櫓は立っているか(2)
1924(大正9)年1月16日水曜日午前7時15分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「母上、どうしたの?」
朝食を終えて居間に入ると、次男で学習院初等科5年生の禎仁が、私に心配そうに声を掛けてきた。
「なんだか、顔色が悪いよ」
「ああ、ちょっとね……」
私は次男に答えながら周囲を見渡し、義両親や義理の祖母がいないことを確認すると、
「夕べはおじいさまに和歌と書道の課題をたくさん出されたから、それをやっつけるのが大変だったのよ」
小声で禎仁にこう答えた。そのため、昨日は夕食後、ずっと書斎に籠って義理の父・有栖川宮威仁親王殿下が出した課題に取り組まざるを得なくなり、日付が変わる頃に寝床に入ったのだ。だから、今朝はまだ眠い。
「そうだったんだ。……母上、頑張り過ぎると良くないよ」
「そうだね。……じゃあ禎仁、おじいさまに、母上の課題を減らすように申し上げてちょうだい」
「多分無理だと思うよ、母上」
孫に甘い義父ならば、禎仁の頼みは聞いてくれるかもしれない。そう思いながら口にした願いを、禎仁は粉々に打ち砕いた。うな垂れた私に、
「はい、母上、今日の新聞だよ」
禎仁は励ますような口調で告げながら、私に朝刊を差し出す。私はそれを受け取ると、居間の長椅子に腰かけた。朝食後、家を出るまでの間、その日の朝刊にざっと目を通すのが、内大臣に就任してからの私の日課になっている。
やはり今日の朝刊の一面は、昨日早朝に発生した丹沢地震のことで占められている。内堀沿いの道路で地割れが発生して、2kmほどの道路が通行止めになっていることが大きく報じられていた。“電停前に生じた亀裂に立ち往生する市電”という写真も載せられている。
「“市電通りの壊滅的な被害に東京市電は大混乱、16日以降も大幅な運休・減便が見込まれる”かぁ……。困ったものね。万智子が華族女学校に行くのに使う系統は大丈夫そうだけれど……」
呟きながら新聞を読んでいると、
「妃殿下、ご出勤のお時間です」
運転手の川野さんが、私を迎えに居間に入ってきた。腕時計の針は7時35分を指している。いつも彼が私を迎えに来るのは7時45分なので、少し早い。
「まだ時間には早くないかしら?」
私が確認すると、
「恐れながら、内堀沿いの道路が通行止めになっておりまして、いつもより遠回りをして皇居に入らなければなりませんので……」
川野さんは恐縮したように私に一礼する。
「ああ、そうでした。ごめんなさい、川野さん。じゃあ、今日もよろしくお願いしますね」
私は川野さんに謝罪すると、彼の後について玄関を出て、自動車に乗り込んだ。
自動車は盛岡町の家を出ると北東に向かい、外堀のほとりに出る。普段なら外堀をこのまま越えて、虎ノ門の辺りを通って桜田門の前に出るのだけれど、今日はいつも通る内堀沿いの道路が通行止めになっている。そのため、自動車は左折して外堀沿いを北へと走り、弁慶橋の辺りで右折した。通行止めの道の迂回路になっているから混んでいるだろうと思ったけれど、道の車や人の流れは意外にもスムーズだった。
内堀沿いに出た自動車は、桜田濠沿いを通り、半蔵濠、そして千鳥ヶ淵のそばを北上する。普段見慣れていない半蔵濠や千鳥ヶ淵の様子は、新鮮な美しさで私の目を楽しませてくれた。けれど、いつも見ている桜田門や和田倉門が見られないのは少し寂しい。一刻も早く、内堀沿いの道路の通行止めが全て解除されて欲しいところだ。
(あ、今日は午前中に枢密院があるから、自由時間があるわね。なら、その時間帯に桜田門や和田倉門を見に行けるかな)
