軍縮条約は複雑怪奇
1924(大正9)年4月20日日曜日午後3時、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「お久しぶりです。皆さま、ご無事のご帰国で何よりです」
水色の和服を着た私が応接間であいさつをすると、長椅子に並んで座った3人のお客様が一斉に頭を下げる。山本五十六航空少佐、堀悌吉海兵少佐、そして山下奉文歩兵少佐である。彼ら3人はジュネーブで開催された第2回軍縮会議の予備交渉を行うため、昨年12月半ばに日本を発ち、その任を果たして昨日の午後帰国した。
「早速ですけれど、軍縮会議の予備交渉がどのように進んだかを教えて……」
“もらってもよろしいですか”、と続けようとした私の口は、
「そんなことより内府殿下!」
山本少佐の大声で動きを止められてしまった。
「鈴木閣下が侍従武官長に就任なさったのは本当なのですか?!」
「あ、ああ、はい、そうですけれど……」
山本少佐の勢いに押されて私が頷くと、
「そうですか!それは素晴らしい!」
山本少佐は吠えるように感想を述べる。
「鈴木閣下は温厚慈愛の人格者、しかしながら、胸の内には烈々たる忠心と、古今の大英雄に劣らぬ胆力を有しておられる、俺が“史実”で最も……いや、この時の流れでも最も尊敬する先輩です!陛下のおそばに仕える侍従武官長として、まさにうってつけの人物と言えるでしょう!俺は“史実”で“宗谷”の分隊長をしておりましたが、その時鈴木閣下は“宗谷”の艦長で、色々とご指導いただきまして……」
「分かったから、少し落ち着け」
山本少佐の左隣に座る山下さんが呆れたように注意した。「“史実”ではそうかもしれないが、この時の流れでは、お前は鈴木閣下に接した経験はないだろう」
「ま、まぁ、その通りではあるが」
慌てて咳払いをした山本少佐の横から、
「しかし、鈴木閣下はご立派な方であることは確かです」
堀さんが苦笑しながら補足して、
「内府殿下、梨花会のお歴々は、鈴木閣下を梨花会に加えることを考えていらっしゃるのでしょうか?鈴木閣下は、それだけの実力をお持ちの方です。もしそのような話が出ていないのでしたら、私から提案させていただきたいのですが……」
と私に言った。
「……しばらくは無理だと思います」
私は堀さんに答えると、お茶を一口飲んだ。
「鈴木さんは、“軍人は政治に関与してはならない”というモットーを持っているようなのです」
それは先週のことだった。午前の政務の後に兄と話していたら、兄に急に報告する事項ができたということで、鈴木さんが御学問所にやって来た。その報告が終わった後、鈴木さんと兄と私とで少し雑談をしたのだけれど、私が“なぜ梨花会に入りたくないのか”と鈴木さんに質問したら、彼はそのように返答したのだ。
「だから、梨花会には入りたくないようなのです。もうその実力はあると、梨花会の古参の面々にも認められているのですけれどね」
「えっ、つまり、鈴木閣下は梨花会に入ることを認められていながら、梨花会に加わることを拒んでいらっしゃるのですか?」
「そういうことになりますね」
驚く堀さんに答えると、私は再びお茶を飲んだ。
「鈴木さんが侍従武官長になる前、梨花会に加えてもいい人物かどうかを陸奥さんたちが吟味しようとしたら、鈴木さんは陸奥さんたちが仕掛けた課題をことごとく無視したのだそうです」
「こ、ことごとく無視、ですか……。流石鈴木閣下。あの方々の企みを看破なさるとは」
感激したように言った山本少佐に、
「侍従武官長になってからは、鈴木さんも流石に逃げられなくなりました。……まぁ、侍従武官長室に、梨花会の面々が10人ぐらい同時に押しかけたら、逃げるのは無理ですよね」
私が苦笑しながらこう答えると、山本少佐は返事もできずに呆然とした。
「……ちなみに内府殿下、一体誰が鈴木閣下の所に押しかけたのですか?」
「伊藤さんに大山さんに、黒田さん、山縣さん、陸奥さん、松方さん、それから桂さんと西園寺さんと国軍大臣の山本さんと……なぜか義父までいましたね」
