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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第77章 1924(大正9)年秋分~1925(大正10)年春分
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閑話:1925(大正10)年春分 東宮仮御所の臨時梨花会

 1925(大正10)年3月28日土曜日午後2時10分、赤坂御用地内にある東宮仮御所内の大食堂。

 各国からやって来た賓客や、政府の高官たちを招いての昼食会や晩餐会が開かれるこの大食堂の長机は、催し物があれば、装飾を施された食器や季節の花が並べられ、華やかな雰囲気が醸し出される。ところが、今日はその長机から、装飾の類は一切廃されている。大食堂にカタカナの”ロ”の字に並べられた長机は、ただ純白のテーブルクロスに覆われるのみとなっていた。

 とは言え、今日の催しに参加する者の身分が低いという訳ではない。現役の内閣総理大臣をはじめとする大臣が幾人かいる他に、現役の大物国会議員も顔を見せている。更には、枢密院議長や数人の枢密顧問官も座に連なっており、見る人が見れば、“政府の中枢が丸ごと移ってきた”と評するだろう。それもそのはず、これからこの大食堂で開かれるのは、イギリスには“日本の最高意思決定会議”と目されている、梨花会の臨時会合であった。

 しかし、いつも梨花会の中心にいる内大臣の章子内親王の姿はない。更に、天皇も大食堂には姿を見せていなかった。天皇が座る位置に代わりに座らされているのは皇后である。

「なぜ私が、この会合に出なければならないのですか」

 不機嫌なのを隠そうともせず、皇后は列席している一同に問う。棘の含まれたその声に、末席にいる者たちは委縮してしまったが、

「それは、天皇陛下に、ご自身への罰を決めていただく訳にはいかないからでございます」

出席者の1人、宮内大臣の牧野伸顕(のぶあき)は、穏やかな口調で皇后に答えた。

「お(かみ)への罰を私が決めろと?」

 牧野宮内大臣に鋭い視線を投げた皇后は、

「お上があのようなご性格なのは昔からのこと。今更罰を与えても、どうしようもないでしょうに」

と牧野宮内大臣に言い返す。

「それに……ここに梨花お姉さまがいらっしゃらないのはなぜですか?まさか、お姉さまへの罰も決めろと言うのではないでしょうね?」

 そして、皇后は語気を更に強めて一同に下問する。牧野大臣がその迫力に押され、思わず口を閉じた瞬間、

「恐れながら、おとといの天皇陛下のお振る舞いにより、皇居や三田周辺を警備している警察官たち、そして松方さんの家の者たちに、多大な混乱が生じました」

内大臣秘書官長・大山巌が一歩前に出て皇后に奉答した。

「天皇陛下と梨花さまは、ご一緒に行動なさいました。従って、梨花さまにも、何らかの処分をしなければなりません」

 大山秘書官長と皇后は睨み合った。しかし、皇后はすぐに顔を歪めて大山秘書官長から目を逸らし、

「大山閣下がそうおっしゃるのなら……仕方ありません」

と、呻くように言った。

 すると、

「しかし、天皇陛下への罰は、本当に必要なのか?」

枢密顧問官の1人、前宮内大臣である山縣有朋が悲しげな顔で一同に問いかけた。

「此度の件は、まさに天皇陛下のご仁慈の発露と言っていい。それを罰することなどできようか……」

「気持ちは分かるがな、狂介(きょうすけ)

 涙ぐむ山縣顧問官に、昔馴染みである伊藤顧問官が慰めるような調子で声を掛けた。

「状況を総合して考えれば、天皇陛下が第1報をお聞きになった時、すぐに馬からお降りになり、大急ぎで鹵簿(ろぼ)を仕立てさせるのが正解だったのだ」

「さよう、伊藤さんの言う通り。天皇陛下には、冷静さがちと欠けていたのう」

 枢密顧問官で天皇の第4子・英宮(ひでのみや)尚仁(なおひと)親王と第5子・倫宮(とものみや)興仁(おきひと)親王の輔導主任でもある西郷従道(じゅうどう)が、伊藤顧問官に続いてのんびりとした口調で指摘すると、

「ですから、考えなければならないのですよ。天皇陛下と内府殿下に対する罰をね」

元内閣総理大臣で枢密顧問官の陸奥宗光が、ニヤニヤしながらこう言った。

 と、

「お待ちください!」

末席で立ち上がり、叫んだ者がいた。国軍大臣官房付きの海兵少佐・堀悌吉(ていきち)である。刃のような鋭い視線を突きつける高官たちに一歩も退くことなく、堀海兵少佐は、

