内府殿下の御用地訪問?
1925(大正10)年7月28日火曜日午後1時15分、赤坂御用地内にある鞍馬宮邸。
「わざわざこちらにお成りいただきまして、誠にありがとうございます」
鞍馬宮邸の敷地には、私の弟の輝仁さまと彼の家族が住む本館から少し離れたところに、2階建ての洋館が建っている。表向きには、鞍馬宮邸の職員の詰所とされているこの洋館は、本当は、日本の非公式の諜報機関・中央情報院の本部である。その洋館の玄関で私と大山さんを出迎えたのは、鞍馬宮家の別当で中央情報院の総裁・明石元二郎さんだった。
「いえ……明石さんを、何度も皇居に呼びつける訳にはいかないですし……」
私が苦笑いしながら明石さんに答えると、
「とおっしゃいますが、こちらからこの別館においでになるのに、まさか天皇陛下と皇后陛下を隠れ蓑に使われるとは……大胆な悪戯ぶりでございました」
私のそばに控えている大山さんが、私に向かって茶目っ気たっぷりな口調で言った。
「いや、まぁ、兄上と節子さまもめちゃくちゃ乗り気だったし……それに、大山さんも計画の細部を楽しそうに詰めていたよね?」
私はニヤニヤする我が臣下に言い返した。
中央情報院の本部のある鞍馬宮邸に家族と一緒に行くと、どうしても明石さんたちと接触できる時間が短くなってしまう。かと言って、私が1人で鞍馬宮邸に行くと、イギリスのMI6やドイツの黒鷲機関を妙に刺激してしまうかもしれない。
何とか目立たずに、1人で鞍馬宮邸の別館に行く方法はないか……と考えた私は、兄と節子さまの行幸啓を使う手を思いついた。兄と節子さまは、2、3か月に1度のペースで、赤坂御用地にある迪宮さまの住まい・東宮仮御所に行く。普段、その行幸啓に私はついて行かないのだけれど、今回は供奉をして、私は午前11時に東宮仮御所に入った。そして、昼食を終えると、私は赤坂御用地の中を徒歩で移動して、東宮仮御所から鞍馬宮邸へと移動したのだ。普通なら、こんな作戦は立案されても却下されるだろうけれど、兄と節子さまが面白がって実行を命じたので、私は今、無事に院の本部にいるのだ。
「この方法を使えば、目立たずに院に来られるわね。これからもこの手を使いましょう」
「ええ、梨花さまに変装をして動いていただくよりは、遥かに楽な方法ですから」
私と大山さんが微笑みながら話していると、
「内府殿下、大山閣下、お時間は余りございません。早速、ご説明を申し上げますので、こちらへ……」
明石さんは私と大山さんの会話をサッと中断させ、別室への移動を促す。確かに、時間を無駄にはできないので、私たちは明石さんの後ろについて玄関脇にある部屋に入った。
「さて、内府殿下からのご要望は、ブルガリアの情勢について、まとまった説明が欲しい、ということでしたか」
私が椅子に座ると、明石さんは早速私に確認する。
「はい」
首を縦に振った私は、
「情報が断片的に入って来るせいか、どうも、話が腑に落ちなくて……。なので、ブルガリアの情報に1番詳しい人から話を聞けば、もう少し理解できると思ったんです」
と付け加えた。
「なるほど。では、中央情報院が掴んでいるブルガリアの騒動のことを、初めからお話申し上げましょう」
明石さんは軽く頷くと、
「まず、ブルガリアでは、ドイツの影響下にある与党、そしてイギリスの影響下にある野党が争っているという状況が、バルカン戦争終結後以来続いておりますが……」
そう前置きして説明を始めた。
「7月の13日、外出中のボリス3世が襲撃されました。ボリス3世は無事でしたが、侍従武官の1人がボリス3世を守って命を落としました」
私は鉛筆を握ると、手元にあったメモに話の要点を書きつけ始めた。
「16日に、亡くなった侍従武官の葬儀が行われました。その際、葬儀場に仕掛けられていた爆弾が爆発し、120人が亡くなりました」
「ひどい話ですよね。無差別テロ、しかも葬儀で……」
私は顔をしかめて明石さんに応じた。何という痛ましい事件が起こってしまったのだろう。
