盛岡町会談
1925(大正10)年9月18日金曜日午後2時50分、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。
「それは本当だな、金次郎」
珍しく威厳のある表情になった兄に、
「はい、本当のことでございます!」
内大臣秘書官の1人、中央情報院の出身である松方金次郎くんは、強張った顔で奉答した。
「“中央情報院の責任者と話がしたい。私はそのために日本に来た”……先ほどチャーチル大蔵大臣がそう発言したと、米内大佐から急報が入りました!」
(厄介なことになったわね……)
金次郎くんの報告を聞きながら、私は顔をしかめた。
今日、ジョージ王子が所属するイギリス中国艦隊は横須賀軍港に入り、横須賀鎮守府では歓迎の午餐会が行われた。その午餐会に来日中のチャーチル大蔵大臣が出席したのだけれど、その際、彼は接待役の米内光政海兵大佐に、中央情報院の責任者……つまり、明石元二郎さんに会いたいと要求してきたのだ。
「……分かった」
頷いた兄は私に視線を向け、
「章子はどう思う?」
と私に尋ねる。
「受けるしかないんじゃないかしら」
私は首を左右に振ると、両肩を落として兄に答えた。
「イギリスの大蔵大臣サマが、日本くんだりまでやって来てやったのに、要望を断られた……なんて話になったら、イギリスがあること無いこと言いたてて、日本に嫌がらせをしてくるのが目に見えてるわ」
「俺も、内府殿下に賛成です」
いつの間にか御学問所に入って来ていた大山さんが言うと、
「では、面会を許すしかないな」
兄は渋い顔で頷いた。
「……ということは、チャーチルは横須賀から東京に戻ったら、輝仁の屋敷に行くということだな?」
兄は更に、金次郎くんに確認する。私と兄の弟・輝仁さまが住む鞍馬宮邸の別館には、中央情報院の本部がある。
「いえ、それが……」
すると、こう答えた金次郎くんは、私をチラッと見て、
「恐れながら、明石総裁との会合は、内府殿下のご自宅で行いたいと……チャーチル大蔵大臣は言っているそうです」
と答えた。
「はぁ?!盛岡町で?!」
私は思わず叫んでしまった。「冗談じゃないわ!なんで盛岡町にチャーチルさんが来るのよ!」
「なるほど……鞍馬宮殿下のお屋敷ですと、詠子内親王殿下に悪戯されるのが怖い、ということですか」
叫ぶ私の横で、大山さんがニヤニヤ笑っている。
「詠子さまを大山さんが何とかすればいいでしょ!大山さんのひ孫なんだから!」
「恐れながら、内府殿下の姪でもあらせられます。しがない爺の言うことよりも、内府殿下のおっしゃることの方が、内親王殿下には効くのではないでしょうか」
私と大山さんが言い合っていると、
「仕方ないだろう、章子」
兄が少し顔をしかめた。
「盛岡町には院の分室もあるし、それに何よりお前がいる。政治に全く関与していない輝仁よりも、お前に会える可能性がある方がいいとチャーチルは判断したのだろうよ」
「……分かったわよ」
兄の言葉を聞いた私はため息をついた。
「それで、チャーチルさんはいつ盛岡町に来るのかしら?確か、明日の夕方には日本を発つ予定だったと思うけれど」
「はい、今夜、8時に盛岡町のお屋敷にお邪魔する……チャーチル大蔵大臣はそう指定してきました」
金次郎くんは私の問いに答えると一礼した。
「夜の8時か……今日は金子さんがお休みだけど、今いる職員さんたちで何とか接待するしかないわね」
「ご安心を。俺がお手伝いに参ります」
再びため息をついた私に、大山さんが優しい声で申し出る。「それにもちろん、明石君もおりますから……あらゆる意味で万全の態勢を整えます」
「そうか。大山大将もいてくれるなら心強い」
そう言った兄の眉間からは、皺が取れていた。
「では頼むぞ、章子、大山大将」
「分かった。全力で事に当たるわ、兄上」
最敬礼して頭を上げると、兄と目が合う。兄の目をしっかり見つめ返すと、私は兄に頷いてみせた。
1925(大正10)年9月18日金曜日午後8時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
『急なお願いでしたのに、このような場を用意してくださって感謝申し上げますよ、内府殿下』
盛岡町邸本館の応接間。椅子に座ったイギリスの大蔵大臣、ウィンストン・チャーチルさんは、そう言うと葉巻を燻らせた。
『遠いところをわざわざいらしていただいたのですから、当然のことですわ』
紺色の和服を着た私は、営業スマイルを作って英語で答えた。
『閣下にこんなに頻繁にお目にかかっていると、本国で閣下が“日本担当大臣”とか、“極東の魔女に毒された”とか言われていないか心配になりますわ』
