陸奥さんとの昼食会
1925(大正10)年10月6日火曜日午後0時35分、皇居・表御殿にある竹の間。
「ふう……ようやく満足できましたよ」
火曜日は、午前中に梨花会の古参の面々による机上演習が行われる日だ。その定例机上演習が終わった後の昼食会で、先月のチャーチル大蔵大臣との会談の経過を私に話させてニヤリと笑ったのは、元内閣総理大臣で枢密顧問官の陸奥宗光さんだ。私と兄にとっては、非常に厄介な相手の1人でもある。
「内府殿下がチャーチルと渡り合ったと聞いて、早くお話を聞きたくてたまらなかったのです。天長節の宴会の時にお話を伺えるだろうと思っていたのですが、宴会は中止になりましたからねぇ」
「当たり前だ。あのような時に宴会ができるか」
兄が陸奥さんに不機嫌そうに言い返す。先月の30日から天長節祝日である今月1日の朝にかけて、首都圏では豪雨となった。このため、小石川区で約6000軒の床上・床下浸水が発生した。それを聞いた兄は、1日に開催される予定だった天長節の観兵式と宴会を急遽取りやめさせた。
「陛下のおっしゃること、まことにごもっともでございます」
陸奥さんは兄に頭を下げると、
「それゆえ、今日まで待ったのですよ。内府殿下が、チャーチルと渡り合った武勇伝を聞かせていただくのを」
と言って、私を見てまたニヤリと笑う。
「武勇伝なんですかねぇ」
私はナイフとフォークを持ったままため息をついた。「こっちは3人で、向こうは1人だったんですよ」
「その状況で、ある程度戦えたのですから上出来ですよ。僕なら1人だけでチャーチルを楽に言い負かせますが、並みの人間なら、5人でかかっても返り討ちにされますからね」
一応、褒められたと考えていいのだろうか。軽く首を傾げた時、あの大変だった会談のことを思い出してしまい、私はナイフとフォークをメインディッシュのお皿の上に置いた。
「ん?梨花、どうした?」
「……思い出しちゃったのよ。あの会談で滅茶苦茶疲れたのを」
尋ねてきた兄に、2、3度頭を左右に振って答えると、
「ああ、そうだった。本当に疲れていたな……」
そう応じた兄がため息をつく。
「ほう。何か、特筆すべきことがあったようですね」
唇の片端を上げた陸奥さんに「ああ」と兄は頷いた。
「会談の翌日、ドイツ大使を皇居に呼んで、梨花と面会させた。その後で梨花が、“来週の月曜は有給を取る”と騒ぎだしてな……」
「だって、もう限界だったんだもん」
私は口を尖らせて兄に反論した。
「チャーチルさんとの会談での疲労も癒えていないところに、ドイツ大使と面会してさ。おまけに、皇帝が私の言うことを聞く効果を高めよう、ってことで、和歌を色紙に書いて、それをドイツ大使に“皇帝陛下への贈り物です”って言って渡して……。そんなことをさせられて、限界に達しない人間がおかしいのよ!」
私が言葉を兄に叩きつけると、
「これはやられていますねぇ」
陸奥さんがクスっと笑った。「当然、陛下は有給休暇を承認なさったのでしょう?」
「ああ。ああなった梨花は、休ませないととんでもないことをしでかすからな」
「なるほど。……それで、もぎ取ったお休みを使って、内府殿下はどこかに出かけられたのですか?葉山の御別邸とか……」
「神代村です」
ちらりと私に視線を向けた陸奥さんに、私は短く答えた。
「神代……村?それはどこですか?」
「東京府の神代村です。深大寺という大きなお寺があって……」
「ああ、深大寺なら聞いたことがありますね。そちらにご参拝なさったのですか?」
「深大寺にお参りもしましたけれど……目的地は、深大寺のすぐそばにある深大寺城の址です」
私はイライラしながら陸奥さんに答えた。
「ただ、やっぱり季節が悪くて……下草が生い茂っていて、土塁や堀の跡がよく分からなかったんです。本来は、草が刈れている時に行くべきなのは、私も重々承知していたんですけれど、最近、東京近郊は開発が進んでいるから、早く行かないと城址が無くなってしまうと思うと気が急いてしまって……」
すると、陸奥さんが手を震えさせながらナイフとフォークをお皿の上に置いた。そして、身体を海老のように折り曲げ、テーブルに顔面をぶつけてしまいそうな勢いで笑い始める。
「こちらの身にもなってくれ、陸奥顧問官……」
一方、兄は両腕で頭を抱えてうつむいた。「あの後、“不完全燃焼だから”という理由で、何日も江戸城の遺構の見物に付き合わされたのだぞ……」
「それは……失礼いたしました」
兄の言葉を聞いた陸奥さんは、何とか笑い声を収めると兄に一礼した。
「梨花さまの城郭好きは、いつまで経っても変わりませんなぁ」
昼食会に同席していた大山さんが、クスクス笑いながら私に言った。
