷いた禎仁に、
「ですから、ご修業に励み、あらゆることをお磨きください。さすれば、禎仁王殿下は、将来の日本に欠かすことのできない人物におなり遊ばすでしょう。そこまでご成長なさった姿を、是非、泉下の爺に見せてくださいませ」
禎仁が諜報の道を志していることは、万智子と謙仁は知らない。山縣さんもそれを分かっていて、禎仁に具体的な進路のことを言わなかったのだろう。禎仁がそこまで察したかどうかは分からなかったけれど、
「分かったよ、爺。僕、頑張る」
禎仁は真剣な表情で山縣さんに答えた。
「若宮殿下」
山縣さんの視線は、栽仁殿下に向けられる。栽仁殿下は、「はい」と山縣さんに応じると、山縣さんの目をじっと見つめた。
「内府殿下のご夫君として、色々とご苦労もおありのはずですが、それを感じさせぬご精励ぶり……若宮殿下には、誠に感服致すばかりでございます」
「過分なお言葉、恐れ入ります」
頭を軽く下げた栽仁殿下に、
「これからも、どうか内府殿下を支えていただきたい」
山縣さんは同じように頭を下げて言った。
「内府殿下を希代の女丈夫と見る向きも世間にはあるようですが、内府殿下はお優しく、そして繊細なお心をお持ちの方です。心をすり減らすような激務が続けば、内府殿下のお心が壊れてしまうやもしれませぬ。そんな時にはどうか、内府殿下のお心をお支えください。これは、内府殿下と相思相愛の仲であらせられる若宮殿下にしかできないことでございます」
「あ、あの、山縣さん……」
まさか、山縣さんがこの場でこんなことを言うとは、考えてもいなかった。思わず顔を赤くした私の隣で、
「分かりました。引き続き章子さんを守り、支えていく所存です」
と栽仁殿下はキッパリ言い切る。私を見た伊藤さんが、声を出さずに笑った。
「さて、内府殿下」
山縣さんに呼ばれた私は「はい」と返事をすると、聴覚に全神経を集中させた。
「幼き頃より皆と見守って参りましたが、内府殿下は本当にご立派にご成長なさいました。強いて言えば、敷島の道に熟達なさっておられないのが、手ほどきをしたわしとしては痛恨の一事なのですが、内府殿下は実学がお好きですから、致し方ないことかもしれません。……しかし、内府殿下の身近には、有栖川宮殿下がいらっしゃいます。今後は是非、有栖川宮殿下から、和歌のことをお教えいただきますように。風雅の道に心を寄せることは、時に、心のよりどころとなることがございます。内府殿下には雲をつかむような話かもしれませぬが、どうか、お忘れなきように願います」
「……分かりました」
私は山縣さんに申し訳なく思いながら頭を下げた。爺が亡くなったころから……30年近く前から、山縣さんには和歌を教わっていたのに、苦手意識が先に立ってしまい、私は和歌からつい逃げてしまう。けれど、それはもう許されないだろう。皇族の1人としても、山縣さんの教え子としても……。
と、
「山縣閣下、よろしいでしょうか」
病室のドアの外から、山縣さんの家の職員さんらしき男性の声が聞こえた。
「内閣総理大臣の原閣下がいらっしゃいましたが、いかがいたしましょうか」
「ああ、それは……」
「どうしたものかのう……」
山縣さんと伊藤さんが迷っているのを見て、
「私たち、これで帰ります」
私は即座に山縣さんに言った。
「原さんも忙しいですからね。……山縣さん、もし私に言いたいことがあれば、遠慮なく呼んでください」
私は家族を促して、山縣さんの病室を出る。原さんはドアのすぐそばにいて、私たちが廊下に出てきたのを見ると最敬礼した。そして、原さんは私たちと入れ替わるようにして山縣さんの病室に入った。
ふと、私は、原さんが山縣さんに何を話すのかが気になった。“史実”では、藩閥政治の打倒に心血を注いだ原さんだ。この時の流れでは、“史実”の記憶を持つことを一部の人以外には伏せ、山縣さんから本心を包み隠して立ち回っているけれど、死の床にある山縣さんに、原さんは一体どんな言葉を掛けるのだろうか。
(伊藤さんがいるから、変なことは言わないと思うけれど……)
もし原さんが妙なことを言い始めたら、彼を止めなければならない。「母上?」と言いながら振り返った万智子に「先に行って」と小声でお願いすると、私は病室のドアに身体を寄せた。
『お顔色が良さそうで、少し安堵いたしました』
室内の様子を窺っていると、原さんの声がドアの向こうから聞こえた。
『いや、だいぶ疲れているよ。今、内府殿下に遺言を申し上げたところでね』
原さんに応じる山縣さんの声からは、先ほどまであった張りがなくなっていた。
『原君にも、遺言をせねばならん』
『そんな、山縣閣下、何をおっしゃいますか』
原さんは、山縣さんに対して、きちんと猫をかぶっているようだ。私が胸をなで下ろした時、
『なぁ、原君、これからの日本を頼むぞ。“史実”の記憶を持つ者として……頼むぞ』
ドアの向こうの山縣さんはこう言った。
(え……?)
「章子さん、何してるの。帰るよ」
目を見開いた私の手を、先に行って戻ってきた栽仁殿下がガシッと掴む。そのまま、山縣さんの家の玄関へと歩かされた私は、山縣さんの言葉を深く考察する機会を失ってしまった。




