異国からの知らせ
1924(大正9)年7月12日土曜日午後2時5分、皇居・表御殿にある牡丹の間。
「以上申し上げました通り、常備兵力に関しては、次回の軍縮会議が開催される1929年の初めまでに、本年1月1日現在の常備兵力から1%を削減することで決着致しました」
今日は、7月の定例梨花会が開催される日である。梨花会の冒頭から、桂さんに指名された国軍大臣の山本さんが、2日前に締結された第2回軍縮条約の内容を説明していた。
「そして、各国の主力艦削減についてですが……お手元の資料をご覧ください」
山本国軍大臣の声で、参加者が一斉に資料に目を落とす。そこには、今回の軍縮条約で主力艦を削減することになったイギリス・ドイツ・フランスが所有してもよいとされた主力艦が記載されている。条約本文には、艦名が全て記載されているのだけれど、今回の資料には艦型とその隻数のみが書かれていた。
●イギリス(合計50隻、排水量1176938トン)
戦艦“ドレッドノート”
戦艦“ネプチューン”
巡洋戦艦“タイガー”
ロード・ネルソン級戦艦:2隻
ベレロフォン級戦艦:3隻
セント・ヴィンセント級戦艦:3隻
コロッサス級戦艦:2隻
オライオン級戦艦:4隻
キング・ジョージ級戦艦:4隻
アイアン・デューク級戦艦:4隻
クイーン・エリザベス級戦艦:6隻
リヴェンジ級戦艦:8隻
インヴィンシブル級巡洋戦艦:3隻
インディファティガブル級巡洋戦艦:3隻
ライオン級巡洋戦艦:3隻
マイノーター級装甲巡洋艦:2隻
●ドイツ(合計30隻、排水量725726トン)
巡洋戦艦“ザイドリッツ”
巡洋艦“ブリュッヒャー”
モルトケ級巡洋戦艦:2隻
デアフリンガー級巡洋戦艦:3隻
マッケンゼン級巡洋戦艦:2隻
ナッサウ級戦艦:4隻
ヘルゴラント級戦艦:4隻
カイザー級戦艦:5隻
ケーニヒ級戦艦:4隻
バイエルン級戦艦:4隻
●フランス(合計24隻、排水量513708トン)
リベルテ級戦艦:3隻
ダントン級戦艦:6隻
クールベ級戦艦:4隻
プロヴァンス級戦艦:4隻
ノルマンディー級戦艦:5隻
リヨン級戦艦:2隻
「つまり、イギリスは装甲巡洋艦13隻と戦艦7隻、ドイツは装甲巡洋艦を5隻、フランスは巡洋艦4隻を廃艦することになりました」
資料の文字列にうんざりしていた私たちに、予備交渉に参加していた山本五十六航空少佐が手際よく結果を要約してくれる。
「ふむ。つまり、次回の軍縮会議が開催される1929年の正月までに、イギリスは理論上8隻の戦艦を新造できるということになるが」
兄が資料にもう一度目を通しながら確認すると、
「あくまで、“理論上では”という但し書きがつくのが大事ですなぁ」
兄の三男・英宮尚仁さまと四男・倫宮興仁さまの輔導主任を務めている枢密顧問官の西郷従道さんがのんびりとした口調で言った。
「さて皇太子殿下、イギリスが予定通り戦艦を新造できないとすれば、どのような理由が考えられますかのう?」
「大きな理由となるのは、国家財政のひっ迫です」
西郷さんに指名された迪宮さまはスラスラと回答を始めた。
「例えば、アイルランドの独立運動が更に過激になれば、その対処に軍事費が割かれてしまい、戦艦を新造する余裕が無くなります。また、植民地の独立運動を扇動し、イギリスから独立させてしまえば、イギリスの収入は減り、軍事費が減りやすくなるでしょう」
「ほうほう、それから?」
「金が掛かって、国民のためにも国家のためにもならない政策を実行させるのも手かもしれません。例えば、宮殿を建て替えるとか……」
「昔、西太后がやって、清の北洋艦隊の予算を吸い取ってしまった手法ですな」
枢密顧問官の伊藤さんの満足げな言葉を聞きながら、
(私の時代だと、全く効果の無い医療に金をバラまかせる、とかもできるかしら……)
