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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第78章 1925(大正10)年穀雨~1925(大正10)年冬至
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銀婚式

 1925(大正10)年5月1日金曜日午後3時、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。

「……ああ、なるほどな」

 午後の政務の後、私から話を聞き終えた兄は、頷くとニヤッと笑った。

「それで先ほど、若槻(わかつき)大臣がお前に会いに来たのか」

「そういうこと」

 私はお茶を一口飲んで顔をしかめた。“若槻大臣”というのは、現在の厚生大臣・若槻礼次郎(れいじろう)さんのことだ。長年、厚生次官を務めていた彼は、桂さんが内閣総理大臣になったのと同時に、後藤さんの後任の厚生大臣となっていた。

「私は、医師会の荒木先生が医師法を改正して欲しいって陳情に来ると思う、って彼に電話で伝えて、詳しい内容も手紙にして東條さんに届けてもらったから、それで用事は済んだと思っていたのよ。それなのに、若槻さんったら、わざわざ私の所まで来て……」

 おせんべいをかじりつつ愚痴る私に、

「それは若槻大臣が正しいよ」

兄は笑いながら言った。

「考えてみろ、お前は厚生省の役人や医療関係者にとって神のような存在なのだぞ。その神から連絡があったのだ。万難を排して神の御許に行かねばなるまい」

「呼んだ覚えが無くても?」

「呼んだ覚えが無くても、だ」

 兄はオウム返しのように私に言い、

「まぁ、諦めろ、梨花」

クスクス笑いながらこう続けた。私が口を軽く尖らせると、

「……ところで、万智子(まちこ)が栄養の勉強をしたいと言い始めたのは意外だな」

兄は素早く話題を変えにかかった。

「兄上もそんなことを言うのね」

「そりゃそうだ。お前の話を聞く限り、万智子は医者になろうと決めていたようだったから」

「私もそう思ってた。……だから心配だった」

「ほう?」

「……医者になるなら、あの子にはしっかりした覚悟を持って欲しかった。人を医学で助けたいという、しっかりとした覚悟を」

 私は軽くため息をつくと、うつむきながら口を動かした。

「けれど、万智子はそんな覚悟を持っていないように見えた。それに、私の娘だから……この時の流れの日本で、初めて女性の軍医になった私の娘だから、周りの期待に流されて医師を目指してるんじゃないかって思ったの。だから、とても心配だった。周りに流されて、深く考えないまま医師になろうとした、前世の私を見ているようで……」

「……」

「でも、そんなこと、万智子には絶対に言えない。だから、万智子にうまく私の考えを伝えられなくて、やきもきした。……万智子が栄養のことを勉強したい、と言い始めて、私、ホッとしたわ。万智子がやっと、自分のやりたいことを見つけられたんだ、万智子が前世の私みたいにならないで済んだ、って」

「そうか」

「きっと、傍から見たら、娘の夢を素直に応援できない、悪い母親なんでしょうね、私は……」

 顔に苦笑いを浮かべた時、頭に少し重みが掛かる。兄のいつの間にか、私のそばまで歩いて来ていて、私の頭を撫でたのだ。

「そう自分を傷つけるな。特殊な事情はあるにせよ、お前は母親として、きちんと子供と向き合っているよ。きっと、子供たちもそれを分かっている。余り思い悩まなくてもいいと俺は思うがな」

「そう……?」

「ああ」

 顔を上げると、兄と目が合う。昔と全く変わらない、まっすぐで頼もしい光を湛える兄の瞳を見つめていると、ざわざわしていた心が、不思議と静かになっていった。

「そう、ね……」

 私が首を縦に振った瞬間、

「そう言えば、万智子に縁談はあるのか?」

兄は私にこんなことを尋ねた。

「兄上、万智子はまだ14歳よ。流石に、そんな話はないわ」

 私が呆れながら答えると、

「しかし、万智子はお前に似て美しく成長している。それに、今を時めく内大臣の娘で、義兄上(あにうえ)の孫でもある。今は無くても、これから華族からの縁談が殺到するぞ」