「事情を伺えば、内府殿下は天皇陛下に巻き込まれただけではないですか!しかも、天皇陛下を説得され、説得は不可能と見るや、ご自身が天皇陛下の護衛に回られるという、その場で考えられる最善の策を取られました。そんな内府殿下に、なぜ罰が与えられてしまうのですか!」

と力強く主張する。昨年堀海兵少佐とともに第2回ジュネーブ軍縮会議の予備交渉に臨んだ山本五十六航空少佐、そして山下奉文(ともゆき)歩兵少佐が、普段穏やかな堀海兵少佐が声を荒げたのを見て目を瞠った。

 そして、

「堀少佐の言う通りです」

野党・立憲自由党総裁で衆議院議員の原(たかし)が、堀海兵少佐に援護射撃をする。

「恐れ多くも、天皇陛下と内府殿下を傷つけるおつもりですか?いくら恐れを知らぬ閣下方であっても、それは許されることではありません!」

 目を怒らせて格上の者たちを非難する原総裁に、

「僕も、梨花叔母さまに罰を与えるべきではないと思います」

大きな声で加勢したのは、皇太子・裕仁(ひろひと)親王であった。

「そもそも、お母様(おたたさま)のおっしゃる通り、お父様(おもうさま)に罰を与えるのもどうかと思うのですが……」

「何も、お2人を傷つけようという訳ではありませんよ」

 強張った顔で言葉を続ける裕仁親王に、陸奥顧問官は不敵な笑みを向けた。

「ただ、僕たちが楽しめるものを提供していただきたい、ということです。あいにくと、僕たちは暇を持て余しておりましてね」

「極東戦争とそれに続く講和、浜離宮外相会談、バルカン戦争の講和会議に国際連盟の設立……流石にそのような大仕事でなくてもよいですが、せめて、毎週の机上演習程度の刺激は欲しいものですな」

 元内閣総理大臣で枢密院議長の黒田清隆(きよたか)が立ち上がり、反対意見を言う者たちの顔を順々に見つめる。猛獣が獲物を狙うような視線を浴びせられてしまった堀海兵少佐、原総裁、そして裕仁親王の額を冷や汗が流れ落ちた。

「さて、話がまとまったところで、早速罰の内容を考えて……」

 殺気によって静かになった大食堂を陸奥顧問官が一瞥した瞬間、

「ちょっとお尋ね申し上げますがね」

前内閣総理大臣で貴族院議員の西園寺公望(きんもち)が、粘りつくような視線で陸奥顧問官を見た。

「まさかとは思いますが……机上演習のように、枢密顧問官の方々だけで楽しんでしまうのではないでしょうな?」

「いや、それは……」

 西園寺前総理の問いに陸奥顧問官が答える前に、

「そのようなことはないと信じておりますぞ、陸奥閣下」

(おい)……いや、私も、内府殿下と軍事について意見を交換したくてたまらないのです!」

「私も、脳卒中の経過観察を内府殿下にしていただきたいですし、自動車と諜報について、内府殿下と是非語り合いたいのです」

内閣総理大臣の桂太郎、国軍大臣の山本権兵衛、前国軍航空本部長の児玉源太郎……かつて“国軍三羽烏”と呼ばれた3人が、陸奥顧問官に阿修羅のごとき形相で迫る。

「天皇陛下と内府殿下に、国政に関するわたしの意見を是非聞いていただきたく……!」

「我輩も、関東大震災の復興、そして医療行政に関する話を、内府殿下にお話し申し上げたい!」

 更には、原総裁、そして内務大臣の後藤新平が、三羽烏に負けじとばかりに熱い想いをぶつける。大食堂での議論は収拾がつかなくなり、

「なぜこの人たちは、内府殿下が関わる話になると、理性がなくなってしまうのだろうか……」

元内閣総理大臣の渋沢栄一は、ヒートアップする梨花会の面々に囲まれ、両腕で頭を抱えた。

「なぜこの方々は、内府殿下の話題でこんなに盛り上がっているんだ……」

「諦めろ、山下。そういう人たちなんだと受け入れるしかない……」

 末席では、山下歩兵少佐に山本航空少佐が力無く首を左右に振っている。2人の表情は一様に暗かった。

「どうします、高橋閣下。何とか無難なところで話をまとめませんと、皇后陛下のご不興も買ってしまいますし……」

 山本航空少佐の隣に座る外務次官の幣原(しではら)喜重郎(きじゅうろう)は、事態の収拾を試みようと、自分の斜め左前にいる大蔵大臣の高橋是清(これきよ)に声を掛ける。

