閑話:1925(大正10)年春分 ベルリンのビアホール
1925年4月3日金曜日午後6時、ドイツ帝国の首都・ベルリン。
「そう言えばな、弟よ」
ベルリンのターミナル駅の1つ・シュレージエン駅に近いビアホールで、マリオ・ロッシ……実はイタリアの王族の1人、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・トリノ・ジョヴァンニ・マリーア・ディ・サヴォイア=アオスタは、前に座る弟に話しかけた。もちろん、弟……ルイージ・アメデーオ・ジュゼッペ・マリーア・フェルディナンド・フランチェスコ・ディ・サヴォイア=アオスタもイタリア王族だが、今はルイージ・ヴェルディと名乗り、兄とともに日本を目指し、途中の都市で肉体労働をして資金を稼ぎながら旅していた。
「なんだ、兄者。小説の筋書きの相談なら乗らないぞ」
こう応じてビールを一口飲んだ弟に、
「違う。小説ならもう少しで完成する。私が言いたかったのは、今朝の新聞に、日本の松方という元大臣が亡くなった、という記事が出ていたな、ということだ」
兄は少し顔をしかめながら話すと、自分も弟と同じようにビールを飲む。イタリアから来た兄弟の周囲の客も、彼らと同じようにビールを飲んで料理を楽しみ、他愛もない話に花を咲かせていたので、突然日本のことを話し始めたイタリア人を咎める者はいなかった。
「ああ、そう言えば、載っていたな。ええと……俺が日本に行った時は大臣だったのかな?」
「大臣だったはずだ。“1881年から約24年間大蔵大臣だった”と新聞に書いてあったからな。お前が日本に行ったのは1895年だろう」
首を傾げた弟に答えると、兄は再びジョッキを傾ける。そして、中身を空にすると、ちょうど通りかかったウェイターに、ビールのおかわりを注文した。
「……90歳で亡くなったそうだ。相当長生きだな」
「そこまで生きられたのは、日本の医学の進歩が関わっているのかな?確か、去年のノーベル生理学・医学賞の受賞者も、ノグチという日本人だっただろう」
弟の質問に「分からん」と頭を左右に振ると、兄はウェイターから新しいジョッキを受け取り、ビールを一口飲み、
「……ああ、ビールもいいが、イタリアのワインが飲みたいな」
顔をしかめて呟いた。
「それには全面的に同意するぞ、兄者。それから、俺はパスタとピッツァも食べたい」
弟も頷くと、ソーセージにかじりつく。ミュンヘンからベルリンに移って約4か月、そろそろベルリンの街にも慣れてきた兄弟だが、唯一不満に感じることは、彼らの口に合う食事になかなかありつけないことだった。
「イタリアより冷涼な気候だからか、ライ麦が混じったパンが多いが……酸っぱくて口に合わん」
「野菜も少ないな。俺たちがこの街にやって来たのが冬の最中だったからだろうが……。そろそろ、トマトソースが掛かったピッツァが食べたいな」
故郷の味を思い出し、現在の食生活に不満を述べる兄弟だったが、
「だが、ジャガイモは美味い。この“ブラートカルトッフェルン”なんかな」
弟は手元の皿にフォークを伸ばす。“ブラートカルトッフェルン”と言うのは、スライスしたジャガイモをよく炒めた料理だ。ベーコンや、スライスした玉ねぎなどを加えてアレンジされることも多い。
「それと、これだな。酒のつまみにちょうどいい」
兄も、テーブルの上に置かれたカゴから、独特の形をしたスナックをつまみ上げる。プレッツェルと呼ばれる、塩がまぶされた菓子パンである。柔らかく焼き上げた大きなもの、ビスケットや堅パンのように硬く焼いた比較的小さなものがあるが、兄が食べていたのは後者だった。
「つまり、一見、料理が口に合わないと思えるような国でも、きちんと探せば美味いものがあるということか」
そう言って弟がガブガブとビールを飲むと、
「そういうことだ。そうでなければ困る」
兄はプレッツェルをかじりながら言った。
「ドイツの料理の本も仕入れる方がよさそうだな、兄者。だが、日本に着いたら、我らが故郷、イタリアの料理は絶対に出すぞ」
「ああ。日本でトマトを栽培している農家があるか。それから、パスタやピッツァに適した品種の小麦が生産されているかも確かめなければ。やはり我らはイタリア人、イタリアの料理は大事にしな……ぶほっ、ごほっ」
弁舌を振るっていた兄が、突然、咳き込みながら顔をしかめる。両手はのど元に伸ばされ、親指と人差し指でのどを掴んでいた。
「兄者?!」
兄の異変に気が付いた弟が椅子を蹴るようにして立ち上がり、兄の後ろに回る。そして、兄の背中を、手のひらで何度も強く叩いた。
「お、弟よ、も、もう大丈夫だ……」
誤嚥したプレッツェルが気道から外れ、ようやく息ができるようになった兄は、まだ背中を渾身の力で叩き続ける弟に弱々しく呼びかけた。
「お、息ができるようになったか、兄者」
弟の声に黙って首を縦に振った兄は、口の中に上がってきた誤嚥したプレッツェルを吐き出す。そして、大きく息を吸い込んだ。
「は、はぁ……死ぬかと思ったぞ。お前のおかげで助かった。礼を言う。しかし、今の技、どこで知ったのだ?」
「昔、山で知り合った奴に教わったのさ。食べ物をのどに詰まらせて窒息した人間を助けるにはこうしろ、と」
兄の問いに答えた弟は、ビールを呷るとブラートカルトッフェルンを一口食べた。
「……そんな機会に遭遇するのかと怪しんでいたのだが、本当に出くわすとはな。覚えておいてよかった」
「ああ、覚えていてくれてよかった。私は、こんな所で死ぬ訳にはいかないのだ。何としてでも東京にたどり着き、立派なリストランテを開いて、章子内親王に我々の料理を食べてもらわなければならないのだから」
「その通りだ。兄者、死んでくれるなよ。俺たちは、イタリア料理の何たるかを日本に伝え、あの美しい姫君に、パスタとピッツァを振る舞わなければならないのだ!」
イタリアを遠く離れた異郷の地で、兄弟が決意を新たにしていた頃、
「畜生、あいつら、どこにいるんだ。早く殺っちまいたいのに」
ベルリンにある別のビアホールで、物騒な言葉を吐きながらビールを呷るイタリア人の男がいた。
「ま、焦るな、焦るな。今までの奴らの行動を考えると、ミュンヘンから日本への経路上にあるどこかの街に、数か月滞在するはずだ」
悪態をついた男をなだめる男の言葉も、やはりイタリア語だった。彼はソーセージにかじりついたが、咀嚼して飲み込むと、「俺の口にはドイツの料理は合わないな」と呟いた。
「だけど兄貴、そろそろ、別の街に行く方がいいかもしれませんぜ。これだけベルリンを探し回っても、奴らが見当たらないんですから」
ビールのジョッキを空にした男が、自分をなだめた“兄貴”に訴えると、
「かもしれない。……じゃあ、明日はベルリンを離れるか。ここの飯にも飽きたしな」
“兄貴”はそう答え、赤ワインの入ったグラスに口を付けた。
「……ワインもイタリアの方がいいなぁ」
そう呟いた“兄貴”の手元には、2年前に亡くなったとされているイタリアの王族、トリノ伯とアブルッツィ公の写真があった。
※「ぶっしゅ……」と兄に言わせようとも思いましたが、流石にやめました。




