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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第78章 1925(大正10)年穀雨~1925(大正10)年冬至
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月旦

 1925(大正10)年7月14日月曜日午後3時、皇居。

(うーん……)

 午後の政務が終わった後、私は兄と一緒に吹上御苑を歩いていた。梅雨のこの時期、御苑を彩るのは紫陽花だ。けれど、今日はその紫陽花の美しさが、いまいち心に響いてこない。……原因は分かっている。先週の金曜日、7月10日に行われた貴族院の伯・子・男爵議員選挙の結果が、どうしても気にかかってしまうのだ。

(ええと、今回の改選で、貴族院の議席のうち、約35%が与党の立憲改進党のものになって、約50%が野党の立憲自由党のものになった……。残りの議席が15%だけれど、この議席分布が、9月の衆議院総選挙までにどう動くかしら。それによって、今後の政局も変わる可能性がある。万が一、衆議院総選挙で立憲改進党が勝って、だけど貴族院の第一党は立憲自由党のままだったら……)

「おい、梨花」

 今後の政局のことを考えていると、兄が後ろから声を掛けてくる。

「うるさいなぁ。今、ちょっと考え事をしてて……」

 振り返らずに兄に答えると、

「梨花っ!」

兄が私の左肩を後ろから掴んだ。

「お前……足元を見ろ!」

「足元って、あ……」

 下を見ると、右のつま先から2、3cm先に、ここ数日の雨でできた大きな水たまりの水面がある。どうやら私は、もう少しで水たまりに足を突っ込むところだったようだ。固まってしまった私の両脇に兄は両腕を回し、私の身体を引きずって水たまりから離した。

「まったく……歩いていてこれでは、どうしようもないな」

 ため息をついた兄に「ごめん……」と頭を下げると、

「謝るなら、その代わりに礼を言え。……とにかく、これでは危なくて散歩どころではない。あそこの松の木の根元に座って話をするか」

兄はそう言いながら、顎で斜め前方を指し示す。私は改めて「ありがとうございました」と兄にお礼を言ってから、兄の後ろを歩いて大きな松の木のそばまで行き、ハンカチーフを広げて腰を下ろした。

「まぁ、梨花が考えていたのは……貴族院の選挙の結果だろう?」

 私の隣に、私と同じようにハンカチーフを広げて座った兄が、私に優しい声で尋ねる。

「うん。まさか、与党がここまで議席を減らすなんて、思ってもいなかったからね。この結果、9月の衆議院の総選挙にどう響くかしら」

「そう影響は出ないだろうよ」

 顔をしかめて言った私に、兄は答えると、私の頭をそっと撫でた。

「立憲自由党が衆議院総選挙で勝てば、貴族院の勢力図は今とそう変わらないだろう。もし、衆議院総選挙で立憲改進党が勝てば、無所属の貴族院議員たちの何人かが立憲改進党に鞍替えするだろう。貴族院の勢力は変動しやすいからな。だから、お前が心配するような、衆議院と貴族院での第一党が異なるという状況が起こる可能性は高くない」

「うん……今までもそういう事態は何回かあったし、貴族院は無所属の人たちも動かせるから、なんとか議案は通していけると思うんだけどね」

 私は両腕を組んで兄に言うと、

「ただ……鷹司(たかつかさ)さん、“史実”より長生きしてるから、そろそろ、彼に何かあった時のことを考える方がいいと思うのよ」

私はこう続けた。現在、政党に属さない貴族院議員たちを率いている鷹司煕通(ひろみち)公爵は満70歳だ。原さんと斎藤さんによると、彼は“史実”では1918年に亡くなったということなので、この時の流れではかなり長生きをしていることになる。

「考える必要があるかな?梨花会の面々を見ていると、鷹司公爵も80歳まで長生きしそうだが」

「いや、梨花会の面々を基準にしない方がいいわよ、兄上。あの人たち、神経が図太過ぎるから……殺しても死なないんじゃないかなぁ……」

「ふむ……しかし、もし鷹司公爵がダメになったとしたら、誰に無所属議員を仕切らせる?」

「それなんだよねぇ……」

 兄の質問に、私は両肩を落とした。適任者が思いつかないのだ。

「一番無難なのは、五摂家の当主かなぁ」

 とりあえず、私はこう呟いてみた。”五摂家”というのは、摂政・関白・太政大臣に就任できた、藤原氏嫡流の家柄で、公家の頂点に立っていた鷹司家・近衛家・一条家・二条家・九条家の5つの家のことだ。明治に入ってからは、全ての当主が華族の最高位・公爵となっていた。

