新侍従武官長(2)
1924(大正9)年3月13日木曜日午前10時、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。
「よく侍従武官長を引き受けてくれた」
兄の前には、海兵中将の正装をまとった、第1艦隊前司令長官の鈴木貫太郎さんが立っている。
「いえ……」
頭を下げた鈴木さんは、チラリと私の方を見て、
「私がグズグズしていたせいで、天皇陛下、そして内府殿下にひとかたならぬご心痛をおかけしてしまい、誠に申し訳ございませんでした」
と言って最敬礼する。
(あー……ちょっとやり過ぎたかな……)
私は硬い微笑を鈴木さんに向けた。
……先週土曜日の梨花会が終わった直後、宮内大臣の牧野さんが、鈴木さんのいる横須賀へと向かった。そして、侍従武官長に就任するよう、鈴木さんに要請したのだけれど、鈴木さんは首を縦に振ってくれなかった。そのことを、私は先週土曜日の夜遅くに兄が掛けてきた電話で知った。
――だが、鈴木中将に完全に断られてしまった訳ではない。
電話の向こうの兄の声は、意外にも明るかった。
――最初は、“そんな難しい役目は、自分にはとても果たせない”という返事だったが、牧野大臣が説得して、“自分は不適任だと思うけれど、考えてみましょう”と言わせたのだから。
――でも、これで梨花会の古参の面々を鈴木さんの所に説得しに行かせたら、鈴木さんは武官長就任を断ると思うわ。
職員さんの驚愕の叫びで起こされた私が、眠い目をこすりながら兄に答えると、
――なら、お前が鈴木中将の所に行って説得しろ。
兄は私にこう言った。
――私が行かなくても、鈴木さんが話を受ける可能性が高いけれど……。
私は兄に答えて電話を切ると、盛岡町の家に戻ってきていた栽仁殿下に、横須賀に戻ったら、私が鈴木さんに会いに横須賀に行くと言っていたと鈴木さんに伝えるように頼んだ。夫が勤務している2等巡洋艦“鬼怒”は、鈴木さんが指揮する第1艦隊に所属している。栽仁殿下に託した伝言の効果は絶大だったようで、月曜日の夕方には、“侍従武官長就任の話をお受けします”という鈴木さんからの伝言が牧野さんの所に届いた。“皇族”という立場が持つ力を、私は改めて実感した。
「急かしてしまったようで、申し訳ありませんでした」
私は鈴木さんに丁寧にお辞儀をした。「閣下の所に、厄介なお客様たちが行ってしまうのではないかと心配だったので……」
すると、
「あ、なるほど……」
鈴木さんは頷いて、
「陛下の御前で大変恐縮ではございますが、その……内府殿下は、私に余計なちょっかいを出している方々をご存知なのでしょうか?」
と私に質問した。
「ええ。ただ、やり方が強引なのではないかと思っています」
「わたしもそう思っている」
私の答えに、兄が声を被せた。
「もちろん、鈴木中将にも、その……ちょっかいを出している連中の仲間に入って、国のためになることをして欲しいとわたしは思っている。しかし、それはわたしが強制することではない。連中の仲間に入るかどうかは、鈴木中将の自由な意思によって決めてもらうべきことだ」
これは、私と兄が話し合って決めたことだ。今、ジュネーブの国際連盟で働いている吉田茂さんは、自らの意志で梨花会に加わるのを拒み、彼なりのやり方で日本のために働いているそうだ。そんなやり方が許されるのであれば、梨花会の面々の接触を拒み続けている鈴木さんの意思も尊重されるべきである。
「これから、その”ちょっかい”を出してくる連中が、鈴木中将に色々と接触してくるだろう。それをどう料理するかは鈴木中将に任せる。連中の仲間になっても、ならなくてもいい。ただ、何らかの形で、国のために尽くして欲しい」
