その医学者、素行不良につき(1)
1924(大正9)年10月2日木曜日午前8時27分、皇居。
(ふぁ……眠いなぁ……)
出勤したばかりの私は、あくびしたいのを我慢しながら内大臣室へ向かっていた。昨日は天長節祝日で、世間では休日だったのだけれど、兄の誕生日を祝う諸行事に内大臣として出席した私には、休日を楽しむ暇はなかった。もっとも、昨日は雨で天長節観兵式が中止になったから、最初に考えていたよりは疲れなかったけれど、やはり気の抜けない場面が続いたのは事実だ。まだ眠気が残る自分の身体を、私は内大臣室へのろのろと運んでいた。
(あーあ、去年みたいに、天長節の観兵式も宴会もなければよかったのに……)
歩きながらこんな考えが頭をもたげて、私は慌てて首を左右に大きく振った。去年、天長節の観兵式も宴会も無かったのは、1か月前の9月1日に関東大震災が起こったからだ。まだ東京市内が落ち着いていない状況で天長節の祝賀行事を行うのを兄が良しとしなかったため、去年の10月1日は祝日にはなったけれど、兄の誕生日を祝う行事は全て中止となった。
(天長節の行事が無ければいいなんて思ったらいけないわ。行事ができるということは、日本が災難に見舞われていないということでもあるんだから)
そう思い直し、私は内大臣室に向かって再び歩き出す。ほどなくして目的地に到着し、机に荷物を置くと、私は大きく伸びをした。
「さてと、今日も1日、お仕事頑張るぞ!」
明るい声を作って気合を入れた瞬間、内大臣室のドアが外から叩かれた。気配から考えると、大山さんが叩いているのだと思うけれど、ノックの仕方が少々乱暴だ。何かあったのかな、と身構えながら「どうぞ」と応じると、ドアが開いて、大山さんが姿を現した。
「梨花さま、一大事です」
大山さんが朝のあいさつもせず、強張った顔でこう言ったので、私の緊張は高まった。何かは分からないけれど、大山さんが日本にとって悪い知らせを持ってきたのは確かだろう。
「大山さん、何があったの?」
私は心を落ち着けてから、我が臣下の方に身体を向けた。
(梨花会の誰かが倒れた?それとも、ブルガリアで内戦が起こったか、アメリカ大統領選でトラブルがあったか……)
大山さんの次の発言を必死に予測していると、彼は急に戸惑ったような表情になり、
「あ、いえ、梨花さまが考えていらっしゃるような、政治や国際情勢に関わる話ではありませんが……」
と私に言った。
「何だ、驚かせないでよ……」
私は胸をなで下ろした。「身構えちゃったじゃない。緊急の梨花会を開かないといけない状況なのかと思ったわよ。もう……大げさなことを言うのはやめてちょうだい」
「しかし、これは重大なことであるのは確かです」
けれど、大山さんは謝罪することなく、私にこう応じた。「場合によっては、日本という国の評判が急落してしまうやもしれません」
「もう、何よ、それは……」
私は大きなため息をついた。「もったいぶらずに教えてちょうだい。一体何があったの?」
「はい、昨夜、医科研から連絡がございまして……」
大山さんは前置きすると、声を潜め、
「野口英世が、本年のノーベル生理学・医学賞を受賞したとのことでございます」
容易ならざることを私に告げた。
1924(大正9)年10月2日木曜日午前10時10分、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。
「うーん……」
椅子に座って腕を組んでいる兄の前には、私と大山さん、そして宮内大臣の牧野さんがいる。医科学研究所に勤務している医学者・野口英世さんがノーベル生理学・医学賞を受賞したことを受けて急遽行われることになった話し合いに集まった面々の顔は、一様に暗かった。
「まさか、こんなことになるなんて……」
野口さんがこの時の流れでなした学術的な功績を説明した私がため息をつくと、
「しかし梨花さま、こうなることは予見できたのではないでしょうか?」
大山さんが冷たい目で私を見つめながら言った。
「そう言われると、反論できないのよねぇ……」
私は両肩を落とした。「蛇毒血清の研究の完成、百日咳菌の発見とそのワクチンの開発、インフルエンザに関する一連の研究とそのワクチンの開発……野口さん、“史実”以上に業績を挙げているのよね。おまけに、今年の春に完成した電子顕微鏡を使って、インフルエンザウイルスの写真を撮ることに成功したから、それがノーベル賞受賞の後押しになったのかな、と思うのだけれど……」
「内府殿下の知識と援助により、我が国で医学的な発見が次々となされているという事実も大きいでしょう」
牧野さんの声はいつも通り穏やかだったけれど、顔色は全く冴えなかった。「北里博士、緒方博士、森博士、荒木博士、三浦博士、高峰博士、近藤博士……ノーベル生理学・医学賞の受賞者の4分の1以上は日本人です。それならば、日本から発表された医学研究は、“史実”の同時期のそれよりも、世界の研究者の耳目を集めることになります」