私はこんなことを考えていた。私の時代には、社会保障関係に国家予算から多くのお金が出されていたはずだ。その中に冗費を紛れ込ませるということもできるかもしれない。
「では、次の軍縮会議の展開はどうなると予想されるか、このまま皇太子殿下に答えていただきましょう」
答え終わった迪宮さまに、更に山縣さんが問いを放つ。流石梨花会の面々、迪宮さまに手加減する気は一切無いようだ。
「常備兵力は、次の軍縮会議でも、5年間で1%程度の減少となるでしょう。もちろん、世界のどこかで、ドイツとイギリスが関与する戦争が始まれば分かりませんが……。また、今回の軍縮会議で、主力艦の削減には1つの区切りがついたと思われます。恐らく次の軍縮会議では、航空母艦の保有制限が議題となるでしょう。そうなれば、我が国ものんびりとしてはいられません」
迪宮さまの言葉に、兄が黙って頷いた。イギリスは、日本から航空母艦の運用についての情報をある程度手に入れた。今後、日本と同じように、大きな航空母艦を建造していくだろう。それを見たドイツが、イギリスと同じような航空母艦を建造したいと考えるようになるのは時間の問題だ。
「現在の3隻の航空母艦、特に“祥鳳”と“瑞鳳”なら、今後、飛行器が大型化しても使うことができます。しかし、世界大戦が回避されたこの時の流れで、飛行器による攻撃がどう発展するか分かりませんね。何せ、飛行器による爆撃も、空中戦闘も起こっていないのですから」
国軍の航空部門の実質的なトップである山本航空少佐が説明する。彼に以前聞いた話によると、“史実”では第1次世界大戦の時、既に爆撃や空中戦闘が行われていたそうだ。そしてそれが発展し、第2次世界大戦では、日本の国土はアメリカの空襲により焼き払われた。未来に残すべき貴重な城郭の遺構と共に……。
(戦争が起こらずに、いつまでも平和ならいいけれど……そうも言っていられないのよね)
それでも、人が理不尽に死ぬ事態が多発する戦争と言うものは、可能な限り起こしたくない。甘い考えとは分かっているけれど、軍縮会議に関する議論を聞きながら、私はその思いを新たにした。
1924(大正9)年7月12日土曜日午後7時45分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「本当ですか?」
栽仁殿下が横須賀から戻ってきて、一家全員で夕食を済ませ、彼と一緒に共用の書斎に引っ込んだ直後にもたらされた急報……その内容は、私にとっては信じがたいものだった。
「そんな……だって、マリーから“具合が悪い”って手紙をもらったばかりなのに……もう、亡くなってしまったって……」
知らせを持ってきた職員さんに詰め寄ろうとしたその瞬間、
「章子さん、どうしたの?」
後ろから肩を叩かれ、私は動きを止めた。振り返ると、栽仁殿下が優しい瞳を私に向けている。
「なんだか、穏やかじゃない言葉が聞こえた気がするけれど……」
「マリーから電報が来たの。森先生が、昨日の夜に亡くなったって……」
私は夫に、たった今職員さんから伝えられたことをそのまま教えた。
「そうか……」
「信じられない。マリーの手紙が着いたのがおとといよ。その手紙に“森先生の具合が悪い”って書いてあって……それから、こんなに早く亡くなるなんて……」
頭の中で悲しみがグルグル回り、言葉が口から溢れて止まらない。そんな私に、
「じゃあ、お悔やみの電報を出さないといけないね」
栽仁殿下は私の右手を握り、優しい口調で言った。その声を聞き、私はハッと我に返った。
「ああ……そうね。電報の文面を考えないと」
私がそう答えると、
「そうだね。それから、森先生をよく知っている人がいる所にも、訃報を知らせる方がいいと思うよ」
夫は私の右手を握ったまま、口調を変えずに提案する。
「そうね。医科研と医科大学、京都の北里先生、それから、念のために宮内省と外務省……もしかしたら、もう訃報を受け取っているかもしれないけれど……」