「ボリス3世の襲撃事件も、侍従武官の葬儀でのテロも、犯人は不明です。与党・野党ともに、2つの事件の犯人は自分たちではないと断言し、犯人は相手の党の人間だと主張しています。頭に血が上った与野党の熱心な支持者たちは、互いに武器を持ち出して小競り合いを始めました。その争いに軍の一部も参加し、騒動はブルガリア各地に広がっております」
(うーん……)
「更に、ブルガリアの農民たちの間で、“国王陛下が殺されかけたのは、与党も野党も不甲斐ないからだ。我々が議員の代わりに国王陛下をお守りする”という論が急速に広まっております。過激化した農民たちは、ブルガリアの各地にある与野党の事務所や政党員・議員たちの自宅を襲撃しています」
「梨花さま、いかがなさいましたか?」
メモを取るのを止め、両腕で頭を抱えてしまった私に、大山さんが問いかけた。
「与党と野党に、更に農民っていう第3勢力まで登場して、カオス過ぎて吐きそうなんだけど……」
私は頭を横に2、3度振ってから、
「ただ……やっぱり、腑に落ちない点があるわ」
メモに目を通しながら言った。
「腑に落ちない、とおっしゃるのは……」
「まず、国王を誰が狙ったのかということ。それから、侍従武官の葬儀でテロを起こしたのは誰か、ということです」
私は明石さんに答えると顔をしかめた。「犯人の正体は分からないんですよね?」
「はい。しかも、この混乱下ですので、ブルガリアの警察の捜査も止まっております」
「ですよね……」
私は両肩を落としたけれど、気を取り直し、
「ブルガリアの与党と野党は、国王を狙ったのは相手の党だと言っているみたいですけれど、私は、与党にも野党にも、国王を殺す理由がないと思うんです」
顔を上げて自分の考えを述べた。
「国王が殺されたら、政権の維持は難しくなります。だから、与党が国王を殺そうとすることはまず考えられません。それに、野党に、国家体制を変えてまで国家のコントロールを握ろうという意志があるという話もありません。もちろん、与野党ともに、一部の人たちが、国王を殺して自分たちが実権を握ろうと考えているかもしれませんけれど、もし、その人たちが犯人なら、その人たちが属している党の中枢にいる人たちが、“犯人はそいつらで、自分たちは無関係だ”と主張すると思います。だから、ボリス3世が、誰に、なぜ狙われたのか、私にはよく分からなくて……」
「ふむ」
私の言葉に頷いた大山さんは、
「ブルガリアに介入しそうな勢力はいるのですかな?イギリスとドイツ以外で……」
そう尋ねながら、明石さんに視線を投げる。
「今のところは見当たりません」
明石さんは注意深く回答する。「ですが、一連の流れには、不審な点がいくつかあります。内府殿下がおっしゃった国王襲撃や葬儀でのテロ事件の犯人のこともですが、農民たちに騒ぎが伝わった経緯も不可解です」
「つまり、ブルガリアの騒動は、他の国に、しかもイギリスとドイツ以外の国に仕組まれた可能性がある……」
「あくまで、可能性の段階です。それに、現在のブルガリアの政治体制にドイツやイギリスが不満を持ち、一連の事件を仕組んだことも考えられます」
私の呟きに、明石さんはこう応じた。「ブルガリアには手の者たちを配置していますが、ここ数日の情勢の変化が急で、彼らも情報を追い切れておりません。今後もちろん、ブルガリアには人員を増派する予定ですが、何か新しい情報が入りましたら、内府殿下にご報告申し上げます」
「ありがとうございます、明石さん。けど、これ……ブルガリアの騒動が、誰かに操られて起こったものだとしたら、嫌ですねぇ……」
私が顔をしかめてため息をついた時、部屋の扉がノックされる。私と大山さんが頭を縦に振ったのを確認すると、明石さんはドアに向かって「入りたまえ」と声を掛ける。姿を現したのは、先月、中央情報院の副総裁に就任した広瀬武夫さんだった。
「総裁、イギリスから気になる報告がありまして、内府殿下と大山閣下にも聞いていただく方がよろしいかと……」
「そうか。何だね?」
明石さんが問いかけると、
「イギリスの大蔵大臣のチャーチルが、ジョージ王子のご来日と合わせて日本を訪問するため、昨日、船でイギリスを発ったとのことです」