兄はからかうように私に言う。

「そうかもしれないけどねぇ……難しいわよ、これは」

 私は顔をしかめた。「万智子には、できれば一生支え合えるような人と結婚して欲しいけれど、私から万智子にアドバイスできることはないしねぇ……」

「確かにな。お前は本当に奥手だから、婚約が内定する前、いつ栽仁(たねひと)の想いに気づくのかと、見守っているこちらはハラハラしていた」

「もう!」

 私が叩くふりをすると、兄は高らかな笑い声を上げながら、私が振り下ろした手をヒョイと避ける。そして、私を見下ろして、まだニヤニヤ笑っているので、

「と……ところで、もうすぐ、兄上と節子(さだこ)さまの銀婚式ね」

私は必死に話題を変えようとした。兄と節子さまが結婚したのは、1900(明治33)年の5月10日……あと9日で結婚25周年、つまり、銀婚式なのだ。

「あ、ああ、そうだな。25年……長かったような、短かったような……」

 真面目な表情に戻って呟いた兄に、

「盛大に祝わないとね。兄上と節子さまの、一生に一度の日だもん」

と私が言うと、

「そうではあるのだが……うーん……」

兄は両腕を胸の前で組んで考え込んでしまう。

「どうしたのよ、兄上」

「余り、盛大に祝って欲しくないというか……」

 私の問いに、兄は額に皺を寄せる。

「えー、別にいいじゃない。みんな、兄上と節子さまのことを祝いたいのよ。馬場先門(ばばさきもん)の跡で奉祝門を作っている最中だし、日比谷公園でも芸の催し物があるって言うし……」

「いや、皆の気持ちはありがたいし、芸の催し物は、微行(しのび)でこっそり行って観たいのだが、その……北但馬(たじま)地震のことを考えるとな……」

 北但馬地震は、今月の23日に発生するはずだ。兄はそれを心配しているのだろう。

「兄上、北但馬地震のこと、知ってる人はほとんどいないわよ。兄上が変に心配したら、北但馬地震のことがバレちゃって、国民がパニックになっちゃうかもしれないわ」

「うーん……」

「それにさ、“盛大には祝って欲しくない”なんて言うと、梨花会の皆はもちろんだけど、原さんが滅茶苦茶悲しむわよ。ひょっとすると、大泣きするかもしれない」

 更に私が兄を説得しようとすると、

「あんな奴、泣かせておけばいい」

兄は吐き捨てるように言って顔を背ける。

「もう……そんなこと言わないの。原さんは兄上のこと、すごく大事に思ってくれてるんだから」

「そうは言っても、長年、お前をないがしろにしていた男だぞ」

「だけど、兄上が、事情を知らない人たちの前で原さんを邪険に扱ったら、怪しまれちゃうってば。それで原さんの事情がバレて、梨花会の結束が壊れたら、日本にとって大損害になるんだから、原さんに冷たくしたらダメよ。いい?」

 私が必死に訴えると、ようやく兄は、「仕方がないな……」と言ってため息をつく。原さんだけではなく、他の皆の素直な祝意もきちんと受けるよう、私は後で大山さんと一緒に兄をもう一度説得することにした。


 1925(大正10)年5月10日日曜日、午前10時45分。

「すごいわ。これはすごいわ……」

 今日は政務は無いので、今日の私の仕事は、正午から始まる兄と節子さまの銀婚式を祝う午餐会に、内大臣として出席することだけだ。だからいつもより遅く盛岡町の家を出たのだけれど、私を乗せた自動車は、思いがけない渋滞に巻き込まれていた。

 市電の線路には、造花や提灯、そして国旗で飾り付けられた花電車が走っている。また、同じような装飾をされた花自動車が、何台も連なって市電通りを走行していた。飾り立てられた市電や自動車を見に来た人々、更に、日比谷公園や靖国神社など、東京市内のあちこちで開かれる銀婚式の奉祝行事を見物しようとする人々で、歩道からは人が溢れ、その人々を避けるために、自動車が速度を落として走らなければならない状況だったのだ。

「花電車、綺麗ねぇ……。これ、もしかしたら、夜には電飾をつけて走るのかしら?」

 すれ違う花電車を観察しながら私が尋ねると、

「らしいですよ」

運転席に座る川野さんが、振り返らずに答えてくれた。

「馬場先門跡にある奉祝門も、夜は電飾がつくそうです」

「へぇ……」

 馬場先門跡に完成した大きな奉祝門の姿を私は思い浮かべた。あれにイルミネーションが灯されたら、さぞや美しいだろう。

(明日の仕事は休みだから、今晩、こっそり見に行こうかしら……)

 イルミネーションが点灯された奉祝門を、雑踏に紛れて見上げる所を夢想した私は、慌てて頭を左右に振る。これでは、微行(おしのび)で日比谷公園の催し物を観に行きたいと言っていた兄に示しがつかない。