「……でも、鷹司さんのご長男の信輔(のぶすけ)さんが、家督を継いですぐに議員たちを仕切るのは無理があるでしょ?」

 私が兄の方を向きながら問いを投げると、

「そうだな。そうなると、一条公爵も無理だな。あれも、去年家督を継いだばかりだ」

兄は指を折りながら述べる。

「年齢的にも実績的にも無難なのは九条さんかな。でも、節子(さだこ)さまのお兄様だから、起用は慎重にしないといけないわね。二条さんは私と同い年だから、まとめ役をするには若いって言われちゃうかしら。近衛さんは……」

「近衛はダメだ」

 私の言葉に、兄が即座に反応した。

「若過ぎる。それに弱い。……梨花へのあの態度はなんだ!」

 兄はこう吐き捨てると、右足を上げて地面にドン、と叩きつける。

(うわー……まだ怒ってるんだ、兄上……)

 私は身体を兄からサッと離しながら、私がまだ独身だった頃のことを思い出した。

 兄と節子さまの結婚を機に、青山御殿に住まいを移してからは、10歳年下の異母弟・輝仁(てるひと)さまと同居していた。そのため、彼の保護者代わりとして、学習院の運動会を見に行く機会も何度かあった。

 現在の近衛家の当主・近衛文麿さんと出会ったのは、その学習院の運動会でのことだ。彼がたまたまそばを通りかかったので、

――あの、あなたが近衛さんかしら?

と声を掛けてみたところ、

――ひいいいいっ!

彼は引きつった顔で叫びながら後ろへと飛びのき、

――ま、増宮(ますのみや)さまに声を掛けられたぁ!

クルリと背を向け、私から全速力で逃げ出したのだ。

(あー、しょうがないか。きっと、私のことを怖がっている人たちに、色々吹き込まれたんだろうなぁ)

 私にとってはよくある反応のうちの1つだったので、何も言うことなくうっちゃっておいたのだけれど、どこからか兄の耳に入ったらしく、

――まだ子供とはいえ、五摂家の人間が、梨花のことを怖がるとは!

兄は近衛さんに相当怒っていた。……その時のことを、兄はまだ覚えているらしい。

「……ほ、他にはいるかしらね。鷹司さんの跡を継げそうな人」

 頭を横に振って不快な記憶を追い払うと、私は兄に質問を投げてみた。

「毛利公爵は、立憲改進党と縁が深いし、家達(いえさと)議長も、貴族院議長を辞める気は無いだろうし……」

 兄は宙を睨みながら公爵たちの名を挙げると、

「そう言えば、慶久(よしひさ)公爵はどうなのだ」

私の方を向いて尋ねる。

「悪くないとは思うけれど……」

 徳川慶久さんは私より2歳下の40歳。徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜さんの息子で、この時の流れでは1916(明治49)年9月に、父の跡を継いで公爵となった。議会にも精力的に出席しており、様々な政策についてもきちんと勉強する人である。

「でも、慶久さんには、栽仁殿下の妹の實枝子(みえこ)さまが嫁いでいるのよ。私の義理の弟だから、立場が余りにも私に近すぎない?」

 私が兄にこう言うと、

「そんなことを言ったら、九条公爵は節子の兄だ。それに、一条家はお母様(おたたさま)の実家だぞ」

兄は私に反論する。

「五摂家など、どうせ系図のどこかで皇室とつながっているのだ。今更、皇室とのつながりを騒ぎ立ててどうする。それに、あんな格式ばった連中を制御するには、皇室とのつながりがある人間に指図をさせる方が、かえってやりやすいかもしれないぞ」

「そう言われちゃうと、何も言えなくなるわ」

 私は曇り空を見上げると、ため息をついた。

「……鷹司さんに何かあったら、九条さんか二条さんに、貴族院の無所属議員たちの取りまとめをお願いしようか」

 私が空を見上げたまま言うと、

「そうだな。その2人がダメなら、慶久に打診することにしようか」

兄はそう応じて松の木の根元から立ち上がった。


 1925(大正10)年7月14日月曜日午後3時25分、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。