鈴木さんが梨花会の存在を知っているかどうかは分からない。ただ、”ちょっかい”を出してくる人々が統一された考えの下に動いているのは薄々感じているだろう。という訳で、兄と私は、このような団体が存在している、ということは鈴木さんに示すことにした。
「……武骨一辺の人間に破格のご配慮、誠にかたじけなく存じます」
鈴木さんは兄に深く頭を下げた。「難しいお役目、果たせるか分かりませぬが、精一杯奉仕させていただきます」
「うん、これからよろしく頼む」
満足げに頷く兄の横で、私は鈴木さんをじっと観察していた。
彼とは初対面ではない。私が軍医学校の実習中に極東戦争に巻き込まれた時、彼は“春日”の副長だったので、その時に二言三言言葉を交わした。対馬沖海戦の時には第3駆逐隊の司令に転じており、夜襲でバルチック艦隊の戦艦1隻と装甲海防艦2隻を撃沈している。極東戦争の時も、そしてつい先日まで務めていた第1艦隊司令長官の時も、麾下の艦隊に猛訓練を課すので有名で、国軍では“鬼貫”というあだ名を奉られているそうだ。けれど、穏やかな、まるで日向ぼっこをしている犬のような鈴木さんの風貌からは、そんな勇ましい軍人であることが想像できない。
(鈴木さんが、ここの仕事になじめるといいなぁ……)
再び頭を下げた鈴木さんを見つめながら、私は心から祈った。
1924(大正9)年3月13日木曜日午後2時15分、皇居・表御座所にある御学問所。
「何とか鈴木武官長が就任してくれてよかったな」
午後の政務を終えた兄と私は、御学問所でお喋りをしていた。いつもならこの時間は、御苑を散歩したり馬に乗ったりするのだけれど、今日は朝から雨なので、室内でのんびり過ごしている。
「本当にね」
お茶を一口飲んだ私はふうっ、と息を吐いた。「私の伝言だけで侍従武官長就任を了承してくれたからよかったけれど、本当に私が横須賀に行くことになっていたら、私、鈴木さんを説得できる自信が無かったわ」
すると、
「その時は俺が動いたさ」
兄は気軽な調子で言った。
「侍従に手紙を持たせてもいい。それでダメなら俺が横須賀に行っていたよ」
「……兄上、サラっと言ったけど、兄上が横須賀に行くってなったら、結構な騒ぎになるわよ」
「分かっている。だが、有能な人材を得るためなら仕方ないだろう?」
「そうだけどさ……」
(ただ出掛けたいだけな気がする……)
私が心の中で兄にツッコミを入れた時、「わぁっ!」という歓声が御学問所の外から聞こえた。「いいぞ、やれ!」とけしかけるような声も聞こえる。
「何かしら?」
私が首を傾げると、
「武官の詰所の方だな。ちょっと行ってみようか」
と兄が私を誘う。私は素直に兄の後ろについて御学問所を出た。
私が御璽を押す二の間の向かいには、侍従さんたちの詰所と、侍従武官さんたちの詰所がある。その侍従武官さんたちの詰所の方に、今日出勤している侍従さんや侍従武官さんたちが集まっている。詰所の引き戸は外され、詰所の床にはロープが大きな円を描くように置かれていた。その円の中で侍従さんが2人、がっぷり四つに組んでいる。
「ほう、相撲か」
兄の声に、その場にいた人々が一斉に頭を下げる。相撲を取っていた2人も、お互いの身体から離れて慌てて最敬礼した。
「申し訳ございません。うるさくしてしまいました」
頭を下げたまま詫びる侍従さんに、
「いや、構わん、続けろ」
そう答えた兄は、次の瞬間、フロックコートを脱ぎ捨て、
「というか……俺も混ぜろ!」
と言いながら、詰所にずんずんと入っていく。
(やっぱり……)
兄が脱ぎ捨てたフロックコートを畳みながら、私は苦笑した。今日は外に出られないから、兄は身体を動かしたくてしょうがなかったのだろう。ロープで描かれた大きな円の中に立った兄に指名されて、最近採用された侍従さんが恐々前に進み出た。
「構えて……」
