春風(1)
1925(大正10)年3月26日木曜日午後2時35分、皇居・旧二の丸にある馬場。
「うん、息がピッタリ合っている」
栃栗毛の馬に横乗りで乗った私が、馬を一通り走らせてから、黒鹿毛の馬に乗った兄のそばに戻ると、兄は満足げに頷いて私に言った。
「初めて乗ったとは思えないな」
「うん、すごく安心して乗っていられた。えーっと、この子の名前は……」
「“春風”だ、覚えておけ」
馬上で首を傾げた私に、兄は優しい声で言うと、
「“翠松”がいない間、梨花の相手は“春風”だ。おとなしいが、勇気がある。お前がヘマをしても、きっと助けてくれるだろう」
そう言葉を続け、私に笑顔を向けた。
皇居の馬場で馬に乗る時、私が使わせてもらう馬は、いつも“翠松”という栗毛の馬だった。ところが、“翠松”はここ最近、不整脈が出るようになり、体調を崩していた。それで“翠松”は療養に専念することになり、“翠松”が復帰するまでの間、私は代わりに“春風”を宛がわれたのだ。
「梨花、今日は天気がいいから、このまま本丸の方へ行こうか」
兄の誘いに、私は素直に頷く。それを見ると、兄は馬場の職員さんに馬場を囲う柵を一部取り外すように命じた。
「兄上」
柵が外れるのを待っている間に、私は兄に話しかけた。
「ん?」
「馬に乗るのって、いいわね。私が乗るのに慣れたからかもしれないけれど」
すると、
「おお、梨花も乗馬の楽しさが分かってきたか」
兄は嬉しそうな顔をして何度も首を縦に振る。
「そりゃあ、気が付いたら30年近く、馬と縁のある生活をしているからね。転生したって分かった当初は、まさかこんなに馬に乗ることになるなんて思ってもいなかったけれど」
「軍医になる前、お前は馬に乗っているつもりで、馬に乗られていたなぁ」
私の言葉を聞いた兄は、そう言ってカラカラと笑い、
「だが、軍医学校ではみっちり乗馬を習っただろうし、今はこうして、俺が稽古をつけているのだ。上達しない方がおかしい」
と断言する。
「それは本当に感謝してる。いつもありがとう、兄上」
私が馬上で一礼すると、兄は「うん」と答えて、得意げに胸をそらした。その時、馬場の柵が開いたので、兄は馬場の外へゆっくりと馬を歩かせ始めた。
「そう言えば、梨花は裕仁の馬術を見たことがあるか?」
私が“春風”に進むように合図すると、兄が私に話しかけた。
「ちゃんと見たことは無いわね」
私が兄に答えると、
「近頃、めきめきと腕を上げているらしい。八郎が言っていた」
兄は馬を私に寄せながら教えてくれる。“八郎”とは、兄のご学友さんの1人で、現在東宮侍従を務めている西園寺八郎さんのことだ。
「へぇ、そうなんだ。見てみたいけど、どうしたらいいかしら。まさか、“馬術が見たい”という理由だけで、皇居に呼び出すわけにはいかないし」
「董子どのが東京に戻ってきて、梨花が週末に葉山に行く必要が無くなったら、土曜の昼飯の後、裕仁にここで馬術を披露してもらえばいいだろう」
軽く首を傾げた私に、兄があっさり解決案を提示する。迪宮さまは、毎週土曜日、兄の政務を見学しに皇居に参内する。その時に見せてもらえばいい……兄はこう言いたいらしい。
「いいわね。お祖母さま、4月の10日ぐらいに東京に戻るから、その後ぐらいのタイミングで馬術を披露してくれないか、今度迪宮さまに話してみようか」
「そうだな。では、明後日、裕仁が来た時に……」
そこまで言った兄が、不自然に目を動かした。兄の視線が向けられた方角を見ると、黒いフロックコートを着た男性が、こちらに全速力で走って来るのが視界に入った。彼はつい最近、侍従に任命された人だ。灰色の背広服を着ている兄は、侍従さんの方へと馬を走らせた。
