その医学者、素行不良につき(2)
1924(大正9)年10月2日木曜日午前10時55分、東京市麹町区富士見町にある医科学研究所の所長室。
「で、お望み通り、下僕は研究室の椅子に縛り付けておいたけど……一体何の用なの、章子?」
そう尋ねながら私に鋭い視線を投げたのは、野口英世さんのご主人様……ではない、共同研究者であるエリーゼ・シュナイダーことヴェーラ・フィグネルだ。
「あ、あの、シュナイダー先生……」
「どうか、ここは穏便に……」
相変わらず物騒なその言葉遣いに、医科学研究所所長の志賀潔先生と副所長の秦佐八郎先生が、横から恐る恐る注意をした。
「あー、大丈夫ですよ、志賀先生も秦先生も。エリーゼは私の昔馴染みですから、全然気にしてないです」
私はいつものように志賀先生と秦先生をなだめると、
「それより、さっさと本題に入りましょう。どうやったら野口さんをノーベル賞の授賞式に出さないで済むか」
ヴェーラと志賀先生と秦先生、そして私についてきた大山さんの顔を順番に見ながら言った。
「出さないで済む……内府殿下、つまりそれは、授賞式に野口君を出席させないということですか?それは、いくら何でもかわいそうなのでは……」
そう言って顔を歪めた志賀先生に、
「いや、内府殿下のご懸念はよく分かります。実は私も、野口君は洋行させても大丈夫なのか、非常に心配しておりまして……」
秦先生が隣から意見した。
「だから私が野口君について行って、一緒にスウェーデンまで往復しようと思うのです。いつも彼が出張する時に付き添っている宮内省の職員と私、それとシュナイダー先生がいれば、野口君もそう悪さはしないと思うのです」
志賀先生が秦先生に反論した瞬間、
「わたしはスウェーデンになんか行かないわよ」
ヴェーラが面倒くさそうに志賀先生に告げた。
「そんな、シュナイダー先生……。もしスウェーデンにだけ行くのがお嫌でしたら、我々、ドイツでもイギリスでもアメリカでも、先生の望まれる場所にどこにでもついて行きます。もちろん、スイスのご実家に帰られてもいいのです。往復の旅費は全て、医科研で負担しますし……」
ヴェーラに向かって両手を合わせて懇願する志賀先生に、
「畳と緑茶とあんこが無い生活なんて、わたし、耐えられないわよ!」
彼女は怖い顔をして叫んだ。
(あー……確かに、その理由もあるか……)
「それに、豆腐も納豆も油揚げも食べられないし、お味噌汁だって飲めないし、何よりお米が食べられないじゃない!わたしは嫌よ!日本を出るなんて、まっぴらごめんだわ!」
ぼんやりとヴェーラを見つめる私の視線には気付かず、ヴェーラは真剣な表情で志賀先生に力説している。日本に来て30年以上経ち、ヴェーラはすっかり日本のものに馴染んでいた……いや、馴染み過ぎていた。私服は全て和服だし、たまに私が医科研に行くと、お土産にクッキーやチョコレートではなく、お饅頭やおせんべいを要求するほどである。
「それにね、わたし、スイスにいる親戚はみんな死んだのよ。両親も亡くなったし……」
更につまらなさそうに付け加えたヴェーラに、
「ならば、墓参りだけでもするべきでしょう!それは子孫の務めですよ!私もお付き合いしますから!」
志賀先生は食い下がって叫ぶ。
「って言っても、わたし、両親とは仲が悪かったし……」
ヴェーラの言葉から、途端に勢いが無くなる。これ以上、彼女が“エリーゼ・シュナイダー”としての偽の自分語りを強要されると、化けの皮が剥がれてしまうかもしれない。そう感じた私は、
「とりあえず、エリーゼを野口さんのお目付け役にしてスウェーデンに行かせる作戦は無し、ってことですね」
ヴェーラと志賀先生の間に割って入って、無理矢理話をまとめた。
「しかし、困りましたね。野口君の普段の様子を見ていると、彼が志賀先生と宮内省の職員だけで御せるとは到底思えません」
私の言葉を聞いた志賀先生は、そう言って顔をしかめる。
「内府殿下、宮内省の職員をあと4、5人付けていただく訳にはいかないでしょうか……?」
私にお伺いを立てた志賀先生に、
「残念ながら難しいですな。宮内省の人員にも予算にも限りがありますから」
私より先に大山さんが回答する。「そうですよね……」と志賀先生が力無く相槌を打ったその時、所長室のドアの向こうで大きな足音がした。「あ、君!」「入るんじゃない!内府殿下がいらっしゃるんだぞ!」という、私と大山さんについてきた宮内省の職員の声も聞こえる。その声を圧するように、
「何で入ったらいけないんですか?!僕はここで働いているんですよ!」
という、聞きたくなかった叫びが聞こえて、私は身体を強張らせた。そんな、馬鹿な。ヴェーラが椅子に縛り付けたのに、その拘束を解いてしまったのだろうか。
「内府殿下、お下がりを」
厳しい表情になった大山さんが私の前に立った瞬間、ドアノブがガチャリと回ってドアが開く。
「宮さまぁー!お会いしたかったですー!」
そう叫びながらドタドタと所長室に入ってきたのは、本年のノーベル生理学・医学賞の受賞者、野口英世さんである。よく見ると、彼の両手首には、赤い筋がうっすらと何本かついていた。どうやら、本当にヴェーラの拘束を自力で解いてしまったらしい。
