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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第77章 1924(大正9)年秋分~1925(大正10)年春分
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火薬庫は今日も危険です

 1924(大正9)年11月8日土曜日午後3時15分、皇居・表御殿にある牡丹の間。

「ふむ、早速仕掛けてきましたか、ギリシャは」

 月に一度の定例の梨花会は、用意された国内の話題に関する討論が終わり、海外の問題の討議へと移っている。バルカン半島に関する幣原(しではら)外務次官の報告を聞いて顎を撫でた陸奥さんに、

(まさか、前国王が亡くなってすぐに対外戦争を仕掛けるなんて……)

私は心の中だけで反応した。声に出さなかったのは、それをきっかけにされてしまって、陸奥さんから質問を矢のように浴びせられるのを防ぐためだ。

 ところが、

「おや、情など、謀略の前には無力ですよ、梨花さま」

私の右隣に座っている大山さんが、私の顔を覗き込んでこう言った。

「……大山さん、勝手に人の考えを読まないでよ」

「読みたくなくても読めてしまいますよ。何せ、もう30年以上も梨花さまにお仕えしておりますから」

 小声で抗議した私に大山さんが微笑で応じると、

「やはり梨花は、大山大将には敵わないようだなぁ」

いつの間にか私と大山さんに目を向けていた兄がクスっと笑った。

 今から約2か月前の9月4日、ギリシャ国王・ゲオルギオス1世が78歳で崩御した。彼は“史実”では1913年に暗殺されたそうだけれど、この時の流れでは心筋梗塞を発症して亡くなったらしい。兄はもちろん弔電を発し、首都・アテネでしめやかに営まれた葬儀には、駐ギリシャ大使が参列した。……普通なら、話はここで終わる。

 ところが、ギリシャ王国の現在の首相、エレフテリオス・ヴェニゼロスさんはなかなかの野心家で、ギリシャ人の居住する近東地域は、全てギリシャ王国のものになるべきだと常日頃から公言している。そんな彼は、ゲオルギオス1世の葬儀が済むと、オスマン帝国に侵攻するためにすぐに軍隊の動員を始めるべきだと新国王・コンスタンティノス1世に説いた。その結果、コンスタンティノス1世は首相の主張を認めて軍隊を動員し、先月の23日、ギリシャ陸軍はオスマン帝国との国境を越え、北にあるマケドニア地方に攻め込んだのである。

 ギリシャ軍は一気にマケドニア地方を占領できると考えていたようだけれど、そうは問屋が卸さなかった。マケドニア地方に侵入したギリシャ軍は、初戦こそオスマン帝国の国境警備隊に勝利したけれど、急を聞いて駆け付けたオスマン帝国の師団に敗北し、国境付近まで押し戻された。オスマン帝国は国際連盟に状況を報告し、調停を依頼した。ギリシャは国際連盟からの停戦勧告を無視しようとしたけれど、ギリシャに強い影響力を持つイギリスが、停戦勧告を受け入れるようギリシャに圧力をかけた。また、コンスタンティノス1世の妻の兄・ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世もギリシャの行動に不快感を示し、国際連盟の停戦勧告に従うようコンスタンティノス1世に強く求めたため、ギリシャはジュネーブの国際連盟で、オスマン帝国との交渉を始めたのだった。

「私の記憶では、ギリシャの前国王陛下も領土拡大に熱心だったと思うのですが、今の幣原君の報告ですと、真実はその逆だったように聞こえますね。まるで、領土拡大の動きを抑えていた前国王陛下の崩御を待って、ヴェニゼロス首相が侵略戦争を仕掛けたような……」

 私の義父・有栖川宮(ありすがわのみや)威仁(たけひと)親王殿下が僅かに顔をしかめて指摘すると、

「はい、バルセロナ事件が発生して世界大戦の危機が高まった頃には、ゲオルギオス1世もヴェニゼロス首相と同じく、ギリシャ人が居住する地域に領土を拡大すべし、という考えを持っていました」

幣原さんが再び立ち上がって説明を始めた。

「しかし、国際連盟の成立から始まった軍縮の流れもあり、ここ数年、イギリスはギリシャの領土拡大を制止していました。ギリシャ軍はほぼイギリスの支配下に置かれています。イギリスの意向に逆らえば、ギリシャの軍も財政も滅茶苦茶になることをゲオルギオス1世はよく分かっていたので、ゲオルギオス1世はヴェニゼロス首相の拡大政策を抑えていました」

「だが、ゲオルギオス1世は亡くなられた。邪魔者がいなくなったヴェニゼロス首相は、嬉々として領土拡大に乗り出した……」

 前航空本部長の児玉さんは幣原さんの後を受けてこう言うと、

「ゲオルギオス1世、暗殺された可能性はあるのですかな?」

大山さんの方を向いて、物騒な質問を投げた。

「その可能性もあります」

 大山さんは冷静な口調で答える。「心臓発作が起こってから崩御までは20分余りだったとのこと。崩御なさった詳しい状況が分かってから梨花さまにも伺いましたが、“正直、何とも言えない”というお答えでした」