広瀬さんは驚くべき報告をした。
「はぁ?!あの人、何でまた日本に来るのよ!」
私が思わず椅子から立ち上がって叫ぶと、
「チャーチルは、内府殿下のことがよほどお好きなようですな」
大山さんがからかうように言い、クスクスと笑った。
「冗談じゃない。あんな曲者になんか、好かれたくないわ!」
「まぁ、そうおっしゃらず……。そのような曲者を手懐けてもてなすのが、上医としての務めでございますよ」
「そんなの、業務内容に入ってないわよ!」
私が大山さんと言い争っている横で、
「ほう……。軍縮会議での“航空母艦の運用方法を教えろ”という約束を果たしてもらいに来た、というところだろうか。まだ、ほんの少ししか教えていないということだし……」
「その可能性は高いですが、それならチャーチルが出張って来る必要は無いはずです。ジョージ王子とともに来日する中国艦隊の司令官に教えれば済むことですし」
目を不気味に光らせた明石さんと、知らせをもたらした広瀬さんとが議論している。
「ああ、分かりました。米内君と飲みたくなったのではないですかな?」
そこになぜか、我が臣下はおどけた口調のまま、割って入ってしまった。
「そうかもしれないけれど、迎える側としては胃が痛くなるのよ……」
マイペースな我が臣下に、私はため息をつきながらこう言った。
私が現在のイギリスの大蔵大臣、ウィンストン・チャーチルさんと初めて会ったのは、今から9年前、ロンドンを訪れた時だ。その翌年、バルカン戦争の講和会議と、オスマン帝国の外債返済に関する会議が日本で開かれた時にも、彼はロイド・ジョージさんと一緒に日本にやって来た。更には2年前、エドワード皇太子が来日した時にも、チャーチルさんは一緒に来日している。“史実”のこの時代、イギリスの大臣が日本を複数回訪問することはあったのだろうか?原さんか斎藤さんに聞かないと分からないけれど……。
(それより……ブルガリアの裏の事情、チャーチルさんは知ってるのかしら?)
ふと、こんな疑問が頭をもたげた。チャーチルさんは大蔵大臣だから、首相直轄だというMI6の運営には直接タッチしていない。けれど、現首相のロイド・ジョージさんから、ある程度の情報を得ている可能性はある。
(日本にチャーチルさんが来たら、ブルガリアのことを聞いてみるか……)
そこまで考えを進めると、私はチャーチルさんのことを頭から追い出した。
1925(大正10)年7月28日火曜日午後2時15分、赤坂御用地内にある鞍馬宮邸。
「今日は色々、ありがとうございました」
鞍馬宮邸別館の玄関で、私は見送りに出てくれた明石さんに一礼した。
「内府殿下のご期待に沿えぬところが多々あり、申し訳ございませんでした」
そう言って私に最敬礼する明石さんに「そんなことはないですよ」と応じて私は微笑した。
「ごちゃごちゃしていた頭が、ようやくスッキリしました。これでブルガリアのことも、落ち着いて考えられそうです」
「ありがたきお言葉……」
再び頭を下げた明石さんに、
「ああ、それから、ついでなので禎仁のことをお願いしたいのですけれど」
私はわざと明るい声で言った。
「いつも禎仁を鍛えていただいてありがとうございます。金子さんにも言っているのですけれど、皇族だからと言って遠慮をしないで、物の役に立つ人間になるように、しっかり禎仁を鍛えてやってください」
私の言葉に、明石さんはまた最敬礼をする。私は大山さんの後ろについて、鞍馬宮邸の別館を後にした。
「ふう……色々手間はかかったけれど、頭はスッキリしたわ。禎仁のことも頼めたし」
前を歩く大山さんに私が話しかけると、
「それはよろしゅうございました」
大山さんは私の方を振り返り、微笑を向けた。
「ブルガリアの情報が入り始めてから、梨花さまが思い悩まれることが多かったですから」
「訳が分からなかったからね」
そう答えて大山さんに微笑み返した時、私は視界の中の違和感に気が付いた。鞍馬宮邸本館と、私が今出てきた別館の間には、ちょっとした広場がある。そこに、黒髪を2つに分けて束ねた小さな女の子が立っていて、こちらをじっと見つめていた。