「おお、牧野大臣か」

 散歩を早めに切り上げて御学問所に戻った兄と私は、宮内大臣の牧野伸顕(のぶあき)さんの来訪を受けた。いつも牧野さんは、午前中の政務の時にやってきて、宮内省に関わる事項を兄に報告するので、午後に御学問所に現れるのは珍しい。

「お耳に入れる方がよいことができまして」

 牧野さんはいつもと変わらない穏やかな様子で兄に相対すると、

「イギリスの中国艦隊が、9月に我が国を表敬訪問するという連絡が入りました」

兄に一礼して報告した。

「イギリスの中国艦隊……ジョージ王子が所属していたな」

 少し首を傾げると、兄はこう呟く。

「ジョージ王子ってことは、イギリスの国王陛下の四男か。私、イギリスに行った時に会ったかしら……?」

「俺は会ったな。あの時はやんちゃな坊やだったが……。しかしそうか、ジョージ王子がいる艦隊がやって来るということは、歓迎の宴を開かなければならないな」

 私の言葉に応じ、少し考え込んだ兄に、

「はい。さようでございます。それでご報告に上がりました」

牧野さんは答えて再び頭を下げる。

 すると、

「そうか。……となると、早めなければならないな」

兄は首を縦に何度か振り、両腕を胸の前で組む。

「は?早めるって、何を?」

 全く意味が分からなかったので問い返した私に、

「決まっているだろう、珠子(たまこ)の婚約発表だ!」

兄は叫ぶように答えた。

「あんなに美しい娘なのだぞ!かつてのお前のように、世界各国から求婚があってもおかしくない!しかし、俺は珠子を日本の外に出したくはない!」

「いや、あー、確かに、希宮(まれのみや)さまは美人だけどさ……」

 力説する兄にどう反応すればいいのか、私はよく分からなくなった。兄の長女で、現在、第一高等学校の第3学年に在学している希宮珠子さまは、賀陽宮(かやのみや)家の当主・恒憲(つねのり)王殿下との結婚の話が内々で進んでいる。迪宮(みちのみや)さまより1歳年上の恒憲王殿下は明るい性格で、迪宮さまや秩父宮(ちちぶのみや)さまの遊び相手として東宮御所に度々呼ばれていたから、希宮さまとも顔見知りだ。希宮さまが第一高等学校を卒業して、薬剤師の免許を取ったら婚約発表を……というつもりで宮内省では動いていたのだけれど、兄はそれを早めたいらしい。

「そ……それは、賀陽宮家の方で承知してくれるのかなぁ?」

 私が何とか質問をひねり出すと、

「承知させるさ、何が何でも。珠子の安全のためだ」

兄は目をギラつかせて私に断言する。兄に何を言っても無駄だと悟った私は、乾いた笑いを顔に貼り付かせることしかできなかった。

「かしこまりました。それでは、賀陽宮家にも話をしなければなりませんから、御婚約内定の発表は、来月の上旬ということに……」

「それでよろしく頼む」

 兄は牧野さんに頷くと、

「エドワード皇太子の例もある。ジョージ王子の将来のためにも先手は打たせてもらうが、万が一ジョージ王子が珠子に妙な気を起こしたら、ただではおかないぞ」

鼻息を荒げて物騒な言葉を続ける。私が大きなため息をついた時、

「天皇陛下、内府殿下、よろしいでしょうか?」

廊下に面した障子の向こうから、大山さんの声がした。兄と牧野さんの反応を確認すると、私は「どうぞ」と大山さんに返事をした。

「ふう……今日は千客万来だな」

 顔に苦笑いを浮かべて言った兄は、「一体どうした?」と大山さんに尋ねる。

「申し上げます。ブルガリアの国王陛下の暗殺未遂事件が発生しました」

 兄に一礼すると、大山さんは容易ならざる情報を告げる。それは、日本にもたらされた、ブルガリアの内乱に関する最初の情報だった。

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― 新着の感想 ―
[一言] ちょっと今回の話とずれますが、たまたま東京女子医学専門学校創設者吉岡彌生さんの動画を見ました、晩年の写真からAIで笑顔の動画を作ったものでした。関連で明治の英傑たちの動画もありました。このお…
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