「私の時代並みに医療機器が発達していれば、ゲオルギオス1世の身体に何が起こったか、多少は分かったと思います」

 私はため息をついて言った。「まぁ、ご遺体を解剖したら、手掛かりがつかめたかもしれませんけれど、現実的に考えて難しいですよね。それに、もし本当に首相に暗殺されたのなら、首相が解剖に猛反対するでしょうし」

「梨花叔母さま、その話はいったん横に置いておきましょう。このまま進むとお父様(おもうさま)のおっしゃるような“まにあ”な話になりそうですし」

 私の向かいの席に座った迪宮(みちのみや)さまは苦笑しながら私をたしなめると、

「新国王のコンスタンティノス1世がヴェニゼロス首相を止めないのは、首相と考えを同じくしているからか、統治経験が無いために首相に操られているからだと思いますが、いずれにしろ、コンスタンティノス1世もヴェニゼロス首相も、世界情勢を読めなかったということになりますね」

堂々とした態度でこんな感想を述べた。すると、

「おっしゃる通りです。イギリスもドイツも、ギリシャによるオスマン帝国侵攻が拡大するのを望まなかった。両国ともに、戦争を大きくして続けるような財力が無いからです。そして、現在オスマン帝国から安定した石油の供給を受けているドイツは、オスマン帝国と再び友好な関係を築いています。ギリシャのオスマン帝国への侵攻は、ドイツへの石油供給を妨害する行為とドイツには受け取られたのでしょう」

前内閣総理大臣の西園寺さんが、深く頷きながら言う。更には、西園寺さんの隣に座る陸奥さんが、

「僕は、コンスタンティノス1世は首相に操られていると思いますよ」

とニコニコしながら言い始めた。

皇帝(カイザー)と友好的なオスマン帝国に戦を仕掛ければ、皇帝(カイザー)が抗議してくることなど分かり切っていることなのに、敢えてオスマン帝国に侵攻した……おそらく、コンスタンティノス1世は、ヴェニゼロス首相に、“王妃さまは皇帝(カイザー)の妹君ですから、陛下から皇帝(カイザー)にご説明があれば、皇帝(カイザー)もきっとオスマン帝国への侵攻を許すでしょう”などと吹き込まれたのではないですかね。コンスタンティノス1世は、王太子時代は軍の育成に力を入れていて、政務には即位するまで全く触れていなかったということですから、首相にとっては容易に操れる傀儡なのでしょう」

 陸奥さんがやや得意げに自説を披露すると、

「今回の件……首相と国王、どちらが主導したかは定かではありませんが、己の欲望の実現に夢中になり、冷静に状況を把握することが疎かになっていたことは確かです」

今度は我が臣下が口を開いた。

「ギリシャはセルビアとモンテネグロとブルガリアに、一緒にオスマン帝国に出兵するよう働きかけておりました。しかしセルビアは、関係の深いオーストリアがオスマン帝国への出兵を良しとしなかったため、出兵を断念しています。モンテネグロは、周辺国であるオーストリアとセルビアが動かないのを見て出兵しておりません。そしてブルガリアは……」

「他国に兵を出すどころの話ではないだろうな」

 大山さんの言葉を奪った兄は顔をしかめた。「俺は、ブルガリアで遠からず内戦が起こるのではないかと思っていたのだ。それがまさか、ギリシャでこんな騒ぎが起こるとは」

「それは私も思ったよ」

 私は兄の言葉にため息をつきながら応じた。「ブルガリア、与野党の対立がひどすぎて、議会が運営出来てないって言うじゃない。完全に、与党を支援しているドイツと、野党を支援しているイギリスの代理戦争の場になっちゃって……」

「野党を援助しているイギリスが、MI6(エムアイシックス)の職員を送り込み、ブルガリアの国民を扇動しているという話も、院の明石総裁から聞きました。ブルガリアは今後どうなってしまうのか……」

 迪宮さまもこう言って眉をひそめると、

「そうご心配なさらなくても、いずれ机上演習で、ブルガリアの話題はたっぷり提供いたしますよ」

陸奥さんが迪宮さまに視線を投げ、ニヤリと笑った。

「もちろん、陛下と内府殿下もです。明石君か秋山君か広瀬君も呼んで、実りある演習に致しましょう」

「その……陸奥顧問官、関東大震災は過ぎた訳だし、また机上演習が始まったのは、わたしには理解し難いことなのだが……」

 関東大震災後に廃止されたはずの机上演習は、今年の9月、何の説明もなく再開されてしまった。微笑む陸奥さんに兄がそのことを指摘すると、陸奥さんの両眼がスッと細くなり、