「私が“静粛に”と呼び掛けましょうか?」

 幣原外務次官の盟友である浜口雄幸(おさち)大蔵次官も、厳めしい顔を強張らせ、上官に意見を具申した。

「いや、それは……行けますか?」

「かなり難しいですが……このままですと、内府殿下が大変な目に遭ってしまいますし……」

 高橋大蔵大臣、そして、その向かいに座る国軍参謀本部長の斎藤(まこと)が小声で言葉を交わしたその時、パン、パン、と手を叩く音が大食堂に高く響く。椅子から立って手を叩いていたのは、有栖川宮(ありすがわのみや)家の当主で章子内親王の義父でもある威仁(たけひと)親王だった。「静粛に、諸君」という彼の声で、騒がしかった一同も口を閉じる。大食堂が静かになったのを見届けると、

「実は、今日の議題を聞いて、嫁御寮どのの罰にはどんなことが適当か、うちの孫たちに考えてもらったのですよ」

威仁親王は満面の笑みと共に一同に告げた。

「ええ……」

 威仁親王のお付き武官を務めていたこともある堀海兵少佐をはじめ、梨花会に加わってから日の浅い者たちは、困惑の表情で威仁親王を見たが、

「おお!」

「是非、お願い申し上げます!」

伊藤顧問官や山縣顧問官など、梨花会の古参の者たちは、威仁親王の発言を歓喜の声で迎えた。

「まず、“和歌を詠ませてはどうか”という意見がありましてね」

 一同の様子を見て、満足げに首を縦に振った威仁親王は、一同にこう言ったが、

「恐れながら、それは梨花さまには罰となりますが、天皇陛下には罰にならないでしょう」

章子内親王が心を許す臣下でもある大山内大臣秘書官長が鋭く指摘した。

「確かに……内府殿下に敷島(しきしま)の道を手ほどきしたわしは、己の力不足を痛感してしまうのだが……」

 両肩を落として呟く山縣顧問官を無視して、

「他にも、“書道をさせてはどうか”という意見もありましたね」

威仁親王はめげることなく一同に提案する。

「うーん……内府殿下の書は、ご結婚なさってから着実に上達なさっています。それに、やはり天皇陛下には、これも大した罰にはなりません」

 すると、黒田枢密院議長がこう発言する。僅かに顔をしかめた威仁親王は、

「では、ありきたりになってしまいますが、掃除はいかがでしょうかね?」

めげずに一同に問いかけた。

「それは難しいでしょう。天皇陛下がお若い頃、東宮御学問所で学ばれておられました時、ひどい悪戯をなさったので、罰として御学問所全体の掃除を言いつけたのです。学友たちには“手伝い無用”ときつく申し渡したのですが、それにも関わらず、学友たちが天皇陛下を手伝って掃除をした、ということがありましてな……」

「確かに、天皇陛下にはご人望がおありになりますからな。もちろん、内府殿下もですが……。もしお2人に、“掃除をせよ”という罰が与えられてしまったら、この桂も手伝ってしまいそうですし……」