「どうした?」
侍従さんの3mほど前のところで、兄はピタリと馬を止める。私も兄の横に“春風”を止めた時、
「申し上げます!枢密顧問官の松方閣下が、急病で重態に陥られました!」
直立不動の姿勢を取った新人の侍従さんが、大声で言上した。
「?!」
目を見開いた私の隣で、
「詳しい状況は分かるか?!」
と兄が侍従さんに問う。
「はっ、三田のご自宅で突然倒れられ、昏睡状態に陥ったとのこと。脳溢血であろうと医師に診断されたとのことで……」
(松方さん……血圧はそんなに高くなかったし、血糖値も上がってなかったけれど……)
侍従さんの報告を聞きながら、脳溢血……脳出血とも呼ぶその病態の危険因子を、私は記憶の中から引っ張り出す。普段から健康そのものだった松方さんに、脳溢血を起こす要素は無いように思えるけれど、松方さんは今月の23日で満90歳……私の時代の男性の平均寿命を超えている。もちろん、この時代では超高齢者に分類されるだろう。それを考慮に入れれば、どんな病気にかかってもおかしくはない。
(辛いけど、手続きを進めないと……進階や勲章授与のことを考えないといけないし、それから、お見舞いの使者を派遣して……)
これからやらなければならないことを私が無言でリストアップし始めた時、突然、兄が乗っている馬に進むように合図した。そしてそのまま、兄は馬を全速力で走らせた。
「兄上?!」
馬を駆けさせた兄の姿を確認した瞬間、私は即座に“春風”に走るように指示した。そして、兄の馬を必死に追った。まずい。気持ちは分かるけれど、まずい。恐らく、兄の目的は……。
「兄上!」
皇居の敷地を南に向かって走る兄の馬に追いすがりながら、私は叫んだ。
「兄上、止まって!」
「イヤだ!」
兄はチラと私を振り返ると、また前を向いて馬を疾駆させる。
「松方さんの家まで行くつもりなの?!」
「ああ!」
私に大声で答えた兄は、
「松方顧問官は、俺に経済や財政のことを教えてくれた、俺の大事な師の1人!それに、梨花会の一員として、国に尽くした功績は大きい!生きているうちに、今までの礼を言いたい!」
と叫びながら、下乗橋を渡り、旧三の丸の敷地に入る。
「気持ちは分かるけど、落ち着いて!」
私も馬で橋を渡りながら、兄に呼び掛けた。
「自動車を準備させて、それに乗って松方さんの家に行けばいいじゃない!」
「そうしている間に、松方顧問官が事切れたらどうする!」
兄の馬と私の馬は、あっと言う間に桔梗門(内桜田門)を潜り抜ける。この門は、旧三の丸と宮城前広場の境界にある。
(仕方ないわね……)
私は大きく息を吸った。こうなったら、護衛も兼ねて兄に付き従い、松方さんの家まで行くしかない。
「兄上、私も一緒に松方さんの家まで行くから、もう少し、馬をゆっくり走らせて!」
供奉服のジャケットの内ポケットに拳銃が収まっているのを確かめると、私は兄に大きな声でお願いした。すると、振り向いた兄が嬉しそうに微笑み、
「流石は俺の妹、話が分かる!」
と叫ぶ。
「褒めても何も出ないから、馬の速度を落として!一般の人を跳ね飛ばしたらどうするの!」
私は兄に叫び返した。この宮城前広場は、東京見物に来る人たちが必ずと言っていいほど立ち寄る場所だ。現に今も、二重橋の近くには、見物客を乗せてきたタクシーが何台か停まっているし、見物客が連れ立って歩いているのも見えた。
私の願いが通じたようで、兄は馬の速度を落とし、比較的ゆっくりと馬を走らせて宮城前広場を南下する。歩く人々は、馬に乗っている私と兄を物珍しそうに見たけれど、騒いだり、最敬礼したりはしない。何とか、私たちの正体は露見していないようだ。……この幸運がいつまで続くかは分からないけれど。
