微行(おしのび)はやっぱり大騒ぎ?
1925(大正10)年11月30日月曜日午後3時、皇居・旧二の丸にある馬場。
「なぁ、梨花」
晴れた空の下、栃栗毛の馬に横乗りで乗って馬場を一周してきた私に、黒鹿毛の馬に乗った兄が話しかけた。
「……何?」
「微行に行かないか?」
兄が私にニヤリと笑いながらこう言ったので、私は乗っている馬――“春風”――に合図をして、兄の乗る馬の前に立ち塞がるような位置へ馬を歩かせた。
「おい、梨花、どうした」
「……全力で阻止するわよ」
戸惑う兄を、私は馬上から睨みつけた。
「絶対、馬に乗ったまま微行には行かせない。私、松方さんが亡くなった時のこと、忘れてないんだから。あの後で私もひどい目に遭ったけど、警備の人たちや大山さんたちだって、もっとひどい目に遭ったのよ!」
すると、
「落ち着け。誰が今から微行に行きたいと言った」
兄が呆れた顔で私に指摘した。
「もちろん、微行に行くのは、大山大将たちに断りを入れて、警備の都合がついてからだ。本当は、今からでも飛び出してしまいたいのだが、俺にも立場があるのは分かっているからな」
(本当かしら)
兄の言葉が疑わしく聞こえた私だけれど、そろそろ、兄に息抜きが必要な頃だ……というのは感じる。9月にイギリスのジョージ王子が来日して以降は、政務も忙しかったし、ご神事も続いたし、東北での国軍大演習もあった。行事の合間に、こうやって皇居で息抜きはしているけれど、東京の街に微行で出かけてはいない。タイミングを見計らって思い切ったガス抜きをしないと、兄がとんでもない悪戯をするかもしれない。
「……で、どこに行きたいの?」
行き先が東京市内なら、兄を止めないことにしよう。そう考えながら私は兄に聞いた。
「そうだな……」
兄は呟いて考え込むと、
「関東大震災の時、東京市内で視察したところが、今、どこまで復興しているかは確認したい」
と私に答える。
「震災の時に視察した所……浅草や両国橋のあたりね」
「そうだな。それで、皇居に戻る時に、日本橋区を通りたい。あの辺は公務で通過することもあるが、車で通り過ぎるだけだから、通りに建ち並ぶ商店に賑わいが戻っているのか、どうもよく分からない。だから、自分の足で歩いて確かめようと思ってな」
「……いいんじゃないかな」
私は兄に頷いた。
「移動は市電を使うんでしょ?」
「もちろんだ。その方が、民情がよく分かる。……梨花、さっきは止めていたのに、今は妙に乗り気ではないか」
「兄上が無茶なことをしないって分かったからよ」
こう答えると、私は兄に微笑んだ。「私、微行は大好きなのよ。ただ、兄上が無茶をするのが嫌なだけで」
「知っているよ」
兄が穏やかな口調で応じる。「梨花とは子供のころからの仲だからな。それに、数えきれないくらい、一緒に微行にも出たし」
「確かにね」
私は兄に頷くと、
「じゃあ兄上、馬の稽古が終わったら、大山さんたちに微行のこと、相談しようね」
兄にこう念押しして、向こうが首を縦に振るまで、ずっと営業スマイルを向け続けた。
1925(大正10)年12月4日金曜日午後2時、東京市浅草区浅草公園地六区。
「すごいわねぇ……」
髪型をいつものシニヨンから束髪に変え、地紋を織り出した藤色の着物の上に瑠璃色の羽織をまとった私は、石畳の敷かれた広い道を、左右を見ながら歩いていた。この浅草公園地六区……通称“浅草六区”は、12階建ての高層建築物・“凌雲閣”の南にある歓楽街だ。震災前は、演劇場に寄席、活動写真館などが建ち並ぶ東京一の盛り場だったけれど、関東大震災の時に発生した火事で焼け野原になった。しかし、浅草六区の建物は、震災から何か月も経たないうちにバラック建てで復旧し、東京市民の娯楽の場であり続けていた。
「“凌雲閣”は、流石に再建できなかったようだな」