 東宮御学問所の総裁を2度務めた伊藤顧問官、そして桂内閣総理大臣がしみじみとした口調で意見を述べると、

「無論わたしも、天皇陛下と内府殿下が掃除をなさるのであれば、お手伝い申し上げます!」

原総裁が張り合うように大きな声を上げた。

「有栖川宮さま」

 不意に皇后に呼ばれ、威仁親王は上座に向かって最敬礼をする。そんな彼に、

「お上と梨花お姉さまに罰を与えるなど、一般的な方法では不可能なのではないですか?」

皇后は半ば呆れたような調子で言うとため息をついた。

「ですから、こんな馬鹿げた話し合いはやめて……」

 顔をしかめた皇后の声に、

「なるほど。つまり、一般的な方法でなければよい、という訳ですな」

伊藤顧問官の声が重なる。キョトンとした皇后に、

「つまり、(おい)たちがいつもやっている方法でよいということですな」

大山内大臣秘書官長が凄みのある微笑とともに告げる。彼の全身から放たれるよからぬ気に圧されて声が出せなくなった皇后の前で、

「では、改めて順番を決めようか。……ああ、西園寺さん、原君、後藤君、心配しなくても、君たちにも機会が回るよう配慮するから」

陸奥顧問官は余裕たっぷりな態度で言い放ち、会議が終了するまで、議論をリードし続けた。


 1925(大正10)年4月2日木曜日午後3時、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。

「伊藤顧問官」

 御学問所には丸いテーブルが運び入れられ、その周りに3脚の椅子が置かれた。そのうちの1脚に腰を下ろした天皇は、苛立ちを隠せない様子で枢密顧問官・伊藤博文を呼んだ。

「何でございましょう」

 すまし顔で応じた伊藤顧問官に、

「なぜこの場に梨花もいるのだ?」

天皇はこう問うと、彼を鋭く睨みつける。

「今日から始まる木曜日の机上演習は、亡くなった松方顧問官の見舞いに俺が飛び出して行ったことへの罰だと聞いた。だがな、あの時、梨花は俺に巻き込まれただけで、落ち度は全く無いのだ。それなのに、なぜ梨花もここにいるのだ?」

「あー、兄上、気持ちはありがたいんだけど……」

 天皇の隣で、内大臣・章子内親王は、生気の無い表情で首を横に振った。

「もう、手が回ってるのよ。もし私がこの場から離れたら、お義父(とう)さまが私に書道の課題を出す、って……だから私、逃げたいけど、逃げられないのよ」

「よく分かっていらっしゃいます」

 章子内親王の発言を聞いた伊藤顧問官は微笑むと、大山内大臣秘書官長が淹れた紅茶を一口飲む。そして、テーブルの上に置かれたビスケットの乗った皿に手を伸ばした。

「……ああ、よく分かったよ」

 ビスケットをかじる伊藤顧問官に、天皇は不貞腐れたように言った。

「は?何が、でございますか?」

 大仰に首を傾げた伊藤顧問官に、

「卿らが、梨花をとても慕っているということがな」

と答えると、天皇はため息をつく。

「それなら、俺はここにいなくてもいいのではないかな」

「すねておられるのですか?」

「正直、気分は余り良くない。梨花と話す機会を増やしたいから、卿らが今回の“罰”に梨花を巻き込んだというのが明らかだからな」

 そう言って紅茶を飲んだ天皇に、「よろしいですか、陛下」と姿勢を正した伊藤顧問官は、

「この木曜日の演習、方式は梨花会の各人に任せられているのです。ですから、課題に対する回答を文書でいただくのみという者も何人かおります。しかし、わしが今日わざわざ参内したのは、内府殿下とお話ししたかったのはもちろんですが、陛下とお話をさせていただきたかったという気持ちからでございます」

真面目な表情で言上し、じっと天皇を見つめる。伊藤顧問官としばし睨み合っていた天皇は、目を逸らしてふうっ、と息を吐くと、

「そういうことなら、仕方がない」

呟くようにこう言って、早く演習を始めるよう、視線で伊藤顧問官に促す。「では……」と頷いた伊藤顧問官が関東大震災からの復興の進捗について話し始めると、天皇はテーブルの下で章子内親王に手を伸ばし、彼女の右手を取ると、

『ドウシテコウナツタ』

電信で使う電鍵を打つ要領で、人差し指で彼女の手のひらを叩き、モールス符号で言葉を伝えた。すると、章子内親王も天皇の手に指先を押し付け、

『ドウシテコウナツタ……ツテ、兄上ノセイデシヨウ!』

と、同じくモールス符号で言葉を打つ。

『マア、許セ』

『許セデ済ムカア!』

 章子内親王が魂からの叫びを天皇の手のひらに叩きつけた時、

「天皇陛下、内府殿下、わしの話を聞いておられますか?」

伊藤顧問官の瞳が鋭く光る。

「は、はい、聞いてます」

「うん、聞いているぞ」

 同時に答えた章子内親王と天皇に、

「ではお聞き致しますが、関東大震災の復興の問題点として、何が挙げられますかな?」

伊藤顧問官は、早速問いを突き付ける。

 ……天皇と章子内親王の苦難の日々は続く。この世に梨花会が存在する限り。

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