指を折りながら山下さんの質問に回答すると、山下さんは顔を引きつらせ、堀さんも「それは逃れられませんね」と力無く首を横に振った。
「まぁ、そういう訳で、“梨花会に入る実力あり”とは認められたのですけれど、鈴木さんは自分のモットーに従って梨花会に加わるのを拒んだので、梨花会には入っていません」
「なるほど……しかし、もし鈴木閣下が予備役となれば、梨花会に加わっていただけるのではないでしょうか?」
「予備役に入る可能性は……限りなく低いですね」
山本少佐の問いに私はこう応じた。
「兄上が鈴木さんのこと、すごく気に入っているんですよ。着任直後、兄上と鈴木さんが相撲を取ったんですけど、鈴木さん、兄上と真剣に勝負して兄上を負かしたので、兄上、それで鈴木さんが好きになって……。しかも、鈴木さんが漢籍に通じていることが分かったので、更に鈴木さんが気に入ったんです。今では毎週月曜日、午前の政務が終わると、兄上は鈴木さんを御学問所に呼んで、2人で漢籍や漢詩の話を昼休みまでしています。話の内容が余りにもマニア過ぎるので、私は内大臣室に引っ込むんですけれど。だから、鈴木さんが健康を害さない限り、兄上は鈴木さんを侍従武官長に据え続けます。鈴木さんが予備役に回るなんてあり得ません」
「はぁ……」
頷いた堀さんは、「しかし、残念です」と言うと寂しそうに笑った。
「ご自身の信念に従われた結果とは言え、梨花会で教えを乞えないのは……」
「それは私も思いますよ」
私は堀さんに言った。
「少しは鈴木さんに政治や国際情勢のことを知っておいて欲しいから、梨花会に出てもらいたいという思いはありますけれど、本人がその気にならない限りは仕方ないです。皆さまもそのつもりで、よろしくお願いしますね」
私が更に続けて言って、営業スマイルをおまけにつけると、山本少佐と堀さんと山下さんは一斉に頭を下げた。
「ところで、本題に戻りたいのですけれど」
3人のお客様が頭を上げると、私は唇を軽く尖らせた。
「は?本題と言いますと……」
「とぼけないでくださいよ、山本少佐。軍縮会議の予備交渉の結果ですよ」
私が山本少佐を軽く睨むと、
「明日参内する時にご説明いたしますから、今日はよいではありませんか」
山本さんは私に不服そうな目を向ける。
「明日は間違いなく質問責めになりますよ。あなた達が兄上にあいさつする時、大山さんはもちろんですけれど、鈴木さんも立ち会いたいと言っていました。それに、山本少佐の今の様子だと、明日、鈴木さんに食いついて、説明が予定時間内に終わらないと思うのです」
「内府殿下のおっしゃる通りかと」
私の言葉に山下さんが一礼して言う。図星だったのか、山本少佐は顔を真っ赤にした。
「では、ご説明申し上げましょう」
堀さんがクスっと笑うと私に向き直る。そして、
「まず、常備兵力数に関しては、次回、5年後の軍縮会議までに各国ともに1%削減するということで合意が得られました」
と、予備交渉の結果について説明を始めた。
「清は常備兵力の削減を渋っていると聞きましたけれど、合意したのですね」
「はい、堀が提案した、朝鮮での清人自警団の結成を早速進めているそうです。元々、朝鮮人による清人襲撃が問題になっていたのもあり、清人は進んで武装しているようです」
私が確認すると、山下さんは堀さんの答えを補足してくれた。……もしかしたら、清人自警団による朝鮮人への過剰報復が起こるかもしれないけれど、それは清の問題だ。とりあえず、清の朝鮮統治が順調に進んで行くことを私は祈った。
「また、主力艦削減については、今年1月1日現在で、主力艦の保有トン数が30万トン未満の国は対象外となりました。従って、主力艦を削減しなければならないのは、イギリス・フランス・ドイツの3ヶ国です」
説明を再開した堀さんに、私は黙って頷いた。確か、イギリスは約145万トン、ドイツは約78万トン、フランスは約57万トンの主力艦を保有していたはずだ。
「予備交渉では、イギリスは20万トン以上かつ20隻以上の、ドイツが5万トン以上かつ5隻以上の、そしてフランスが4万トン以上かつ4隻以上の主力艦を、1928年までに廃艦することで合意しました」
(はにゃ?)