(あ、マズい……)
私がこう思ったのと、
「章子……伯母さまー!」
女の子が私に気づいて、こちらに向かって矢のように駆け出したのは同時だった。
「伯母さま、お久しぶりです!」
タックルでもするかのように、私の胸の中に勢いよく飛び込んできたのは、私の弟・鞍馬宮輝仁さまの長女で、6歳になった詠子さまだ。大山さんの初めてのひ孫でもある。
「ひ……久しぶりね、詠子さま」
詠子さまが飛び込んできた衝撃に何とか耐えながら、私が彼女に微笑むと、
「伯母さま、わたしの家にいらっしゃるのなら、前もって言ってください!なぜこちらにいらしたのですか?」
詠子さまは無邪気な笑顔を向けて私に聞いた。
(そ、そうなるわよね……)
まさか、別館に出入りしているところを詠子さまに見つかるとは思っていなかったので、言い訳を全く考えていない。どうやって誤魔化そうかと考えようとしたその時、
「伯母さまは、天皇陛下と皇后陛下のお供をして皇太子殿下の所にいらっしゃったのですが、女官たちのお化粧の匂いで気分を悪くされたので、この赤坂御用地を散策なさっておいでだったのです」
大山さんが自分のひ孫に優しい声で説明を始めた。
「ご散策の途中で、暑気あたりを起こされて、こちらの別館で急遽ご休憩なさったのです。そういう事情ですから、内親王殿下に伯母さまがおいでになると、前もってお伝えすることができませんでした」
「分かったわ、大山」
曽祖父の言葉に詠子さまは頷くと、
「伯母さま、もうご気分は大丈夫?あの別館は、明石たちが休むところだから、入ってはいけないと父上に言われているけれど、明石たちは伯母さまが入ってきて怒らなかった?」
私を見上げて心配そうに尋ねた。
「ありがとう。別館で休んだら元気になったし、明石さんたちも怒らなかったわ。きっと、入ってきた時の伯母さまが辛そうだったからだわ」
私は微笑んで、詠子さまの頭を撫でた。
すると、
「じゃあ、伯母さま、お元気なら、わたしと一緒にご本を読んでください」
詠子さまは目を輝かせながら私におねだりした。
(え、ええ……)
これから、東宮仮御所に戻らなければならない。けれど、詠子さまの眼の力は異様に強く、私は彼女の言うことを聞かなければならないような錯覚に陥ってしまった。
(どうしよう……)
救いを求めるように大山さんを見ると、
「お相手をなさってよろしいのではないでしょうか」
大山さんは優しい目を私に向けながら言った。
「天皇陛下と皇后陛下には、俺から申し上げておきますから」
「そう……?じゃあ、余り目立たないように処理してね」
私のお願いに大山さんは一礼すると、別館の方へと去っていく。彼の後ろ姿をぼんやり見ていると、
「章子伯母さま、行きましょう」
詠子さまが私の右手をぐい、と引っ張る。私は彼女に導かれるまま、鞍馬宮邸の本館へと歩いて行った。
「詠子さまが伯母さまと一緒に読みたいのは、どんな本なのかな?」
手をつないで歩きながら、私が詠子さまに聞くと、
「あのね、刀のご本!」
詠子さまは元気に答えてくれた。
「か……刀のご本?」
「はい、父上がくださったの。刀の部位の名称とか、刀の歴史とか、どんな刀を誰が持ってるか、とか、全部書いてあるのよ」
戸惑う私に、詠子さまは嬉しそうに話し続ける。
「そ、そうなんだ……」
詠子さまの刀への情熱は、まだ続いているようだ。まぁ、他人に迷惑を掛けない限りは、刀の趣味は続けていいと思うけれど……。
(そう言えば、チャーチルさんが来るのよね?)
ふと、私は先ほど広瀬さんに言われたことを思い出した。来日したジョージ王子とチャーチルさんが一緒に行動するのなら、例えば、赤坂御用地にある東宮仮御所、あるいは、この鞍馬宮邸にジョージ王子が訪問した際、チャーチルさんが付き添うということもあり得る。
(それ、マズいわ……。詠子さまがまたチャーチルさんのほっぺたを、むにーって引っ張っちゃったら……)
……考えなければならないことが増えてしまった。希代の悪戯っ子でもある姪っ子に手を引っ張られながら、私はこっそりため息をついた。




