握手
1925(大正10)年9月11日金曜日午後3時2分、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。
「陛下……陛下ぁっ!」
御学問所の床に崩れ落ちて嗚咽しているのは、立憲自由党総裁の原敬さんだ。今月の3日に行われた衆議院議員総選挙で、原さん率いる立憲自由党が、衆議院の全300議席中154議席を獲得したので、原さんは9月7日、“史実”より遅れること7年にして内閣総理大臣に任命された。そして今日、規定より1日遅れとなった机上演習を担当することになった原さんは、意気揚々と御学問所にやって来たのだけれど、原さんが御学問所に入るやいなや、兄が御学問所から走り去ってしまったのだ。
(やっぱりかぁ……)
「そんな……陛下にわたしの政策をゆっくりとご説明申し上げる、せっかくの機会と思っていたのに……」
床に両膝をつき、うな垂れている原さんを見ながら、私はため息をついた。……そんな予感がしていたのだ。午後の政務をしている時、兄は妙に上機嫌だった。きっと、どんな悪戯を原さんに仕掛けてやろうかと、兄はあれこれ考えていたのだろう。
「原さん」
私が声を掛けると、原さんは両膝をついたままこちらを振り返り、「何でしょうか、内府殿下」と涙声で応じた。
「とりあえず、兄上を探しに行きましょうか」
「内府殿下……?」
「兄上、多分御苑に行ったと思うんです。ここ2、3日、雨が続いて外に出られなかったから」
私は開け放たれた障子の向こうのガラス戸に目をやった。朝から断続的に降っていた小雨は、今は止んでいるようだ。
「だから、御苑に行って、兄上を探しましょう。あ、もし、原さんが疲れているなら、私だけで兄上を探しに行きますけれど……」
「一緒に参ります!」
原さんはびっくりするぐらいの大声で返事をすると、床から勢いよく立ち上がった。
「さぁ、参りましょう、内府殿下」
「あ、はい……」
力強く言った原さんに、私は機械的に頷く。
「あのー、原さん?誰もいないから、昔みたいな口調で話してくれてもいいんですよ?」
きっと、丁寧な言葉遣いで私に話すのは大変だろう。御学問所を出て行く原さんに、私はこう提案してみたけれど、
「お断り申し上げます。わたしは陛下に誓ったのです。内府殿下に対して無礼な物言いは二度としない、と」
原さんはこちらを振り向くときっぱりと言い切り、前に向かって歩き出す。
(本当、原さんって、兄上の言うことには忠実だなぁ……)
私は心の中で苦笑いをすると、兄に忠実な内閣総理大臣を追った。
「さて……内府殿下、陛下がお立ち寄りになりそうな場所に、お心当たりはございますか?」
吹上御苑の入り口までやってくると、私の横に立った原さんが私に聞いた。
「んー……具体的な場所についての心当たりはないんですよね」
私が答えると、原さんは「は?!」と目を剥き、
「見損ないましたぞ、内府殿下。内府殿下のことですから、その辺りのことも当然お考えがあるのだろうと思っておりましたのに」
言葉だけは丁寧に私を非難する。
「ご期待に沿えなくて申し訳ございません」
言葉遣いがどうであろうと、原さんが私に対して手厳しいのは変わらないようだ。私は事務的に頭を下げると、
「ただ、原さんと2人で、何か喋りながら御苑を歩いたら、私たちの話し声が気になった兄上が、私たちの方に寄って来るのではないかと思うのです。これは、妹としての勘……なのですけれど」
原さんにこう弁解してみた。
「御妹君としての勘、ですか……」
私の弁解を聞いた原さんは、つるりとしている顎を撫でると、
「では、その勘に従わせていただきましょう」
そう言いながら、私に最敬礼する。私と原さんは、御苑の奥へと歩き出した。
「……ジョージ王子を招いての午餐会は、来週の水曜日ですよね?」
私が原さんに話しかけると、
「ええ。そこに、当方は呼んでいないチャーチルも出席する訳ですが」
原さんは忌々しげに私に応じる。
「この時期に、一体何をしにやって来るんですかね」
「正確なところは分かりませんな。推測はできますが……」
歩きながら宙を睨んだ原さんに、
「航空母艦の運用について教えろと、日本に催促するため……というのは、理由としては弱いですしねぇ」
と私が言葉を投げると、
「おっしゃる通りです。ですが、わたしはもう1つ目的があると思っています」
原さんは遠くに視線を投げたまま言った。
「そうですか。その目的って何ですか?」
「日英同盟を延長すべきか否か、判断するためですよ」
原さんは一瞬、私を軽蔑するかのように見やったけれど、私の質問にはきちんと答えてくれた。
「再来年、1927年の1月に、日英同盟は更新を迎えます。イギリスが、我が国を利用する価値があると見るかどうか……その判断材料として、チャーチルが今回日本で見聞することが使われるのでしょう」
「日本にとっては、日英同盟は、国際社会での発言力の源ですね。日英同盟がなければ、日本が“七大国”の一角と祭り上げられることもなかったでしょうし」