茶色の和服を着流し、紺色の羽織を肩に引っ掛けた兄が、私の隣を歩きながら言う。顎に立派な付け髭をして、黒縁の伊達メガネをかけた兄の顔は、いわゆる“御真影”として世間に知られている顔と印象がかなり異なっている。ただ、ちょっとした仕草に品の良さが出てしまうことがあるので、それをきっかけにして兄の正体が周りにバレてしまわないかは少し不安だ。現に今も、
「こら、梨花、俺の手を離すな。迷子になったらどうする」
そんなことを言いながら、私に向かって礼儀正しく手を差し伸べてしまっている。
「いや、いいよ。兄上のことがバレたらまずいし」
私が首を左右に振ると、
「なぜ、俺と手をつないだら、俺の正体が露見するのだ」
兄は不思議そうに私に尋ねる。
「いや、その、何と言うか……男性が女性と手をつなぐなんて、品が良すぎるというか、その……」
歯切れの悪い言葉で、私は一生懸命兄に抗議したけれど、
「栽仁がいないのだから、俺がお前を守るしかないだろう」
兄はそう言いながら、私の右手を無理やり掴んでしまう。活動写真館や演芸場の宣伝の幟が立ち並ぶ中を、兄と手をつないで歩くのはとても目立つ。周囲に兄のことが露見しないように祈りながら、私は浅草六区を通り抜けた。
浅草寺の雷門の前の市電通りに出ると、私と兄は市電に乗り込んで南へ向かう。目的地は、震災直後に視察した本所区の横網公園だ。市電に乗ったまま両国橋で隅田川を渡ると、私たちは市電を降り、横網公園へと歩き始めた。
「少し、道幅が広がったかな。区画整理の効果だろうが」
「あ、そうなんだ。道幅なんて、全然覚えてない。……だけど、このあたりの家は、全部建て直されたね」
兄と2人で話しながら歩いていると、あっと言う間に横網公園に到着する。震災直後には、被災者を収容するバラック小屋が、公園の敷地の半分ほどに建てられていたのだけれど、東京市内の復興が進むにつれて小屋は撤去され、今の横網公園は開園当初の姿を取り戻していた。
「いいなぁ、この雰囲気は」
兄は公園の中を歩きながら微笑んだ。
「公園の中を老若男女が散歩し、広場で子供たちが遊んでいる。平和そのものではないか」
「そうだね。……関東大震災が起こった直後は、ここまで復興するなんて、想像もつかなかった」
「俺は想像していたぞ」
兄は私に笑顔で言った。
「一度は失われてしまった平和な暮らしが、こうして再び戻って来るのを。“史実”でも、関東大震災の後に、東京は復興したのだし、……それに、俺は天皇だから、いかなる時にも、希望を捨ててはならないのだ」
兄の言葉にとっさに反応できないでいると、
「どうした、梨花?足でも痛めたか?!」
兄が慌てた様子で私の顔を覗き込んだ。
「そうじゃなくてさ……」
反論しようとした私の耳に、
「もし歩けないなら、抱きかかえるぞ。それとも、背負う方がいいか?」
兄のとんでもない台詞が入ってきた。
「……どうした、急に強張った顔をして」
「返してよ……」
「ん?」
「私の感動を返してよ……」
首を傾げる兄に、私はため息をついて言った。兄が胸を打つ言葉をさらっと口にしたので、思わず頭を下げようとしたのを、“ここでこんなことをしたら、兄の正体が露見してしまうかもしれない”と必死に我慢したのだ。それなのに、兄は、私を抱えるだの背負うだのと、訳が分からないことを言い始めた。これでは、せっかくの感動が台無しだ。
「まぁ、そう言うな」
私の頭を撫でようとしていた兄が、身体の動きを止めた。視線は広場の一角に固定されて動かない。「どうしたのよ」と私が聞くと、
「あの坊や……」
兄は顔を動かさずに言った。
「坊や?」
「ほら、あの木の下で走っている子だ。俺たちがここに視察に来た時、俺が声を掛けた子ではないかな」