「……じゃあ、誰かに今夜、奉祝門の写真を撮ってもらおうかしら」

 誘惑と戦いながら、何とかこんな言葉を口に出すと、

「では、私が行ってまいります」

護衛として乗っている盛岡町邸の職員さんがこう申し出る。私は彼に、夜の奉祝門の姿を写真に残してもらうことにした。

 予想外の渋滞に巻き込まれたせいで、私が皇居に着いたのは11時半を過ぎた頃だった。急いで内大臣室で身支度を整え、表御座所の廊下に出た時には、兄に付き従う私以外の職員は全員顔を揃えていた。

「どうなさったのですか、内府殿下。ご到着が遅いので心配致しました」

「渋滞に巻き込まれてね……兄上と節子さまをお祝いする人たちの熱気を甘く見ていたわ。まさか、あんなに多いなんて」

 宮内高等官の男子小礼服を着た大山さんと小声で言葉を交わしていると、御学問所の障子が開き、黒いフロックコートを着た兄が廊下に姿を現す。一同が慌てて最敬礼をしたところに、後方から人の足音が近づいてくる。女官さんを先に立て、奥御殿から節子さまがやってきたのだ。私たちは節子さまたちに道を譲り、節子さまに向かって頭を深く下げた。

「よく似合っているな」

 自分の隣に立った節子さまを兄が微笑みながら褒めると、

「恐れ入ります」

深紅の小礼服ローブ・ミー・デコルテをまとう節子さまが兄に一礼する。ダイヤモンドのイヤリングが節子さまの動きと共に揺れ、彼女の美しさと凛々しさを引き立てている。私は節子さまの姿に見とれてしまった。

「さ、行こうか」

 兄は自然な仕草で節子さまの手を取ると、祝宴会場のある表御殿へと歩き出す。私たちも兄と節子さまに従い、列を作りながら前へと進んだ。

 表御殿の千種(ちぐさ)の間には、今日の午餐会の出席者たちが集められていた。成年皇族や内閣総理大臣の桂さんをはじめとする国務大臣たち、枢密院議長の黒田さんや枢密顧問官と言った政府の高官、公爵たちや各国大使、そしてその夫人たちが、入ってきた兄と節子さまに頭を下げる。兄と節子さまは外交儀礼として、各国の大使と大使夫人と握手を交わす。こういう時、出席者たちの中には私に視線を向けたり、話しかけようとしたりする人もいるのだけれど、私は黙って会釈するだけにしている。あくまでこの場の主役は、天皇である兄と、皇后である節子さまだからだ。それでもしつこく私を狙おうとする人に対しては、大山さんが殺気を放って下がらせるのだけれど、今日は幸い、殺気が放たれることはなかった。

 やがて、兄と節子さまは祝宴会場である豊明殿(ほうめいでん)に入り、招待客たちも豊明殿の定められた席に座る。兄が“祝宴に集まってくれてありがとう”というような勅語を述べ、それに各国大使の代表と、内閣総理大臣の桂さんが奉答すると、待機していた宮内省の職員たちが管弦楽の演奏を始めた。

 華やかな音楽が流れる中、兄と節子さまの銀婚式を祝う午餐会は和やかに進む。宮内官が集まっている一角に座った私も、宴会の雰囲気を味わいながら、周りの人たちと会話を楽しんだ。

(兄上、どうしているかしら……)

 祝宴の途中、ふと気になった私は、玉座の方にそっと目を向けた。兄は、管弦楽を演奏している宮内省の職員たちを時折見ながら、演奏に熱心に耳を傾けている。そして、節子さまに何かを話しかけて2人で笑い合ったり、脇に控えている奥侍従長に何かを言いつけたりしている。兄の朗らかな笑顔に、病の影は全くなかった。

(ああ……)

 そう言えば、“史実”のこの時期、兄は既に健康を害していて、天皇としての職務は、摂政に立った迪宮(みちのみや)さまが行っていたのだ。迪宮さまが摂政になってから兄が崩御するまでの約5年間、兄は公の場に出ることはなかったと斎藤さんに聞いた。だから、銀婚式の祝宴にも、兄は出席していなかっただろう。……けれど、この時の流れでの兄は健康そのもので、天皇としての職務を立派に果たし、銀婚式の祝宴にも元気に出席して、皆からの祝意を受けている。

(よかった……でも、これで終わりじゃないの)

 そう思った時、私の目から涙がポロリとこぼれ落ちた。

(兄上には、これからもずっと元気でいてもらって、長生きしてもらわなきゃ。それこそ、節子さまと一緒に、金婚式を迎えられるくらいに……そのために、私がいるんだから)

 節子さまと何事かを話し合っていた兄は、屈託のない笑顔を節子さまに向ける。その笑顔が、涙でぼやけて見えなくなった。

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