閑話:1925(大正10)年冬至 ワルシャワの居酒屋
1925年12月23日水曜日午後6時30分、ロシア帝国領・ワルシャワ。
このワルシャワという町は、かつて、この地域一帯を治めていたポーランド・リトアニア共和国の首都として発展した。しかしながら、ポーランド・リトアニア共和国は、幾度か発生した戦争や内乱により国力を衰退させ、プロイセン・ロシア・オーストリアという隣接する強国に3度その領土を奪われ、1795年に滅亡した。19世紀に入って、ナポレオンの軍隊がヨーロッパを席巻した時には、彼の手によってワルシャワを首都とする大公国が建国されたけれど、それも数年の夢と散り、現在のワルシャワは、ロシア帝国の1地方都市としての地位に甘んじている。
そんな歴史を持つワルシャワの町にある1軒の居酒屋で、酒と食事を楽しみながら、1日の労働の疲れを癒しているイタリア人の兄弟がいた。ヴィットーリオ・エマヌエーレ・トリノ・ジョヴァンニ・マリーア・ディ・サヴォイア=アオスタ……かつて“トリノ伯”と呼ばれた兄、そして、ルイージ・アメデーオ・ジュゼッペ・マリーア・フェルディナンド・フランチェスコ・ディ・サヴォイア=アオスタ……“アブルッツィ公”という儀礼称号を有していた弟、彼ら2人はそれぞれマリオ・ロッシとルイージ・ヴェルディという偽名を名乗り、故郷イタリアを飛び出し、肉体労働をして資金を貯めながら、東洋の神秘の国・日本へと陸路向かっている途中だった。
「なぁ、兄者」
ビールを飲みながらドイツ語で印刷された新聞を読んでいた弟が、紙面から顔を上げて兄に話しかけた。イタリアからの道中でドイツ語は読み書きできるようになった彼らだが、ロシア語はいくらか話せるようにはなったものの、まだ読むことはできなかった。
「何だ、弟よ」
“ミュート・ピトニィ”という、この地域で愛飲されている蜂蜜酒をちびりちびりと飲みながら、小説の原稿を書いていた兄が応じると、
「この記事、知ってるか?ブルガリアの……」
弟はそう言いながら、持っていた新聞を渡す。その中の記事の1つには、見出しに、“ブルガリア国王ボリス3世の弟・プレスラフ公処刑”とあり、今年7月から続いていたブルガリアの動乱の顛末が記されていた。
「ほう、プレスラフ公が処刑されたか。これは、ボリス3世も思い切ったな」
顎を撫でながら呟いた兄に、
「しかし、当然の結果だぞ、兄者。お付き武官たちを使って農民たちを扇動し、国王退位を狙ったというのだから」
弟は冷静な口調で返した。
「だが、弟よ。農民を扇動して王位を狙うとは、また大それたことではないか。そんなことをしなくても、兄のボリス3世が死ぬのを待っていれば、プレスラフ公に王位が転がり込むのだぞ。プレスラフ公は、ボリス3世のただ1人の王位継承者だったのだから」
弟の言葉を聞き、更に自分でも記事の詳細に目を通した兄のマリオは、呆れたように弟に言う。
すると、
「俺は、プレスラフ公の気持ちが、少し分かるような気がするな」
弟のルイージはこう返し、ビールを呷った。
「ブルガリアの国王陛下とプレスラフ公は、1歳違いだったそうだ。それに、国王陛下は今のところ独身だが、ご結婚なさって男子が生まれれば、王位はその男子に持っていかれてしまう。だから、今のうちに、王位を自分のものにしておきたいと考えたのかもしれないな」
ルイージは少し寂しげに微笑むと、今度は打って変わって明るい口調で、
「その点、俺は幸せだ。麗しい女神に我が生涯を捧げられるのだから」
と言って、再びビールを呷る。
「その通りだ、弟よ」
マリオも嬉しそうに弟に応じた。「我々は既に国を捨てた身。もしもあのままイタリアにとどまっていれば、1000分の1ぐらいの確率で、ボリス3世亡き後のブルガリアの後継者に指名されたのかもしれないが、そんなものには興味はない。旨い料理を、あの姫君に食べてもらう!そのために日本に行って、リストランテを開く!男子たるもの、崇高なる女神に己を捧げつくすのが、最も名誉ある行為なのだ!」
マリオがペンを持った右手を拳にしてテーブルを叩くと、“ミュート・ピトニィ”の入ったグラスと、そのそばにあった皿がガチャリと音を立てる。それを見たルイージが、
「兄者、せっかくの原稿が汚れるぞ」
と兄に注意した。
「おっと、いかん。“Sekuhara-Yarou”の活躍が、“ミュート・ピトニィ”に溺れてしまう」
「兄者、この“ピエロギ”、食べてしまおう。このまま残しておいて、皿がひっくり返ったら大変だ」
「そうだな。原稿は一時休戦としよう」
兄は弟の提案に頷くと、ペンの代わりにフォークを右手に持った。