『これはこれは、お気遣いをいただいて恐縮ですな』
チャーチルさんは顔に笑みを浮かべる。『美しいバラには棘があります。それに、ここに生えている美しい青いバラは、恐ろしい管理人たちに守られておりますから、近づかぬのが賢明というものです。もし私が日本びいきになったという奴が本国にいるとすれば、そいつには“愚か者”という烙印が押されることになるでしょうな』
『それもそうですわね』
流石はチャーチルさんだ。私が少し皮肉を言った程度では全く動じない。私はチャーチルさんに素直に応じると、
『それで、閣下はなぜ、その怖い管理人たちに会おうとお考えになったのですか?』
と彼に尋ねた。
『……時に、内府殿下は、ブルガリアの情勢についてどうお考えですか?』
すると、チャーチルさんからは意外な質問が投げられた。
『……放っておけば、危険なことになるでしょう』
私はチャーチルさんに慎重に答えた。
『特に、農民たちが国王退位を唱えて暴れまわっているのに危機感を覚えます。同様の動きが世界各国に波及して、現体制を否定するような市民運動が起こるかもしれません。もし、ブルガリアで農民たちが国王を退位させてしまえば、同様の動きが世界各国で発生する可能性も出てきます』
『我々としても、同じように考えています』
チャーチルさんはこう言うと、顔をしかめた。『ブルガリアでの動きは、放置すれば世界中の国家体制を揺るがしかねない。しかし、我が国の力だけでは、残念ながら止めることはできません』
(つまり……ブルガリアの農民たちを扇動しているのはイギリスではないということ?)
私がチャーチルさんの言葉を解釈していると、
『ブルガリアはドイツの影響を強く受けていますからな。もっとも、貴国もブルガリアに影響力がない訳ではないと思いますが』
大山さんが英語でチャーチルさんに言う。
『しかし、貴国の協力があれば、ブルガリアの内乱を止めることができるはずですよ、大山どの。内府殿下がいらっしゃるのですから』
(私に皇帝へのメッセージを出させてドイツを動かして、ブルガリアの内乱を止めさせよう、ということか……。賛成はするけど、余り面白くはないわね)
チャーチルさんの返答を聞いた私がこう思っていると、
『もちろん、タダで、とは言いません。我が国と貴国とは同盟国です。ならば、軍隊だけではなく、諜報機関も協力すべきだ。どうでしょう、貴国の中央情報院と我が国の秘密情報部とが協力し合うのは』
チャーチルさんは私、次いで明石さんを見てこう申し出た。
秘密情報部(Secret Intelligence Service)というのは、イギリスの諜報機関の正式名称だ。日本では私が言い出した“MI6”が、彼らを指す呼称として使われているけれど……。
(やっぱりそう来たか……)
その可能性は、この会談の申し出があった後、兄と大山さんとも検討していた。チャーチルさんが明石さんを指名して会いたい、と言うのなら、MI6だけでは情報が手に入らない地域に関しての情報が得たい、と考えるのが自然だろう。それが私と兄と大山さんとで一致した結論だった。だから、院とMI6との協力体制を築きたいとチャーチルさんが申し出てくる可能性が高いと推測したのだ。さて、イギリスの申し出に対して、日本はどう対応するか……。
『なるほど。そうであれば、そちらのテイラー長官がここにいらっしゃっても良いはずですが……失礼ながら、閣下は彼に使い走りにされている、という理解でよろしいのでしょうか?』
『非常に不本意ながら、そうなる』
今まで黙っていた明石さんが英語で尋ねると、チャーチルさんの顔が歪んだ。『もちろん、日本には友人も多いから、日本に行くこと自体は大歓迎だが、大臣たるこの私が、海兵上がりの人間の使い走りにされるとはな。テイラーの依頼状もここにある』
その言葉とともにチャーチルさんの上着の内ポケットから出された封筒を、明石さんは手に取った。
「その手紙、本物ですか?」
私が日本語で囁くように聞くと、
「本物です」
明石さんは日本語で答えた。「今さっき、チャーチル閣下がおっしゃったようなことが書かれています。そして、差し当たっては、ブルガリアの件について協力をいただきたい、と……」
「しかし、この手紙は7月の日付のものですな。そこから今日までに、MI6の方で全容を掴んでいてもよさそうなものですが……いかが致しますか、内府殿下」
「申し出を受けるしかないでしょうね……」
私に硬い目を向けた大山さんに、私は大きなため息をついて答えた。許可自体は、数時間前に兄からもらっている。私たちも頑張っているつもりだけど、イギリスと日本との国力差はなかなか埋まらない。もしここでイギリスの申し出を断れば、イギリスが日英同盟を更新せず解消することは十分にあり得る。結局のところ、日本はイギリスの下について、賢く立ち回っていくより他に道はないのだ。