「まぁ、それは分かったが……」
兄はそう言うと、顔をしかめて一同を見た。
「これからのことを考えなければならない。野口を男爵にするかどうか、をな」
1901(明治34)年に、第1回のノーベル生理学・医学賞を北里柴三郎先生が、そして第1回のノーベル物理学賞を村岡範為馳先生と島津梅次郎さんが受賞して以来、日本には、“ノーベル賞受賞者は男爵に列する”という不文律がある。ノーベル賞を受賞した直後にドイツに帰化した森先生を除き、歴代の日本人ノーベル賞受賞者たちは、その不文律に従って男爵に列せられていた。
けれど、
「あのセクハラドM野郎を、男爵にしていいの……?」
私の質問に、
「絶対に嫌だ。皇族だと知っていても梨花に抱きつこうとする無礼者なのだぞ?」
兄は怖い顔をしてキッパリと答える。
(ですよねー……)
私が深く頷くと、
「野口は医科研に入る前から、素行がよろしくありませんでした」
大山さんが冷静な口調で言った。
「医術開業試験を受験するために借りた金を、遊興で全て使い果たしたという事件もありました。金銭管理が全くできないので、現在、彼の家賃や昼食代は、医科研が給料から天引きして支払い、残りの給料は、彼の助手をしているヴェーラ・フィグネルに預けられています」
「お金を将来のために残しておくとか、貯金するっていう概念が全然ないのよねぇ、野口さんは。お金を手にしたら、すぐに花街で全部使っちゃうし。ヴェーラが野口さんを下僕……じゃない、研究の相方にしてから、よろしくない素行が一切なくなったのはよかったけれど」
大山さんの言葉に私が補足をすると、
「なるほど。つまり、華族に求められる、国民の模範になるような振る舞いは、全くできないだろう、と……」
牧野さんが暗い表情で私に確認する。
「そういうことですね。ただ、ノーベル賞受賞者を華族に列するという慣例が崩れてしまうと、研究者たちのモチベーションが下がる可能性もあります。それをどう解決するかを考えないといけません」
私が牧野さんに答え、ため息をつきながら懸念を口にすると、
「そこは何とかなります」
我が臣下が力強く私に言った。
「野口は爵位をもらうと、そちらの関係の交際に時間を取られて研究に費やす時間が無くなるのを嫌い、爵位はいらないと宮内省に申し出た。宮内省はそれを受け、野口に爵位を授けない代わりに、野口の要請に応じて医科研に50万円の研究費を寄付した……こんな筋書きはいかがでしょうか」
「……野口さんが持ち上げられ過ぎるのは気に食わないけど、それで行くしかないわね」
私は大山さんに答えるとため息をついた。「医科研の研究費が増えるのは、全然悪いことじゃないし。そうなると、あとは野口さんをどうやって授賞式に出席させないようにするかだけど……」
「なぜそんなことをする?流石に授賞式は出席させても……」
そう言いながら首を傾げた兄に、
「兄上、考えが甘いわよ。もし野口さんを授賞式に出席させたら、日本の恥を輸出することになるから」
私は真面目な顔で忠告した。
「野口さんが出張しないといけない時は、中央情報院の職員が医科研の職員に化けてついて行って、お金の無駄遣いをさせないようにしていたの。あの人、放っておくと、すぐに花街に行って借金をたんまり作ってくるのよ。もし船に乗って外国に行かせたら、船で一緒になった女性客やスウェーデンで出会った女性にセクハラし放題の上に、借金も大量に作るわよ」
「梨花さまのおっしゃる通りです。まぁ、ヴェーラをついて行かせれば何とかなりますが、ヴェーラはロシアの官憲から追われる身ですから……」
「なるほど。それで、国外に出すわけにはいかない、ということですか」
私と大山さんの言葉に、牧野さんが軽く顔をしかめた時、廊下に面した障子の向こうに影が動いて、
「内府殿下、よろしいでしょうか」
という、内大臣秘書官の平塚さんの声がした。
「はい、何ですか?」
私が返答すると、
「医科学研究所からお電話がありまして、野口博士が内府殿下にノーベル賞受賞のことを報告申し上げたいが、ご都合がよろしい日時はいつでしょうか、と問い合わせて参りました」
平塚さんの口から、非常によろしくない報告がもたらされた。
「……これは、猶予がありませんね」
「ええ、野口を陛下に近づけてはなりません。血の雨が降るかもしれませんし」
渋い顔を作った牧野さんに、大山さんがややおどけた調子で返すと、
「確かに、過去に梨花にやらかしたセクハラのことを考えると、野口を1発殴らなければ気が済まないなぁ……」
兄が真面目な表情で、指をバキバキ鳴らしながらこう言った。
「ああ、もう……」
私は右手で頭を掻きむしりながら立ち上がった。「平塚さん、今から医科研に行くから、そちらから報告には来なくていい、と伝えてください」
「へ?内府殿下?」
「あのセクハラドM野郎を、皇居に入れる訳にはいかないでしょう!」
私は叫びながら障子を開けると、きょとんとしている平塚さんの横を通り抜けながら御学問所を後にした。