「恐れながら、国際社会の調停者たり得る内府殿下のご存在も、日本の国際的地位を押し上げる要因でございます」
原さんは鋭い目で私を見つめながら、私の方にずい、と身体を近づけた。「火遊びの好きな皇帝を止めることができる唯一の人物……それだけで、内府殿下の国際社会での価値は計り知れません」
「そんな人間に、なりたくてなった訳じゃないんですけどね」
私はため息をつくと顔をしかめた。
「原さんが評価してくださるのはありがたいですけれど、私にも、止められない争いはあるんです」
そう言ってみると、
「ブルガリアの内乱のことでございますか」
原さんはすぐに私に反応する。
「ええ。“内乱”ですから、国際連盟で調停することはできません。与党に付いた軍と野党に付いた軍の争いは未だに続いているし、農民たちも暴れているし……。おまけに、農民たちが国王退位を叫び始めましたから、もう訳が分かりません。ボリス3世も、動かせる軍を使って、内乱を少しずつ鎮圧してはいるようですけれど……」
「蜂起した農民たちを、野党に味方する軍がやむを得ず排除したところ、農民たちが一斉に国王退位を唱え始めたようですな」
原さんは歩きながら両腕を胸の前で組んだ。「早く鎮圧しなければ、他の国に同じような動きが波及する可能性があります。そうなれば、ドイツもイギリスも、のんびりしてはいられないと思うのですが」
「“史実”のロシア革命みたいなことが起こったら厄介ですね。まぁ、ロシアの革命組織は、中央情報院がはるか昔に全滅させましたけれど、世界のどこかで、新たな革命組織が生まれる可能性もゼロじゃないですしね……」
「チャーチルには、ブルガリアの内乱を放置する危険性を説く方がよいかもしれません。もちろん、院が今後掴んでくる情報も確かめる必要がありますが……」
「そうですね。農民を扇動している人たちが、誰かの指示で動いているらしい、ということしか分かっていないですから」
「その“誰か”とやらが、イギリスである可能性もありますから、チャーチルの出方を慎重に見極める必要があります。幣原の、外務大臣としての初仕事は、非常に厄介なものになりそうです」
「幣原さんなら大丈夫だと思いますよ」
梨花会の一員でもある幣原喜重郎さんは、新内閣で外務大臣に就任した。ちなみに、幣原さんの盟友である浜口雄幸さんは、今年の4月、高橋是清さんの後任の大蔵大臣となっている。大臣の世代交代が、少しずつ進んでいた。
と、
「ところで……」
原さんが、再び鋭い目を私に向けた。
「陛下はどちらにいらっしゃるのですか!」
「あー、そこに話が戻りますか……」
私はため息をつきながらも、兄の気配が感じられるかどうか、周囲の様子を探ってみる。私の感覚に引っ掛かるものは何もなかった。
「兄上の気配は感じられないので、この辺にはいないか、それとも、気配を消して隠れているか……」
原さんにこう伝えると、
「隠れて、いらっしゃる……」
原さんは呟いてうな垂れた。
「そんな……陛下、なぜ私を避けられるのですか……」
そう言って、涙を流し始めた原さんに、
「あー……その、多分、色々ありましたから……」
私はこう答えることしかできなかった。恐らく、原さんが数年前まで私に尊大な態度を取っていたことを、兄が未だに根に持っているのだろうとは思うけれど……。
(それはそれで問題だし、原さんがかわいそうだよなぁ……)
「わたしは、陛下に嫌われているのだろうか……。“史実”でも、この時の流れでも、わたしは陛下のことを第一に考えて行動してきたつもりだったのだが……」
心情を吐露しながら、原さんは目からポロポロ涙をこぼしている。梨花会の中で、いや、数多いる議員や官僚たちの中で、兄のことを最も思ってくれているのは原さんだと私も思う。
「“史実”と同じく、内閣総理大臣として陛下にお仕えできるのは、わたしの望外の喜びとするところ。この聖天子の御稜威を、日本、いや、世界中にあまねく行き渡らせ、天下泰平の世を作るのがわたしの使命!しかし……しかし、陛下が、天地開闢以来、最も素晴らしい聖天子であらせられる陛下が、わたしのことを嫌っておられるとすれば、わたしはどうすればいいのだろうか……」
「原さん……」
おいおいと泣き出した原さんに、私が近寄ってハンカチーフを差し出した時、
「何で原にそんなに優しくするのだ、梨花……」
私たちの頭上から、呆れたような声が降って来る。見上げると、私たちのそばにある大木の太い枝に兄がまたがり、こちらを見下ろしていた。
「へ、陛下!」
「やっぱり御苑にいたのね、兄上」
原さんと私が声を上げる中、兄は登った木から降りてくる。地上に降り立った兄の手を、私は素早く掴んで、逃げられないようにした。
「兄上、なんで原さんにこんな悪戯をしたの?」
私がため息をついて質問すると、
「当たり前だろう」
兄はなぜか開き直ったようなことを言う。
「は?」