不可思議な条件に私は首を傾げた。トン数だけならまだ分かるけれど、廃艦する軍艦の数まで指定するとは、一体どういうことなのだろうか。お互いを仮想敵国とするイギリスとドイツの間で今回もめている件を思い出して、
「ああ、装甲巡洋艦を可能な限り廃艦にして、小さな軍艦の代替として大きな軍艦を建造することを防止しよう、ということですか?」
と私が堀さんに尋ねると、「その通りでございます」と堀さんは一礼した。今回、イギリスが不快感を示したのは、ドイツが、主力艦に分類された排水量1万トン前後の装甲巡洋艦の代替と称して、3万トンを超える巡洋戦艦を建造したことだ。現在、イギリス・フランス・ドイツに残っている装甲巡洋艦は、1万トン前後の排水量で、なおかつ艦齢が15年以上のものが大半である。将来、今回のようなことが起こるのを防ぐために、1万トン前後の軍艦を廃艦させることを意識した合意になったのだろう。
「でも、それなら、廃艦にする軍艦を名指しにすればいいと思いますけれど……何か理由があるのですか?」
「流石、内府殿下は鋭いですね」
私の質問に、山本少佐がニカッと笑った。
「実は、イギリスは、次回の軍縮会議が開催される1929年には艦齢20年を超えるという戦艦を多数保有しているのです。キング・エドワード7世級戦艦7隻、ロード・ネルソン級戦艦2隻、インヴィンシブル級装甲戦艦3隻、そして世界を建艦競争に駆り立てた“ドレッドノート”の計13隻です。これとは別に、ベレロフォン級戦艦3隻とセント・ヴィンセント級戦艦3隻は、1930年までには艦齢20年を超えます」
山本少佐はここで言葉を切ると、
「さて、廃艦すべき20隻のうち、戦艦と装甲巡洋艦は何隻含めるのかという規定はありません。現在イギリスは、1928年末までに艦齢20年を超える装甲巡洋艦を14隻保有していますが……内府殿下、もしイギリスがその廃艦する20隻を装甲巡洋艦14隻、戦艦6隻という構成にすれば、イギリスは1928年末までに新しい主力艦を何隻作ってよいことになるでしょうか?」
と私に突然質問を投げた。
「ええと……次の軍縮会議までに艦齢20年を超える戦艦が13隻だから、13から6を引いて、7隻作っていいことになるのかしら」
突然、計算問題を出されたので、面食らいながらも答えた私に、
「では、イギリスが、1928年末までに艦齢20年を超える戦艦13隻だけではなく、更にベレロフォン級戦艦3隻とセント・ヴィンセント級戦艦3隻も廃艦するとすれば、イギリスは主力艦を何隻建造できるでしょうか」
山本少佐は更に問う。
「え、ええと、そうなると戦艦19隻を廃艦することになるから、装甲巡洋艦は1隻廃艦することになって、艦齢20年を超える装甲巡洋艦の残りが13隻……え?13隻も主力艦を建造できるということになるのですか?」
「はい」
目を丸くした私に山本少佐は頷いた。
「そんな……その、ベレロフォン級とセント・ヴィンセント級は、廃艦してもいい戦艦なんですか?性能がいい戦艦だったら、廃艦するのは時期尚早な気がしますけれど……」
「ベレロフォン級もセント・ヴィンセント級も、排水量は2万トンもありません。しかも、性能が取り立てて優れている戦艦ではありませんから、さっさと新しい戦艦に変えることができれば、というのがイギリス海軍の本音でしょう」
堀さんの答えに私は頭を抱えた。どうやら、隙があれば軍備を増強したいのは、ドイツもイギリスも同じらしい。
「これ、ドイツとフランスが、同じ手を使ってくる可能性がありますよねぇ……。軍縮条約に廃艦する軍艦の名前を明記するべきですよ。そうじゃないと、抜け道を使って強力な軍艦を作ろうとする事例がずっと発生します」
「それは今朝、斎藤閣下にも申し上げました」
ため息をついた私に山下さんが言った。「“廃艦にする艦の名前は明記すべきだ”と斎藤閣下もおっしゃっておられました」
斎藤さんは来月の頭には東京を出発して、全権としてジュネーブでの本交渉に臨む。今週の末には臨時の梨花会が開かれるから、各国が抜け道を探して軍拡に走らないことを心掛けて交渉するよう、斎藤さんに頼んでおこうと私は思った。
「はぁ……なかなか進まないですね、軍縮は……。この時の流れでは、“史実”と違って第1次世界大戦が起こっていませんけれど、そのせいで、かえって軍縮が進まないのかしら……」
再びため息をついた私に、
「恐れながら、軍縮が進まぬことよりも、今までに世界大戦が発生していないことの方が重要と考えます」
堀さんが力強い声で言った。
「そして、世界大戦が万が一発生してしまった場合に備え、被害者を増やさぬよう、こうして軍縮を行うことも大事ですが、世界大戦が発生しないよう努力することの方がもっと大切です。その意味で、内府殿下が世界に果たされる役割は今後も大きいと考えます。どうか、そのことをご留意いただければ幸いです」
更に堀さんはこう続け、私に最敬礼する。私はため息をつくのを止め、「そうですね」と頷くと微笑した。