『お話は受けてよろしいですけれど』
英語で切り出した私は、
『この手紙が書かれた日付は7月、今は9月も半ばを過ぎました。貴国の優秀な秘密情報部なら、ブルガリアの内乱の全容もつかめているのでは?』
とチャーチルさんに尋ねた。
『我が国を買っていただけるのはありがたいですが、実はこの手紙が書かれた時から事態は進展していないのです』
チャーチルさんはそう答えると大げさに両肩をすくめた。『秘密情報部はブルガリアの国会議員や政府関係者に多少の伝手がありますが、貴国の中央情報院のように、ブルガリア全土に対する情報網がある訳ではないのです』
(……まぁ、私たちが欲しいところの情報は持っている訳ね)
チャーチルさんの言う通り、日本はブルガリア全土に情報網を張り巡らせた。しかし、政府中枢部には協力者が少なく、政府の細かな動きはこちらに伝わらないのが現状だ。すると、
『目立った情報としては、王弟のプレスラフ公の所に、不審な者が出入りしている……というものがありますが』
チャーチルさんは私たちに言った。プレスラフ公は、現国王・ボリス3世のただ1人の弟だ。ボリス3世はまだ結婚していないので、ブルガリアの王位継承順位第1位は彼になる。
『ほう。その不審者とは、貴国の者ではないのですか?』
『そうであれば話が早いが』
大山さんの質問に、チャーチルさんが不機嫌そうに答える。『残念ながら違う。そもそも我が大英帝国は、今回の内乱を望んでいない。それはドイツも、貴国も、であると思うが』
『つまり、貴国の人間でも我が国の人間でも、ドイツの人間でもない不審な者が、プレスラフ公の所に出入りしているということですか?』
明石さんが問うと、『そういうことになる』と言ってチャーチルさんは頷き、明石さんに目を向ける。こちらの情報は出したから、今度はそちらが情報を出せと言いたいのだろう。私が首を縦に振ると、
『それは大変助かります。政府中枢の様子に、不明な点が多いので……。ですが、ブルガリアの農民たちが首都・ソフィアの方からやってきた集団に扇動されて動いているということは分かりました』
明石さんはチャーチルさんに英語で答えた。
『ふむ。つまり、プレスラフ公が、兄からの王位簒奪を狙い、内乱に乗じて農民を扇動していると?』
『それだけでは、理由として少し弱いでしょう』
私はチャーチルさんに指摘した。『農民の力だけで現国王を追い落とすというのは、余りにも危なっかしい計画です。与党・野党についた軍の一部や、今もボリス3世の指揮下にある軍を、農民たちだけで全て掌握できるとは思えません。農民を扇動しているのがプレスラフ公だとしても、彼に味方する別の勢力が現れる確証がなければ、こんな危ない橋を渡ることはないと思います』
『つまり、我が大英帝国でもドイツでも、もちろん貴国でもない第三国が、プレスラフ公に協力を約束していると……』
『その可能性はあるでしょう。プレスラフ公がブルガリア国王に即位した暁には、ブルガリアはその第三国が関与する戦争に協力する……そんな約束でもしているのではないでしょうか』
思いついたことをチャーチルさんにぶつけてみると、
『ふむ……そうであれば話がスッキリする。内府殿下、貴女は本当に賢い方だ』
彼は冗談とも本気ともつかない口調でこう言った。
『問題は、その“第三国”がどこか、ということですな』
私がチャーチルさんに言い返す前に、大山さんが英語で問題を提起する。
『その通りだ』
チャーチルさんは渋い顔をして、唸るように言う。そこからしばし、ブルガリアの内乱をどうやって止めるか、そして、ブルガリア情勢を引っ掻き回す連中をどうやって見つけるかについて、私たちは意見を交換した。
1925(大正10)年9月18日金曜日午後10時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
『今日は、非常に有意義な会合でしたよ』
話し合いを終えて玄関に立ったチャーチルさんは、見送りに出た私と大山さんと明石さんに言った。
『内府殿下の和装もたっぷりと拝めました。和装の内府殿下と、長時間話すことができたイギリス人は、私ぐらいなものでしょう』
なぜかニヤニヤしているチャーチルさんに、『そうかもしれませんわね』と私はそっけなく答えると、
『それより閣下、ブルガリアの野党を、与党とともに農民反乱の鎮圧に協力させること……約束していただけるのでしょうね?』
と彼に尋ねた。
『無論です。……内府殿下の方こそ、皇帝にメッセージを出して、ドイツが支配下に置いているブルガリアの与党に、野党と協力して農民反乱を鎮圧させるよう、ご尽力いただけるのでしょうな?』