兄の視線の先を追うと、茶色の絣の着物をまとった7、8歳くらいの男の子が、元気に走っているのが見える。どうやら、友達と鬼ごっこをして遊んでいるようだ。けれど、あの時兄が声を掛けた男の子と、今、元気に走り回っている男の子が同一人物なのか、私には分からなかった。
「あの時の子と同じ子なのか、私には分からないや」
私が兄に応じると、
「そうか?あの鼻の形には少し特徴があるから、梨花なら覚えているかと思ったが」
兄は男の子から目を離さずに言う。
「自分と同じ記憶力を他人に求めないでよ。兄上の記憶力は良すぎるんだから」
そう返しておいてから、
「でも兄上、あの子が本当に視察の時に会った子だとしたら、余り見ていると兄上の正体がバレるわよ」
私は兄に注意を促した。
「……それもそうだ。ここで騒ぎになってもいけないな」
兄は残念そうに呟いてから、私に顔を向け、
「だが、元気そうでよかった」
と、穏やかな声で言った。
「そうね」
私が首を縦に振ると、兄は私の左手を取り、「そろそろ、次のところに行こうか」と声を掛け、広場を背にして歩き出す。私が後ろを振り返ると、兄の言っていた茶色の着物の男の子が立ち止まり、こちらをぼんやり見ているのが見えた。私は彼に微笑むと前を向き、兄とともに横網公園を後にした。
1925(大正10)年12月4日金曜日、午後3時45分。
横網公園を出た私と兄は、市電で再び両国橋を渡り、日本橋区にやってきた。ここは京橋区とともに、様々な商店や金融機関が集まる日本経済の中心地だ。“史実”では、震災後に発生した火災で、日本橋区の全ての建物は焼失したけれど、この時の流れでは、日本橋区は焼けることなく残っている。このため、震災による経済の混乱は最小限で済んだ。
「賑わっているなぁ」
通りを歩きながら、兄が嬉しそうな声を上げる。「活気があって実にいい。あの百貨店にも、人がどんどん入っていく」
「日本橋区と京橋区が震災のダメージをほとんど受けずに済んで、本当に良かったわ。ここらへんが無事だったから、復興が順調に進んでいるしね」
私が兄にこう応じると、
「ところで梨花、今日は何か買いたいものはあるか?」
兄が突然こんなことを尋ねた。
「内大臣室で使ってる毛布がボロボロになってきたから、買い換えたいの。兄上は?」
「俺は、本を何冊か買いたくてな」
兄妹で答え合うと、私たちはニッコリ笑い合う。微行での買い物は、今も昔も、私と兄にとっては楽しみの1つだ。
「ここからだと、本屋より、毛布を売っている店の方が近いな。まず、毛布から見ようか」
兄の言葉に私は素直に頷く。兄と手をつなぐと、私は通りの両側に建ち並ぶ商店の様子を見ながら歩いた。
江戸時代、“五街道”の起点となった日本橋を南へ渡ると、布団や毛布、蚊帳などの繊維製品を扱う店が並ぶ一角がある。私はその中の1軒の商店に入った。
「奥様、今日は何をお求めですか?」
店の奥へと進んで行くと、灰色の背広服を着た男性が現れた。このお店の店員さんだろう。
「ええ、毛布をいただきたいと思って……」
私の答えに、「それならばこちらですよ」と応じ、店員さんは私を店の一角へ連れて行く。そこには毛布が10種類ほど取り揃えてあった。
「モノが良さそうですけれど、随分お値段が安いですね……」
値札を見ながら私が言うと、
「それはですね、当社が商品の製造工場を有しているからですよ」
私を毛布の売り場に案内した感じの良い店員さんは笑顔で答えた。
「つまり、問屋の手を一切借りずに商品を仕入れているのです。ですから、こうしてお客様方に良い商品を廉価でご提供できるわけでして……」
「なるほどねぇ……」
要するに、流通コストを削減して値段を抑えた、ということだろうか。そう考えながら、私は陳列してある桃色の毛布を手に取り、「これをいただきます」と店員さんに告げた。
すると、