市電通りにぶつかると、流石に交通量が多くなる。かつては通りを席巻していた馬車や人力車はほとんど姿を消し、今の東京の大通りの主役は自動車だ。その間で、自転車に乗った勤め人や学生たちが、縦横無尽に動いている。そんな中を馬で三田方面へと移動する男女二人連れというのは、とても目立つ。交通整理に出ている警官たちの視線が、私たちに無遠慮に突き刺さった。
「これ……兄上と私のこと、バレてるよねぇ?」
“春風”を南へと走らせながら私が呟くと、
「いや、まだ大丈夫だろう」
隣で馬を走らせる兄は、涼しい顔で私に応じる。
「もしバレていたら、警官がもっと増えるだろうさ」
「確かにそうだけど……」
「とにかく、このまま三田まで行くぞ。そろそろ、宮内省が俺たちを必死で探し始める。それで捕まってしまったら、もう生きている松方顧問官には会えないだろう。急ぐぞ」
兄は私に言うと、馬の速度を少し上げる。けれど、“急ぐ”と言った割には、兄は交差点で警察官が手動で動かす交通整理器――私の時代で言う信号機――の指示にきちんと従い、“止まれ”の表示でちゃんと馬を止める。まぁ、交通事故を起こさないのは大切なことだ。私も兄に倣い、きちんと交通ルールを守って馬を走らせた。
皇居を出て10分ほどで、三田の済生会病院の前に到着した。松方さんの家はこの近くにあるはずだけど、詳しい場所を私は知らない。
「兄上、ダメもとで聞くけれど、松方さんの家の場所は知らないよね?」
「ああ、三田にあること以外は」
兄は私に答えると、前方を指さし、
「あそこに交番があるから、道を聞いてみよう」
と私に提案する。……警察官に私たちのことが知らされていた場合、自殺行為になる可能性があるけれど、それ以外の打開策も思いつかない。私と兄は交番の前で馬を止めた。
「馬上から申し訳ありません。宮中顧問官の松方伯爵のお宅には、ここからどう行けばよろしいでしょうか?」
交番の前に立つ警官に、兄は天皇とは思えないほど丁寧な言葉遣いで問いかける。
「それなら、この次の角を右へ曲がって真っ直ぐ行けば、左手に見えるが……」
そう答えた警官は、兄を訝しげに見上げ、
「松方閣下に何の用だ?」
と兄に問う。この時代、要人の邸宅周辺の警備を、近くにある交番が担うことも多い。もしかしたらこの交番も、松方さんの家の警備を担当しているのかもしれない。
「松方閣下が倒れられたと急報がありまして、見舞いに行くのですよ」
兄は無礼な口をきいた警官に怒ることなく、差し障りの無い範囲で事情を説明し、
「ありがとうございました。では急ぎますので」
馬上で一礼すると馬を走らせる。
「ありがとうございました!」
私も大声で警官にお礼を言って兄に続くと、警官は私の姿をじっと見つめ、
「……な、内府殿下ぁっ?!どうしてここに?!」
次の瞬間、素っ頓狂な声で叫んだ。
「やば……バレたわ」
私が馬上で舌打ちすると、
「ここまで露見しなかったのが奇跡だよ」
兄がそう言って笑った。
「何せ、お前、供奉服のままだからな」
「仕方ないでしょ。兄上がいきなり飛び出したから、着替える暇なんてなかったし」
言い合っていると、馬はすぐに右への曲がり角に差し掛かり、私たちはそれぞれの馬に右折するよう合図した。
「急ぐぞ。宮内省の手の者に捕まる前に、松方顧問官の見舞いをしよう!」
兄の言葉は何かがおかしい気がしたけれど、それを指摘している場合ではない。私は「了解!」と元気よく返事すると、馬の速度を上げた。