兄のご学友さんの1人でもある、侍従武官の西郷従義さんが、兄と侍従さんの間に入る。行司役を務めるようだ。すぐに兄と侍従さんはぶつかり合い、侍従さんはあっと言う間に兄に寄り切られた。
「おい、手加減していただろう」
ところが、勝った兄は不機嫌そうにこう言った。寄り切られた侍従さんがパッと頭を下げると、
「勝負というのは真剣にやるものだ。例え相手が天皇であってもな」
兄は更に続ける。
(いや、なかなかいないわよ、それができる人は……)
兄と同年代かそれより下で、兄に手加減なしの勝負ができるのは、私やご学友さんたちしかいない。それも、小さい頃から、大山さんや伊藤さんに“手加減無用”と散々言われ、ようやくできるようになったのだ。着任したての侍従さんには難しいだろう。
と、
「ほう、相撲ですか」
私の後ろで、聞き慣れないのんびりした声がした。武官長に就任したばかりの鈴木貫太郎さんだ。
「おう、武官長もどうだ?」
白いシャツに包まれた腕を振りながら、兄が鈴木さんに声を掛ける。鈴木さんは一礼して詰所に入ると、ロープの土俵の中で兄と向かい合った。
行司役の西郷従義さんの「構えてー」の掛け声の直後、兄と鈴木さんの身体がぶつかる。がっぷり四つに組み、互いに攻撃の機を窺っているようだ。騒がしかったギャラリーが静まり返った。
兄は鈴木さんの身体を動かして、鈴木さんを投げようとするけれど、上手く決まらない。と、じっと耐えていた鈴木さんが動いた。兄の身体があっけなく投げ飛ばされ、床にぶつかる。観戦していた一同に、声にならない衝撃が走った。
「見事だ、武官長」
兄はすぐに床から立ち上がって微笑んだ。
「お許しください。年甲斐もなく、頭に血が上ってしまいまして……」
鈴木さんはそう言いながら、兄に最敬礼したけれど、
「もちろん許す。真剣に勝負した結果なのだからな」
彼に応じた兄の声は明るかった。
「俺は嬉しいぞ、武官長。俺と真剣に向き合ってくれる人間が増えたのだから。やはり、お前を武官長にしてよかった。これからもよろしく頼むぞ」
兄の言葉に、鈴木さんが深々とお辞儀をする。いい光景だと思った時、私のそばに慣れた気配が感じられた。内大臣秘書官長の大山さんだ。
刹那、空中で視線が交錯した気がした。大山さんの目が鈴木さんに向けられている。鈴木さんも大山さんを見つめていた。私は2人から目が離せなくなってしまった。
「よし、今日はこのまま、相撲大会だ!」
はしゃぐような兄の声と、それに応える侍従さんや侍従武官さんたちの歓声が、とんでもなく遠いところから聞こえる気がする。奇妙な静寂に捕らわれた私のそばを、鈴木さんが通り抜けていった。
「相撲大会にはご参加なさらないのですかな?」
自分のそばを通り過ぎようとする鈴木さんに、大山さんが声を掛けた。
「着任初日ですし、荷物を整理しなければなりませんから」
事務的な口調で答える鈴木さんに、
「なるほど、そうやって逃げるつもりですか」
大山さんは煽るように言う。
「閣下こそ、このような武骨一辺の男に構われるのは時間の無駄でしょう」
鈴木さんは、大山さんの言葉に冷静に答えた。
「何故、私のような者に構われますか」
「武骨一辺の男ではないと思っているからですよ」
鈴木さんに答える大山さんの声は、穏やかなものに変わっていた。
「皇居に足を踏み入れた以上、時間はたっぷりあるのです。まずは、お手並み拝見と参りたいところですな」
「大山さん、そのくらいで」
私の言葉に、大山さんは口を閉ざす。鈴木さんは私に一礼して、廊下を歩き去っていった。
(これ……鈴木さんがどうなるか分からないなぁ……)
小さくなる鈴木さんの背中を見つめながら、私はため息をついた。
※西郷従義さんはこの時期養子に入り苗字が「上村」に変わっていますが、拙作では養子に入らなかったものとして話を進めます。ご了承ください。(2024年6月23日追記)