私の言葉を受けたチャーチルさんは、私をじろりと見ながら言った。
『ええ、できることはやりますわ』
私は営業スマイルをチャーチルさんに向けた。
先ほどからの会談で、日本とイギリスは、諜報機関が協力し合うこと、そして、まずは両国の諜報機関が協力してブルガリアの内乱を鎮圧させていくことで合意した。
現在、ブルガリアでは、農民たち、与党、野党、そして国王率いる軍との間で、激しい争いが起きている。それを収めるため、まずは与党と野党に争いをやめさせることにした。これは、与党を実質的に支配しているドイツに、私がメッセージを送ること、そして、野党を影響下に置いているイギリスが、野党をコントロールすることによって実施する。与野党の争いをやめさせ、双方を国王軍に協力させ、農民たちを抑え込む……これが、私たちが描いたブルガリア安定化のシナリオだった。
そして、ブルガリアに混乱をもたらしている者にも、制裁を加えなければならない。プレスラフ公はもちろんだけれど、彼と裏でつながっている第三国も見つけ出し、ブルガリアへの介入をやめさせたいところだ。怪しい国はいくつかあるけれど、決定的な証拠を日英両国とも持っていないので、引き続き協力して諜報活動に当たることになった。
『では、私は宿舎に戻って飲み直します。神経を使う話をして疲れたのでね』
『医者としてご忠告申し上げますけれど、お酒はほどほどになさってくださいね。閣下が飲み過ぎでお亡くなりになれば、日英両国にとっての損失になりますから』
私の注意に、『ご忠告、ありがたく受け取っておきますよ』と苦笑いすると、チャーチルさんは盛岡町邸を後にする。玄関のドアが閉じられた瞬間、
「……さて、いかがでしたか、禎仁王殿下?」
大山さんがこの場にいないはずの人に質問を投げた。
(は?!)
私が目を見開くと、
「あ……分かってた?」
応接間の隣の部屋のドアが開く。頭を掻きながら苦笑していたのは、私の次男で、今月から学習院中等科に進学した禎仁だった。
「さ……禎仁、あなた、私たちとチャーチルさんの話を聞いていたの?!」
私が喘ぐように尋ねると、
「うん、盗み聞きの練習になると思って」
禎仁は悪びれもせずに答える。
「もう……相手に露見したらどうするつもりだったのよ。危ないことはしないでちょうだい」
私が禎仁を叱ると、横から明石さんが「まぁまぁ」と私をなだめた。
「これもよい訓練です。それに、露見した時には、私と大山閣下でその場を取り繕うつもりでしたから、どうぞ今回は見逃していただきますようお願いします」
「……分かりました」
最敬礼した明石さんに、私は渋々頷いた。この言い方だと、明石さんと大山さんは、禎仁の存在に初めから気付いていたのだろう。それでも敢えて禎仁に盗み聞きをさせ続けていたのなら、私には何も言うことはない。
「さて、お母上のお許しが出ましたところで、もう一度お尋ね申し上げますが……禎仁王殿下、どんなことを聞き取られましたか?」
大山さんが優しい声で禎仁に尋ねる。すると、禎仁は恥ずかしそうに下を向いてしまった。
(ん?)
「そ、それが……母上やチャーチルの声は、はっきり聞こえたんだ……」
首を傾げた私の前で、禎仁はうつむいたまま語る。
「でも、母上も、大山の爺も、明石閣下も、もちろんチャーチルも、英語を喋っていたから、何が話されていたのか、意味が分からなくて……」
禎仁がうつむいたまま口を閉ざしてしまうと、大山さんと明石さんが同時に吹き出した。
「そうか……でも、それは仕方ないわ、禎仁。あなた、英語は習い始めたばかりでしょ」
この時代、生徒が学校で英語教育を受けられるのは、中学校や女学校に入学してからだ。私がしょげている禎仁を慰めると、
「しかし、将来は身につけなければなりませんな」
大山さんがニヤリと笑う。
「その通り。海外での諜報活動には、外国語の習得は必須です。言語に通じていなければ、情報が得られる機会に恵まれても、宝の山を逃してしまいます」
「は、はい……」
明石さんの言葉にまたうな垂れてしまった禎仁を、
「まぁ、今から少しずつやればいいのよ」
と私は励ました。
「そうすれば、母上ぐらいには英語が話せるようになるから」
「本当?!」
「ええ、母上だって、勉強したから英語が話せるようになったのよ」
「そうか……。よし、僕、頑張るぞ!頑張って英語を勉強して、母上ぐらい話せるようになる!」
うつむいていた禎仁は顔を上げ、強い口調で決意を述べる。……どうやら、今日の会談がもたらしたものは、日英の諜報機関の連携だけではなかったようだ。私と大山さんと明石さんは、顔を見合わせると、微笑んで頷き合った。




