追悼式
※誤字を修正しました。(2025年1月13日)
1924(大正9)年9月1日月曜日午前11時25分、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。
月曜日の午前の政務の時間が終わったこの時間は、普段なら兄と侍従武官長の鈴木貫太郎海兵中将が、漢籍談議に花を咲かせている真っ最中だ。しかし今日だけは、そのマニアックなお喋りも早々に切り上げられ、表御座所には鈴木さんの他、私と大山さん、そして侍従長の奥保鞏さんが顔を揃えていた。
「少し明るくなった気がするが……日が差して来たのかな?」
執務机の前に座った兄が、廊下に面した障子にチラリと目を向けるとこう尋ねた。
「うん、今ここに来た時、青空が見えたわ。朝は曇っていたけれど」
私が兄に答えると、
「そうか、暑くなってしまいそうだな」
兄は少し心配そうな口調で私に応じた。
「参列者の中に、熱中症になる者が出なければよいが、大丈夫だろうか……」
「参列者の席には全て天幕が張ってありますし、水と茶を自由に飲めるようにしてありますから、心配はないでしょう。医師と看護師も会場に待機しているということですし」
兄の呟くような言葉に、大山さんが穏やかに返す。これは昨日、内大臣秘書官の松方金次郎君が、会場の青山練兵場に行って確かめてきたことだ。
「そうか。ならば、安心かな」
兄が大山さんに微笑みを向けた時、侍従の甘露寺受長さんが障子を開けて御学問所に入り、
「陛下、出立のご刻限でございます」
と兄に告げた。頷いた兄は椅子から立ち上がり、甘露寺さんに従って御学問所を出る。私たちも兄に続いて廊下に出て、御車寄へと黙って歩いた。
今日で、関東大震災の発生からちょうど1年となる。“9月1日は、関東大震災の死者を弔う日にしたい”という兄の意を受け、今日、政府主催の関東大震災死没者追悼式が、青山練兵場で行われることになった。それに出席するため、兄は御車寄から節子さまと一緒に自動車に乗り込み、皇居を後にする。もちろんこれは公式の行幸啓なので、兄についてきた私も後続の車に乗り込み、青山練兵場へと向かった。
私たちの車列は皇居を出ると、桜田濠のそばを西へ進む。関東大震災直後の火災にも遭うことなく、倒壊家屋も少なかったこの辺りの街並みは、震災前とあまり変わらない。けれど、深川区や浅草区など、火災の被害が大きかった地区には、焼け跡に急ごしらえのバラックが建ち並んでいて、まだまだ元通りになったとは言えない。私たちの車列は、関東大震災の傷跡が未だに残る東京の街の間を通り抜け、青山練兵場へと進んで行った。
1924(大正9)年9月1日月曜日午前11時50分、青山練兵場。
追悼式の会場に到着した兄と節子さまを、天幕の下の客席にいた人々は最敬礼で出迎えた。その中には、内閣総理大臣の桂さんや閣僚たち、枢密顧問官、国軍の将官など、大勢の高官が含まれている。それとは別に、昨年の関東大震災で命を落としてしまった人々の遺族たちが、天幕の下にずらりと並んでいた。
軍楽隊により国歌が演奏された後、客席の中から桂さんが進み出て、式辞を読み始めた。
「天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、ここに、関東大震災死没者追悼式を執り行います」
式辞を読み上げる桂さんの声は、かなり緊張していた。無理もない。維新以来、戦争や災害などによる死者に対し、政府が主催して追悼式を行うのはこれが初めてのことだ。しかも、それに兄と節子さまが出席するのは、日本という国としての慣例をよく知る人たちにとっては、驚天動地の出来事と言ってもいいかもしれない。