この時の流れの森先生は、ノーベル生理学・医学賞を受賞した世界的な医学者だ。ドイツには帰化したけれど、元々日本人だから、日本の国として何らかのお悔やみをする方がいいかもしれない。
「……では、医科学研究所と医科大学、京都の世界保健機関、宮内省と外務省にも、森先生の件を伝えてください。僕たちも弔電を出しますから、文章ができたらまた呼びます」
私の話を聞いた栽仁殿下は、職員さんに向き直るとこう告げる。職員さんがドアを閉めて共用書斎から去り、足音が遠ざかったのを確かめると、
「ありがとう……ごめんね、栽さん。取り乱しちゃって……」
私は夫に深く頭を下げた。
「いいんだよ。突然のことだったんでしょ?」
微笑した夫に頷くと、8年前、ミュンヘン中央駅で別れた時の森先生の穏やかな笑顔が脳裏に蘇る。それから、彼と初めて会った時のことや、花御殿の敷地でニワトリの脚気発症に関する実験をした時のこと、脚気討論会の時のこと、前世の記憶があると森先生に打ち明けた日のこと、森先生がお見合いを断るために、私に偽装交際の相手役になって欲しいと申し入れた日のこと、軍医学校の校長室で、ノーベル賞を受け取るようにと私が森先生を説得した日のこと……。様々な思い出が一気に心を駆け巡り、思わず顔を歪めた刹那、栽仁殿下が私を黙って抱き締めた。
「……落ち着いた?」
どのくらいの時間が経ったのだろうか。栽仁殿下の胸の中でようやく泣き止んだ私は、顔を上げると、
「あのさ、栽さん……私、“史実”での森先生のこと、栽さんに話したっけ?」
私は夫に確認した。
「いや、聞いたことはないと思うよ」
優しい声で答えた夫に、
「あのね、森先生って、“史実”では、医者としてより、文学者としてのほうが有名だったの」
私はこう話し始めた。
「私は前世では、森先生の名前を知らなくて、雅号の“鴎外”で覚えていたの。だから、転生したと分かった直後に出会った森林太郎先生が、森鴎外と同一人物だなんてすぐには分からなかったの。それを知ったのは、東京専門学校でやった脚気討論会の時よ」
「ああ……梨花さんが、石黒と青山を叱ったやつだね」
「余り言わないでよ。あの時、正しいことをしたとは思うけれど、後から思い出すと恥ずかしくて……」
私が顔を伏せて夫に言い返すと、彼は「ごめんね」と言いながら私に頭を下げる。
「ううん、気にしないで、それに、これ、本題とは余り関係ないし」
私は栽仁殿下の顔を見上げると、
「“史実”で森先生は、脚気は栄養の欠乏で起こる病気じゃないと長年考えていたらしいの。もっとも、これは“史実”で海軍大将にまでなった斎藤さんに後から聞いた話だから、曲解して伝わっているところもあるかもしれない。森先生は、“史実”で陸軍の軍医をしながら文学活動をしていたのだけれど、“史実”では、陸軍と海軍は仲が悪かったらしいから」
と、話を再開した。
「憲法発布と同時に、陸軍と海軍が合同して国軍になったこの時の流れとは大分違うね。……それで?」
「この時の流れの森先生は、脚気に関する実験からビタミンを発見して、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。そして、留学時代に恋に落ちた女性と今度こそ添い遂げるために、ドイツに永住する道を選んだ。日本国籍はもちろん、日本での職や名誉も全て捨てて、ね。そして、日本に戻ることなく亡くなった……」
私はここまで話すとため息をついた。
「森先生は、“史実”とは全然違う人生を歩んで一生を終えた。でも……それで幸せだったのかしら?」
「梨花さん……」
「森先生だけじゃない。爺に勝先生、ベルツ先生、三条さん、山田さん、井上さん、大隈さん、それにお父様……私の身近にいた人たち、いや、私の身近にいない人たちも、“史実”とは違う人生を歩んで、亡くなって……今更、それが怖くなってしまったの。みんな、幸せだったのかな、って……」