「これは異なことを仰せられる。陛下は僕たちの無上の楽しみを奪われるおつもりなのですか?」

と、逆に厳しい口調で兄に問うた。

「そうじゃそうじゃ!陛下と皇太子殿下と内府殿下をお鍛え申し上げ、その後、陪食を仰せつかり、そして内府殿下とお茶をさせていただくことこそが、わしの老後の楽しみですのに!」

「……伊藤さんは、老後のことを心配しなきゃいけないほど衰えてはないでしょう」

 陸奥さんの後に続いて力説する伊藤さんを、私は呆れながら睨みつけた。

 すると、

「ふむ、俊輔(しゅんすけ)に気力の衰えが見られる、と……ならば、内府殿下とお茶をご一緒しながら、俊輔の気力をいかにして蘇らせるか考えなければならん」

枢密顧問官の山縣さんが、両腕を組んで深く頷きながらこう言った。

 更に、

「山縣さん、もちろんその茶会には、(おい)も呼んでいただけるのでしょうなぁ?」

伊藤さんの隣に座る黒田さんが、山縣さんに凄みのある声で迫り、

(おい)が出席できないということは、まさかないでしょうなぁ……」

西郷さんものんびりした声で山縣さんに向かって言った。その隣に座る松方さんが「うむ」と重々しく首を縦に振り、

「僕も出席させていただきたいものです」

「私も」

(おい)も是非ご相伴を……」

「待て権兵衛!総理の俺を差し置いて、内府殿下の茶会に参加するとはどういうことだ!」

西園寺さん、児玉さん、国軍大臣の山本さん、そして内閣総理大臣の桂さんが次々に声を上げる。

「わたしも、もちろん茶会に参加致します!」

「我輩も、茶会に出席させていただきますぞ!」

 野党・立憲自由党の総裁である原さんと、内務大臣の後藤さんが吠え、話はすっかりこんがらがってしまった。

「卿らが梨花を好いてくれているのは分かったから、静かにしてくれないか……」

 余りの騒がしさにたまりかねた兄が、ため息をつきながらこう言うと、牡丹の間はやっと静かになった。

「その……つまり……、机上演習を取りやめるつもりはないということか?」

 兄が左の手のひらを額に当て、うつむいて一同に尋ねると、

「その通りでございます。人の能力は、常に磨き続けなければ衰えてしまいますから」

大山さんは微笑んで答える。私と兄と迪宮さまは、揃って両肩を落とした。

「はぁ……話は戻るけれど、本当にややこしいわね、バルカン半島は。セルビアに介入したり、国際連盟を作ったり、色々やっているのに、全然不穏な感じがなくならないわ……」

 私が顔をしかめながら愚痴ると、

「恐れながら、バルカン半島の混乱はまだ続くと思われます」

 参謀本部長の斎藤さんが、不吉極まりない予測を口にした。

「ブルガリアもさることながら、ギリシャも首相の交代、いや、下手をすると王政の廃止が起こるかもしれません。“史実”では、いわゆる第1次世界大戦の後、ギリシャは共和政になりました。しかし、“史実”で俺が殺される直前、ギリシャでは王政が復古していますから……」

「確か“史実”では、ギリシャは真珠湾攻撃の数か月前に、イタリアとドイツとブルガリアに侵攻され、全土が占領されていたように思うのですが……」

 斎藤さんの予測の後に飛び出した山本五十六航空少佐の言葉に、私は開いた口が塞がらなかった。第1次世界大戦が休戦したのは1918年、真珠湾攻撃が1941年……僅か20年余りの間に、ギリシャの政治体制は目まぐるしく変わったことになる。当のギリシャ人たちがどう感じているかは分からないけれど、私にとっては無茶苦茶な話だ。

「ギリシャにブルガリア……参謀本部長の言う通り、バルカン半島の混乱は今しばらく続きそうだな……」

 兄の憂いに満ちた言葉で、“世界の火薬庫”と呼ばれるバルカン半島についての話題は締めくくられ、今月の梨花会は終了となった。

※実際にはこの時期、マケドニアはギリシャの領土になっているのですが、拙作ではその要因になったバルカン戦争が発生していないので、オスマン帝国領という設定です。ご了承ください。


※あと、秋山真之さんは死んでいないという設定で話を進めます。実際の死因の虫垂炎……この世界線なら章子さんが命じればおとなしく手術を受けるでしょうし、抗生物質もあるし、まぁ……。

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[気になる点] ゲオルギオス1世もコンスタンティノス1世も作品のこの時点では1世って付かないけど(2世が登場してないから)、後世の立場からの読み物としては付けておかないと誰が誰やら判らなくなりやすいか…
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