「ご主人様、どうして宮さまに会わせてくださらないんですかぁ?!どうしてもお会いしたいから、僕、頑張って縄を解きましたよぉ!」
謎の抗議をする野口さんを冷たい目で見ながら、
「ねぇ、章子」
ヴェーラは動じる様子を全く見せずに私に話しかけた。
「要するに、あの下僕が日本から出られない状態になれば、全てが解決するんでしょ?」
「へ?……まぁ、そうなれば、確かに解決はするけれど……」
物事はそう簡単には進まないわよ、と私がヴェーラに言い返そうとした刹那、ヴェーラが野口さんに向かって歩き出す。そして、
「うぼわぁ?!」
次の瞬間、ヴェーラの正拳突きが野口さんの上腹部に綺麗に決まり、野口さんは文字通り吹っ飛ばされた。
「ちょっ……」
私が反応できずにいる間に、ヴェーラは更に2撃目、3撃目と野口さんにパンチを食らわせる。その攻撃速度は次第に上がり、野口さんの口から汚らしいうめき声が発せられる間隔がだんだん短くなった。
と、
「志賀先生、秦先生。内府殿下と一緒に離れていてください」
大山さんがこう言いながら、一歩前へと踏み出す。彼の顔には、不気味な笑みが貼り付いていた。
「あ、あの、大山さん?」
嫌な予感がする。私が慌てて止めようとした瞬間、大山さんの蹴りが野口さんの腹部に炸裂した。
「ちょ、ちょっと、流石に2人がかりはまずいって……!」
私の言葉を無視し、ヴェーラと大山さんによる野口さんへの暴行は続く。形容し難いうめき声を上げる野口さんの身体は、何度も所長室の壁にぶつかった。天井にも野口さんの身体が叩きつけられたような気がしたけれど……私の気のせいだと信じたい。
そして、
「まぁ、このぐらいでいいかしら」
「ですな」
ヴェーラと大山さんが両手を払いながら野口さんから離れた時、床に不自然な姿勢で横たわる野口さんの身体は動いていなかった。
「あなたたち、やり過ぎよ……」
私は左の手のひらを額に当てるとため息をついた。「野口さんを殺してどうするの。確かに、日本の外に出さなくてもよくなったけれど、ノーベル賞って、死んだ人には与えられないんじゃなかったっけ?」
すると、
「何言ってるの。死んでないわよ。ちょっと本気は出したけれど」
ヴェーラがつまらなさそうに私に言った。
「ええ。殺すつもりなら、もっと本気を出しますよ」
途中から野口さんへの暴行に加わっていた大山さんも、涼しい顔でこう言ってのける。
「ていうか、何で大山さんが野口さんを暴行してるのよ……」
私が呆れながら我が臣下に問いただすと、
「この機会に、今まで野口が内府殿下に働いた数々の無礼に対する報復をしておこうと思いまして。それに、陛下も、野口を殴らないと気が済まないとおっしゃっておられたので、僭越ながら、陛下の代わりに野口を殴らせていただきました」
彼は妙な理屈をこねながら私に答えた。
「あのね、野口さんはドMな変態野郎だけど、一応、ノーベル賞を取るだけの能力はあるのだから、生かしておいて、日本のために使い倒さないと……」
「だから、殺してないって言ってるでしょ」
大山さんに抗議しようとした私に、ヴェーラが苛立ったように言う。彼女が指さす先を見ると、倒れていた野口さんが「いててて……」と呟きながら上体を起こそうとしていた。
(そ、そんな……あれだけの激しい暴行を受けて、まだ生きてるの?!)
私が目を見開いた時、上体を起こし立とうとした野口さんが、顔を歪めて床に倒れる。彼は諦めずに再び身体を起こそうとするけれど、足に力を入れようとした瞬間にまた倒れてしまった。
「もしや、足の骨が折れたのでは?」
秦先生の言葉に、ヴェーラが「多分ね」と面倒くさそうに答えた。
「い、いや、シュナイダー先生、それはまずいでしょう!足の骨を折っているのなら、授賞式までに完治しないでしょうから……」
志賀先生が顔を真っ赤にしてヴェーラに詰め寄ると、
「なら、いいんじゃないの?下僕は日本で療養させて、志賀先生が下僕の代わりにノーベル賞の授賞式に出ればいいのよ」
彼女は顔をしかめて志賀先生に回答する。
「「!」」
互いに顔を見合わせて頷いた志賀先生と秦先生を見ながら、
「確かにそうだけどさぁ……」
私はこう言ってため息をついた。流石に、暴行による怪我が原因での療養となると、外聞がよろしくないのではないだろうか。そうツッコミを入れようとした私を、ヴェーラが、そしてなぜか大山さんがギロリと睨んだので、私は開きかけた口を閉じた。
「階段から落ちて怪我をした、ということにでもしておけば、説明もしやすいでしょう」
「そうね。下僕の療養中は、わたしが付きっ切りで看病して、絶対に逃げられないようにしておくわ」
私を黙らせたのを確認すると、大山さんとヴェーラは事務的な口調で今後の段取りを決める。「へ?!ご主人様が僕の看病を?!」と嬉しそうに叫んだ野口さんの頭を、振り向いたヴェーラが無言で蹴った。
(ていうか、これ、冷静に考えたら犯罪よね……。ええと、暴行罪?傷害罪?)
我に返った私は、心を落ち着けて考えてみたけれど、
(……ま、いっか。野口さんだし)
我が臣下の刃のような視線をまともに受けて、考えることを放棄した。