「……さて、話がだいぶ脱線しましたが、中央情報院とMI6の初めての共同作業の進捗はいかがですか?」
(私の時代の、結婚式のウェディングケーキ入刀の時みたいなフレーズを使わないでほしいなぁ……)
陸奥さんのセリフにげんなりした私だけど、きちんと答えないと厳しい質問が飛んでくるのは目に見えているので、
「イギリスは、ブルガリアの野党に、与党との争いをやめ、ボリス3世が率いる軍に協力して、農民暴動を鎮圧するように指示しました」
きちんとリクエストに応じ、現在のブルガリアの状況について話し始めた。
「そして、私がドイツ大使経由で皇帝にメッセージを出してから、ブルガリアの与党は野党との争いをやめました。今は与野党ともにボリス3世に協力して、農民暴動の鎮圧にあたっているそうです」
「ほう、ブルガリアの内乱は、鎮圧に向かって順調に進んでいる、と……。それで、ブルガリア情勢をかき乱した者は特定できたのですか?」
「実際にかき乱したのは、ボリス3世の弟のプレスラフ公なのは確定なのですけれど、彼に王位簒奪をそそのかした国や勢力はまだ特定できていません」
私が陸奥さんの質問に答えると、
「一番怪しいのは……ギリシャのヴェニゼロス前首相の近辺なのだろう?」
兄が私に確認する。「まあね」と私は頷くと、
「動機はあるのよね。ギリシャは去年、オスマン帝国に攻め込んで領土を奪おうとしたけれど、オスマン帝国軍に撃退されて失敗した。その時、ギリシャは、ブルガリアを含めた数か国に、一緒に出兵してオスマン帝国の領土を奪おうと打診したけれど、ことごとく出兵を断られた。他国の援軍が得られなかったのがギリシャの敗北の原因……ギリシャ軍がそう分析したとしたら、一番政情が不安定な近隣の国であるブルガリアを自分の駒にして、次のオスマン帝国への侵攻の時に協力させようと考えてもおかしくはない」
兄の目を見ながら言った。
「ギリシャのヴェニゼロス前首相は、オスマン帝国への侵攻に失敗した責任を取る形で首相を辞任したが、その後、“王室顧問”とやらに就任し、国王への影響力を保ち続けている。政府中枢部や軍隊にも、ヴェニゼロスを信奉する者が多いと聞く。そいつらが、ブルガリアに工作を仕掛けている可能性はあるが……」
「残念だけど、まだ証拠がないわ。他の国がブルガリアに手を出している可能性もあるのよ。不届き者をとっちめるなら、確たる証拠を得てからじゃないと、言い逃れされちゃうわ」
「なるほど、梨花さまは慎重ですな」
兄と私の会話を聞いていた大山さんが微笑むと、
「その確たる証拠とやらが得られれば、どうなさるのですか、内府殿下?」
陸奥さんが意地の悪い笑みを私に向けた。
「国際連合に持ち込める証拠なら、そちらで経済制裁を加えてもらうのがベストですね」
「では、国際連盟に持ち込めない類の証拠しか出て来なければ?」
「……首謀者に、何とかして権力を手放させます」
私は脳細胞をフル回転させながら陸奥さんの問いに答えた。
「できれば、平和的な手段で、首謀者の政治生命を葬り去りたいですけれど……」
「おや、本物の命を取る方が、ずっと簡単だと思いますが」
私の横から大山さんが、笑顔で恐ろしいことを言う。
「大山さん、それじゃ乱暴すぎるわ。ターゲットが民衆や議員の支持を集めている人だったら、ターゲットの死をきっかけに支持者たちが更に結束を強めて厄介になる可能性があるわ。だから、こう……ターゲットを辱めて、支持者たちの信望を失わせるようなやり方で、政治生命を奪って無力化したいけれど……」
すると、
「あはははは……!」
陸奥さんが大きな声で笑いだした。大山さんもお腹を抱えて笑っている。
「り、梨花……お前はその、随分と悪辣なことを考え付くのだな……」
私から少し身体を遠ざけて感想を述べる兄に、
「ま、そうかもしれないけれど……大山さんたちがいつもやっているようなことに比べたらマシだと思うよ?」
と私は言い返す。
「……その通りですね」
陸奥さんが笑いながら言った。「内府殿下のおっしゃることが最適解に近いと僕も思いますよ。少し手ぬるい気も致しますがね」
「そうですか……」
私は首を縦に振ったけれど、心は警戒一色に染まっていた。陸奥さんのことだ。“色々とご意見を伺いたいですねぇ”などと言いながら、私を質問責めにするに決まっている。
「そう警戒なさらなくてもよろしいですのに」
陸奥さんは私をチラリと見ると、
「この後で、お茶もご相伴させていただくのです。ご心配なさらずとも、ブルガリアのことはその席でたっぷりお伺いいたしますよ」
悪魔のような微笑みとともに私に告げた。
(ですよねー……)
営業スマイルを顔に貼り付かせたまま動けなくなった私の肩を、
「まぁ、頑張れ……」