「長年、梨花に無礼な口をきいていたではないか。そう思うと、怒りが収まらないのだ。だから、仕返しをしてやろうと思って、な」
首を傾げた私に応じると、兄は原さんを憎悪のこもった目で見つめる。原さんはその場で土下座してしまった。
「もう……それ、ケリはついたはずだよね?」
私は兄の右手を強く握ると、兄を睨みつけた。
「それを今になってから蒸し返すの?」
すると、
「陛下のお言葉は、ごもっともでございます」
原さんが土下座したまま言った。
「内府殿下に対する長年にわたる数々の無礼。到底、許されるものではございません」
「私は許していますよ」
私が半ば呆れながら言うと、「梨花!」と兄が叫んだ。
「お前……自分が何を言っているか分かっているのか?!原はお前を侮辱していたのだぞ?!」
「もちろん分かってるわよ」
息巻く兄に、私は冷静な口調になるように努力しながら言った。
「だけど、原さんの言葉が私を成長させてくれたのは事実だよ。それに、“上下心を一にして、盛に経綸を行うべし”でしょ。天皇と内閣総理大臣の、内大臣と内閣総理大臣の心が違っていたら、政治がうまくいかなくなる。そんな状況になったら、事情を知らない梨花会の面々に疑念が生まれて、梨花会が機能不全に陥るわ。そこにMI6や黒鷲機関が介入してきて、この国が分裂してしまうかもしれない」
「……」
「私と兄上は、お父様の子供なのよ。五箇条の御誓文の精神が分からなかったら、お父様に怒られるわ」
そう言って、じっと兄を見つめると、
「……そうだな」
兄は穏やかな声で答えて、空いている左手で私の頭を撫でた。
「原さん」
私はすかさず原さんを呼んだ。
「はっ」
土下座したまま返事をした原さんに、
「こっちに来てください」
と私は命じる。
「し、しかし、内府殿下、そちらでは陛下に近いのでは……!」
こう言って遠慮する原さんに、「いいから!」と声を投げつけると、原さんは立ち上がり、やや前かがみになりながらこちらに歩いてくる。原さんが私たちから1mほど離れたところで立ち止まると、私は兄の右手をグイっと引っ張った。
「おい、梨花、何をする」
「握手して」
バランスを崩しそうになりながら抗議した兄に、私は短く言った。
「は?握手?誰と?」
「原さんとよ!」
叫びながら、私は1歩前に踏み出して、原さんの右手を掴む。
「はい、じゃあ、心を一にしたという証明として、2人で握手してください」
そう言って、私が兄と原さんの右手を突き合わせると、2人とも、戸惑った顔で私を見た。
「おい、梨花、今、ここでか?」
「当たり前でしょ!」
「な、内府殿下、陛下と握手するなどとは、そんな、恐れ多い……」
「原さん、逃げちゃダメ!これ、手打ちの儀式にするから、ちゃんと握手して!」
互いに離れようとする兄と原さんの右手を、私は強く引っ張って近づける。そして私は、2人の右手を広げさせると握手をさせ、その上から2人の握り合った手を両手で押さえつけた。
「はい、じゃ、これで手打ちよ。兄上も原さんも、これから心を一にして、国政にあたってちょうだい」
私がため息をつきながら宣告すると、
「分かった。……仕事ができる男ではあるのだ。梨花に免じて勘弁してやる」
兄はやや不機嫌そうに、小声で言った。
「だが……今後、梨花に無礼なことをしたら、その時は許さぬぞ」
「当然のことでございます。万が一、わたしがそのような振る舞いに及んだ時には、この首、刎ねられても恨み言は申しません」
「2人とも!」
兄の口からも原さんの口からも物騒な言葉が飛び出したので、私は怒りを叩きつけた。その効果があったのか、
「内府殿下に救っていただいたこの命、陛下のため、そして、内府殿下のため、使わせていただきます」
原さんは何とか聞いていられる台詞を吐いた。
「うん。……ならば俺も、原と心を一にして、政務に励もう」
兄も、ややぶっきらぼうな口調ではあったけれど、原さんの手を握ったままこう言ってくれた。それを聞いた原さんは、これ以上ないくらい、深く頭を下げた。
「……兄上も原さんも、約束はちゃんと守ってくれないとダメよ」
私はようやく胸をなで下ろした。「約束を破ったら、お仕置きするからね」
「お……お仕置き、ですか?」
ギョッとした原さんに、
「ああ、そう恐れることはない」
兄が声を掛けてなだめる。「せいぜい、おやつ抜きぐらいだ。この妹は基本的に、人を傷つけるようなことはしないから……」
「甘いわよ、兄上」
私は兄を冷たい目で見つめた。「もし、兄上と原さんが、心と一にするという約束を破ったら、大山さんにボコボコにしてもらうから」
「「は?!」」
「さてと、早速大山さんに、今のことを伝えなきゃ」
目も口も丸くした兄と原さんを残して、私はクルリと後ろを向くと、御苑の出入り口に向かって全速力で走り出す。
「そんな……大山閣下の拳骨など、もう二度と味わいたくないのに!」
「待てぇ、梨花!」
絶望しきった原さんの叫び声、そして、兄の怒鳴り声を後ろに残し、私は兄に追いつかれないよう、御苑を必死に駆けた。