「ありがとうございます。奥様、こちらの商品はこのままお持ち帰りになりますか?それとも、配達致しますか?」
店員さんはこんなことを私に聞く。
「は、配達?」
「ええ。東京市内でしたら、無料で配達致しますが」
動揺する私に、店員さんは更に告げる。
(は、配達って、そんな……)
この毛布を届けてもらうとしたら、皇居か、盛岡町の自宅しかないけれど、配達先をそんなところにしたら、私が内大臣だとこのお店にバレてしまう。今は微行中なのだ。
「あ……だ、大丈夫です。すぐ使いたいので、このまま持って帰ります」
とっさに営業スマイルを顔に浮かべ、私が店員さんに答えた時、
「どうだ、梨花、何を買うか決まったか?」
私のそばまでやって来た兄が、後ろから覗き込むようにして私の手元を見る。
すると、
「え……?」
兄の方を見た店員さんが首を傾げ、
「そんな……せやけど、この声……」
見る見るうちに顔を青ざめさせた。
「お顔は、ちょっと違いますけど……やっぱり、この声……ま、まさか、天の……」
言ってはいけない言葉を声に出そうとした店員さんの口を、私は慌てて右手で塞いだ。
「言わないで!お願いですから!」
店員さんが、私に口を押さえられながら、“あなた様は内府殿下!”と言っている気がする。私はそれを無視して、彼の口を塞ぎ続けた。
「ああ……露見してしまったか」
微かに顔をしかめた兄は、
「頼む、わたしと章子がここにいることは、内密にしてくれないか。騒ぎにはしたくないのだ」
両手を合わせ、小声で店員さんに頼み込む。
「章子、手を離してやれ」
兄が命じるので私が店員さんの口から手を離すと、彼は胸を押さえながら息を整える。そして、その場で土下座しようとしたので、私は店員さんにしがみついて行動を阻止した。
「お前……関東大震災の直後に、皇居の臨時診療所で手当てを受けていたな」
兄が店員さんに小さな声で尋ねると、彼は「へ、へぇ」と強張った表情で答えた。
「確か、右腕に怪我をしていたと思ったが……どうだ、傷は癒えたのか?」
「お、おかげさんで……やない、おかげ様で、すっかり良くなりまして……」
若干、関西訛りで答えた店員さんに、
「そうか、それは良かった」
兄は笑顔で答えて頷いた。
「震災の時は、傷を負ってしまった者を幾人も励ましたが、その後、傷が無事に癒えたという者に出会ったことがなかったのだ。だから、こうしてお前が元気に働いているのを見られて、わたしはとても嬉しい」
「そ、そんな……何とお礼を申し上げたらよいやら……」
兄の言葉に店員さんが涙ぐんだその時、
「小野君、どないしたんや?」
店の奥の方から男性の声がする。店員さんは弾かれたように後ろを振り向き、
「なんでもないです、店長さん!」
と叫んだ。どうやら、私たちのことを、他に露見しないようにしてくれているようだけれど……。
「兄上、長居はできないわ。お勘定を済ませてここを出ましょう。ええと、お勘定場は……」
兄に注意を促し、お勘定場を探そうとすると、
「わ、私、やって参りますんで!」
店員さんは私の持っていた毛布をひったくるようにして取る。彼に定価のお金を渡して会計を済ませると、私と兄はやけに丁寧に梱包された毛布を持ってお店を後にした。
「……あの店員さんに、ものすごく迷惑をかけた気がするわ」
「うん。……“俺は天皇ではない”と、白を切った方がよかったかもしれん」
「でも、向こうは兄上の声を覚えてたから、誤魔化すのは無理だったんじゃないかなぁ」
「ああ。まさか、横網公園の坊やもそうだったが、震災の時に声を掛けた相手にこうして巡り合うとはなぁ……」
店を出た私たちは、お互い疲れた表情でこんなことを言い合っていたけれど、
「……梨花、今日はもう帰るか?」
「そうだね……」
やがて、2人一緒にため息をつき、とぼとぼと歩いて皇居に戻った。