兄が慰めるかのようにそっと叩いた。
1925(大正10)年10月6日火曜日午後1時10分、皇居・表御座所にある内大臣室。
「さて、これで待ち望んだ瞬間がやってきた訳ですよ」
内大臣室の椅子に腰を下ろした陸奥さんは、内大臣秘書官の東條英機さんが持ってきたティーカップを手に取るとニヤニヤ笑って言った。
「はぁ……」
先ほどの昼食会と同じように、ブルガリアのことを根掘り葉掘り聞かれるのだろう。そう考えながら機械的に首を縦に振った私に、
「原君と陛下がどうやって和解したのか、それを内府殿下からたっぷりお話ししていただく機会が……!」
陸奥さんは私が思ってもいなかった言葉を投げた。
「へ……?」
間抜けな返事をしてしまった私に、
「もちろん、ブルガリアのことも後でお伺い致しますよ」
陸奥さんはとても楽しそうに言う。
「ですがね、原君の件も、僕にとっては面白くてたまらないのですよ。……原君が内閣総理大臣となり、陛下と原君の間に齟齬が生じるのではないかと、僕は非常に心配していました。ところが、蓋を開けてみれば、陛下と原君は息をピッタリ合わせ、非常に円滑に政務を進めています。“どんな手を使ったのだ”と、原君をあの手この手で問い詰めてみましたが、“臣下が口にすべきことではありません”の一点張りで、口を割ろうとしません。ならば、陛下のおそば近くに仕えていらっしゃる内府殿下にお尋ね申し上げれば、陛下と原君のことについて、何かお話していただけるだろうと思いましてね」
「残念ながら、私、陸奥さんが望む答えは持ち合わせていません。思い当たることが全くありませんので」
……恐らく、原さんが内閣総理大臣に就任した直後の、御苑での出来事からだろう。兄と原さんが心を一にしているのはとても喜ばしいことだけれど、当事者の1人である原さん本人がそう言うのであれば、私からも口にすべきではない。そう思いながら陸奥さんに答えたのだけれど、
「嘘ですね」
陸奥さんは満面の笑みで私の言葉を切って捨てた。
「長年僕が鍛えてきたからか、本心を隠すのがお上手になった。しかし、師匠たるこの僕には通用しませんよ」
「陸奥さんはおかしいですね」
私は顔に苦笑いを浮かべてみせた。「そうやって私を脅したら、隠していることが出てくるだろうと思っていらっしゃるんですから。でも、私は何も隠していませんから、その脅しは無駄ですよ」
「……おっしゃるようになりましたね」
陸奥さんの両目がスッと細くなる。瞳の奥には鬼火がちらついていた。
「いいでしょう。内府殿下の嘘を、徹底的に暴いて差し上げます。そして、陛下と原君との間に何があったのか、全てお話ししていただきましょう。時間はたっぷりあるのです」
(何で、本気で私にかかってくるかなぁ……)
こうなってしまった陸奥さんは、誰にも言い負かすことができない。原さんでも、伊藤さんでも、そしてチャーチルさんでも。私は、自分が獰猛な獣の前で震えている小動物になってしまったような気がした。
「……私が、兄上と原さんを和解させました」
心の中で原さんに謝罪しながら、私は陸奥さんに言った。
「ほう?」
「以上です」
「以上?」
陸奥さんが首を傾げながら顎を撫でた。「他には何かなかったのですか?」
「いえ、それが起こったことの全てですけれど」
「それは違いますね」
陸奥さんは声を出さずに笑った。「内府殿下がおっしゃったのは、要約というものです。僕が知りたいのは、陛下と原君が和解するに至った経緯の全てですよ。いつ、どのように、陛下と原君が和解したのか。そして、内府殿下がそこにどのように関わられたのか……僕はその全てを知りたいのです」
(面倒くさいなぁ……)
私がうんざりした瞬間、
「要約しかおっしゃっていただけないのなら、内府殿下をお連れ申し上げて御学問所に参上して、陛下に経緯をお伺いいたします」
陸奥さんはニヤニヤ笑いながら言った。
「それとも、原君のところにしましょうか。閣議をしているかもしれませんが、そんなことより、こちらの方が重要ですからね」
「何という迷惑なことを……」
私は両肩を落とした。こうやって、色々と私を揺さぶって、原さんと兄の和解のことを私から聞き出すのが目的なのは見え透いている。けれど、私に対抗する手段は残されていない。
「どうして、新聞記者みたいなことがしたいんですか……」
「面白いからですよ」
ため息混じりの私の質問に、陸奥さんは即座に答えた。
「では、話しやすいように、僕が内府殿下に色々と質問をして差し上げましょう。まず、陛下と原君が和解したのはいつのことですか?」
……こうして私は、陸奥さんに1時間余り質問責めにされ、兄と原さんが和解した日の出来事を、洗いざらい吐かされてしまった。