止まったと思っていた涙が、目からこぼれ落ちる。私はもう1度、夫の胸に顔を埋めた。
「ごめん……覚悟、とっくに決まってると思っていたのに、こんな弱音を吐いてしまって……」
栽仁殿下の胸板に顔を押し付けたまま私が言うと、
「いいんだよ。心は揺れるものだから。強くなる時も、弱くなる時もあるさ」
彼は私に答えながら、私の頭をあやすように撫でる。そのまま、夫に身体を預けていると、
「ねぇ、梨花さん……僕の声、聞こえる?」
彼は私にこう尋ねる。夫の胸に顔を埋めたまま、首を縦に振った私に、
「人が幸せかどうかなんて、他人には決められないよ。それを決められるのは本人だけだ。……いや、本人にも分からないかもしれないけどね」
栽仁殿下は穏やかな声で言った。
「まして、自分の人生が、“史実”のそれと比べてどうか、だなんて、誰にも分からないんじゃないかなぁ」
「そう、だよね……」
泣き疲れて熱情と悲しみが全て吹き飛び、冷静になった私の頭に、夫の言葉がじんわりとしみ込む。
「でもね、梨花さん。……僕は、この時の流れの森先生は幸せだったと思うよ」
そこにこんな言葉が降ってきて、私は戸惑ってしまった。どういうことか問い質そうとしたその時、
「だって、“史実”とは違う人生を歩んでいる僕は、とても幸せだもの」
更に思いがけない言葉を掛けられ、私は息を呑んだ。
「栽さん……」
「もし“史実”だったら、僕は江田島で虫垂炎になった時に死んでいた。梨花さんがいて、北里先生たちに抗生物質を開発させたことが、僕がこうして生きることにつながったんだ。……いや、それとも、あの時、梨花さんが広島で勤務していたことが、かな?」
「?!」
目を見開いて身体を固くした私に、
「ああ、ごめん。驚かせちゃったかな」
栽仁殿下は謝罪して、悪戯っぽい笑みを見せる。
「だって……それは、あなたに言う訳にはいかないと思っていたから……」
私は喘ぐように夫に応じ、
「栽さんの“史実”のこと、誰から聞いたの?伊藤さん?」
と彼に尋ねた。
「外遊した時に、梨花さんのいない所で、山本少佐どのと色々話したことがあってね。その時に教えてもらった……と言うより、教えさせた、と言った方が正確かな」
そう答えて苦笑いした栽仁殿下は、
「散々説き伏せて、梨花さんには言わないという条件でようやく教えてもらったけれど、……ごめん、言っちゃった」
というと、私の身体を優しく抱き締めた。
「梨花さん、僕はね、こうして生きることができて、愛する人をそばで支えられて、愛する人と一緒に幸せな家庭を築くことができている。僕は……この時の流れの僕は、“史実”の僕より確実に幸せだ。だから、この時の流れの森先生もきっと幸せだった……僕はそう思うんだ」
「栽さん……」
見上げると、私の視線が夫の瞳とぶつかる。真っ直ぐで澄んだ光を湛えた夫の瞳から、私は目を逸らすことができなかった。
「そうだよね……」
私は夫に微笑んだ。「そう思って生きていくしか、ないのよね……」
すると、
「梨花さん」
栽仁殿下が私を呼んだ。反射的に「はい」と口にした私に、
「まだ、これだけじゃ全然足りないんだ、幸せが」
彼は真面目な表情で言った。
「僕はこれからもずっと梨花さんを守って、支えて、愛し抜いて、ずっとずっと、もっとたくさんの幸せを作るんだ。僕と梨花さんが一生かかっても味わい尽くせないくらい、たくさん」
「栽さん……」
私は思わず両腕を夫の背に回し、彼の身体に抱きついた。
「ありがとう、栽さん……。私のこと、支えてくれて……」
「当然だよ。だって梨花さんは、僕のただ1人の愛する女性なんだから」
心からのお礼を口にした私に、栽仁殿下はそう言ってニッコリ笑った。
※イギリス・ドイツ・フランスの艦船事情に関しては、実際のものとは設定が変わっております。ご了承ください。