“ピエロギ”とは、このポーランド地域の伝統料理の1つだ。小麦粉を主体とした生地を丸く小さく切り、2つに折って中に好みの具を入れたら、ゆでたり、焼いたり、揚げたりして食べる。イタリアの兄弟が崇拝する日本の内大臣・章子内親王がこの料理を見たら、“ギョウザに似てるわね”と言うかもしれない。しかし、自他ともに認めるパスタの国・イタリアの出身であるこの兄弟は、“ピエロギ”を初めて食べた時、“ラビオリ”のようだ、という感想を抱いた。“ラビオリ”は、小麦粉を練って作った2枚の生地の間に具を挟み、四角形に切り分けたパスタのことである。
「ロシアの領土に入って助かったのは、“ピエロギ”に出会えたことだなぁ」
“ピエロギ”を1個食べ終えたマリオがしみじみと言うと、
「確かにな。ただ、“ラビオリ”よりも、生地が少し厚い気もするが……」
ルイージはそう呟く。「まぁ、そう言うな」と弟をたしなめてから、
「しかし、不思議なものだな。清にも“ワンタン”という、小麦粉で作った生地で具を包む料理があると聞いたが、世界には、似たような料理が自然発生するのかな?」
兄はフォークで刺した“ピエロギ”を眺めながら言った。
「意外と、元は1つのものなのかもしれないな」
ルイージはビールを一口飲んで答えた。「我がイタリアの偉大な冒険家、マルコ・ポーロがいるだろう。彼がたどった道を通って、1つの料理が世界の国々に伝播していったのかもしれない。それが、各々の国に根を下ろし、独自の形へと発展していった……」
「なるほど、面白い説だ」
そう評すると、マリオは“ピエロギ”を口の中に放り込んでゆっくりと味わった。
「……うむ、Sekuhara-Yarouに言わせる締めのセリフがどうしても思いつかなかったのだが、今のお前の言葉で光明が見えた気がする。感謝するぞ、弟よ」
「そりゃありがたいな」
ルイージが気のない返事をした瞬間、大通りに面した居酒屋の扉が荒々しく開け放たれた。入り口近くにいた客たちが、アルコールで煙った眼を音のした方に向けた時、
「見つけたぞ!」
入り口に姿を現した男がイタリア語で叫び、店内に向かって持っていた拳銃を突然発射した。居酒屋の店内が、あっと言う間に悲鳴と怒号でいっぱいになった。
「観念しろ!ヴィットーリオ・エマヌエーレ……ええと……あと、ルイージ・アメデーオ・ジュゼッペ……何だっけ……」
拳銃を発射した男は、イタリア語でなおも叫びながら銃撃を続ける。入り口近くの客たちが慌ててテーブルや椅子の陰に身を隠した時、
「おい、なんて騒ぎにしてくれたんだ」
拳銃を持った男の背後から、別の男が話しかけながら近づいた。
「ですけど兄貴、やっと奴らを見つけたんですぜ。えーっと……」
「トリノ伯とアブルッツィ公でいいだろう」
拳銃を持った男にイタリア語で冷静に指摘した男は、
「とにかく、これじゃもう長居はできない。ずらかるぞ」
と命じた。
「な、何言ってるんですかい、兄貴!ちゃんと奴らの面を確認して、眉間に1発ずつお見舞いしねぇと……」
「そんなことをやれる状況だと思っているのか」
食い下がる発砲者に、“兄貴”と呼ばれた男は舌打ちして言う。当初の衝撃から立ち直りつつある店内の人間たちは、盾代わりにしたテーブルの陰から、2人の男を敵意のこもった眼でじっと見つめている。店の奥では「警官を呼べ!」「けが人はいないか?!」という叫びがロシア語とポーランド語で飛び交い、厨房からは、大きなフライパンを片手に持った屈強な料理人たちが、唸り声を上げながら店内に躍り出てきていた。
「いいか、とにかくずらかるぞ!」
“兄貴”が名残惜しそうな発砲者の首根っこを掴んで居酒屋からの逃走を図ったその時、
「クソっ!どうなってんだ、兄者!」
居酒屋の裏口から街に飛び出してイタリアの兄弟も、悪態をつきながら逃走していた。
「あいつら、俺と兄者の名前を呼んでたぞ!噛んでたけど……」
「ああ。ヴィットーリオの奴がよこした刺客かな」
兄が走りながら言った“ヴィットーリオ”とは、兄自身のことではなく、彼らの従兄でイタリア国王であるヴィットーリオ・エマヌエーレ3世のことだ。
「王位を俺たちに取られたくない……とかいう理由で刺客を放ったのか?!」
弟は兄の言葉に吐き捨てるように応じる。「冗談じゃない!俺は王位につくなんてまっぴらごめんだ!」
「私もだ、弟よ。王位などというくだらないものはいらぬ!ただ、あの麗しい姫君に、我々の美味い料理を召し上がっていただくことが私の望み!」
一際大きな声で吠えたマリオは、
「とにかく、この街を出るぞ!我々は、生きて日本にたどり着かなければならないのだからな!」
そう叫びながら、夜の街を全速力で駆ける。「おうよ!」と応えた弟も兄に続き、やがて2人の後ろ姿は、ワルシャワの闇に紛れて見えなくなった。