けれど、兄と節子さまにとっては、これは驚くべきことでも何でもない。お父様が生きていた頃から、兄と節子さまは、戊辰戦争以来、この国で発生した戦いによる死者たちの冥福を、敵味方の区別なく祈っていた。そして、戦争で心身を傷つけられた人々に寄り添い、その傷の回復を祈ってきたのだ。その態度は、関東大震災で亡くなった人々や、傷ついた人々に対しても変わらない。私はそう感じたから、兄と節子さまが追悼式に出席すると知って動揺する宮内省や他省の職員たちを、大山さんや牧野さんと一緒に説き伏せて回った。
「関東大震災では、3598名の尊い命が失われました。倒壊した家屋の下敷きになった方、火に巻かれて亡くなった方、津波や土砂崩れに巻き込まれた方、全ての犠牲者の方々の冥福をお祈り申し上げます」
桂さんの式辞は更に続く。東京の下町地域や横浜市で見かけた倒壊した家屋、浅草区や本所区の焼け野原、横浜市の焼け野原に立っていた石油タンクの残骸、片浦村の根府川集落を襲った大量の土砂……。震災後の視察で目にした光景が次々と脳裏に浮かび、私は瞑目して犠牲者たちの冥福を祈った。
「震災からの復興は、端緒についたばかりであります」
静まり返っている会場に、桂さんの声が響く。
端緒についたばかり……本当にその通りだ。事前の対策によって、“史実”より被害は軽減されたけれど、この時の流れでの関東大震災の被害額はおよそ20億円と見積もられている。復興の特別予算に充てるため、約3億8000万円の国債が発行された。幸い、売れ行きも好調だということだけれど、償還のことも考えなければならないから、今後の国家財政の行く末を注視しなければならない。
特別予算は、インフラの復旧、そして公共の建築物の再建や区画整理事業などに使われる。それらの事業を実施するためには、まず崩れたり焼けたりした建物から出た瓦礫を片付けなければならなかったけれど、そちらは丹沢地震が発生した頃までには終わった。ちなみに、東京市で発生した瓦礫は、本所区や深川区、京橋区の低地の埋め立てに使われた。
関東大震災の後、東京市からは約60万人が、東京市の郊外や関西・東北地方などに避難した。震災発生前の東京市の人口が約200万人だから、その3割ほどが東京市を離れたことになる。震災から1年が経った今は、避難した人の殆どは東京市に戻っているけれど、彼らを迎える東京市はまだ満足な状態に戻っているとは言えない。一応。交通機関や水道、ガス、電気は復旧したけれど、家屋が全て元通りに建て直されたわけではない。日比谷公園や浅草公園、上野公園などに建つバラックにはまだ人があふれているし、東京市に戻ってきた人が、劣悪な住宅事情に耐えかねて、東京市の郊外に新居を構える例も増えているという。住宅だけではない。壊れてしまった道路や橋の補修、区画整理や街路の拡張、公園の設置……やらなければならないことは、まだまだたくさんあるのだ。
(土地区画整理もやっと始まったけれど、これ……新しい地区で区画整理が始まる度に、私、色紙を書かないといけないのかしら?勘弁してほしいんだけどなぁ……)
愚痴が頭の中に浮かんだ時、着席していた兄と節子さまが立ち上がり、正面の祭壇に向かって歩いて行くのが見えた。いつの間にか、桂さんの式辞は終わっていたらしい。兄と節子さまが祭壇の正面に立った午前11時58分、大きなサイレンの音が会場に……いや、会場だけではなく、東京中に響き渡る。地震が発生した午前11時58分に合わせて、学校や工場などから、黙祷の合図のサイレンが鳴らされているのだ。市電や乗り合い自動車も一時停止をして、警笛を合図に、皆で1分間の黙祷をささげているはずだ。私も頭を垂れ、祭壇に向かって祈りを捧げた。
やがて、サイレンと警笛の余韻は、夏の大気に溶け込んで跡形も無く消えていく。頭を上げた兄と節子さまは、“震災死没者之霊”と墨書された白木の柱を中心に広がる祭壇を、立ち去りがたい様子で見つめていた。