皇居に到着して自動車を降りた時にそう思いつき、少し浮かれながら内大臣室へと歩いていると、侍従の甘露寺受長さんにバッタリ行き会った。お互い子供の頃から知っている仲なので、「おはよう、甘露寺さん」と軽い調子で声を掛けると、
「うわっ……お、おはようございます、内府殿下」
甘露寺さんは後ろに飛び退くように1歩下がった。
「何ですか、怖がらなくてもいいのに」
「怖がってませんよ!」
少し口を尖らせた私に、首を激しく左右に振りながら答えた甘露寺さんは、
「突然だったので驚いただけです」
と言って、姿勢を正して胸を張った。
「そう?なら、いいですけれど……」
軽くため息をついた私は、話題を変えることにして、
「今日は内堀沿いの道路が通行止めだったから、ここに来るのに時間が掛かりました。甘露寺さんも大変だったんじゃないですか?」
甘露寺さんにこう聞いてみた。
「え、ええ。千駄ヶ谷の家から自動車で来ましたが、遠回りしないといけないのはイライラしましたね。道も混んでいましたし……」
甘露寺さんは私に答えると、腕時計の盤面を見て顔を引きつらせ、
「いかん、侍従長閣下に呼ばれていたんだ。内府殿下、これで失礼します」
私に一礼してその場を去った。
(あれ?私がここに来た時は、道は混んでなかったと思うけれど、甘露寺さんが通った時は混んでいたのかしら……)
そんな感想を私が抱いた時、
「おはようございます、梨花さま」
いつの間にか大山さんが私のそばに来ていて、私にあいさつをする。私は思わず身構えながら、「お、おはよう」とあいさつを返した。
「ここにいらっしゃいましたか。今日は大変ですよ。勅令の裁可は7件ありますし、位記もたくさんありますから」
「位記が、たくさん?」
私が問い返すと、大山さんは微笑して頷く。“位記”というのは、“従三位”とか“正四位”とか、いわゆる位階を授ける時に与える文書だ。四位以上の位記には、全て御璽が押される。御璽を押すのは私や内大臣秘書官の仕事だけれど、1枚の位記に御璽を押す作業を終わらせるのには、どう頑張っても1分はかかる。だから、“位記がたくさんある”ということは、押印作業で二の間から長時間出られないことになる。恐らく、兄が枢密院に出席している間は、ずっと二の間で作業をすることになるだろう。
(そんなぁ……じゃあ、午前中に和田倉門や桜田門を見に行けないじゃない……)
「さぁ、もうすぐ陛下が御学問所においでになります。仕事の準備をしなければ」
両肩を落とした私を、大山さんは容赦無く御学問所に引きずり込む。こうして午前中は、兄の政務の補佐に位記への押印にと慌ただしく過ぎてしまった。
しかし、午前中の業務は正午で終了した。この後はもちろんお昼休みだ。さっさとお弁当を食べ終えて、その後、午後の政務が始まるまでに、江戸城の遺構を確認して回ればいい。そう考えながら二の間から内大臣室へと戻って来ると、
「内府殿下」
内大臣室の前に、お弁当の包みを手にした枢密顧問官・陸奥宗光さんが立っていて、私の姿を見つけるとこちらに笑顔を向けた。
「今日は伊藤殿たちを出し抜けそうでしたから、昼食をご一緒したいと思いまして、参上させていただきましたよ。積る話もありますし」
「あの、ちょっと待ってください。私、陸奥さんを呼んだ覚えがないんですけれど……」
陸奥さんとお昼ご飯を一緒に食べるのは非常に困る。陸奥さんのことだ、絶対お昼休みが終わるギリギリの時間まで、私を難しい質問で責め立てるだろう。そうなると、お昼休みに江戸城の遺構を確認することができない。
「ですから、今日のところはお引き取りを……」
私がこう言った瞬間、
「ほう……」
陸奥さんが笑顔のまま目を細める。陸奥さんの唇のすき間から漏れ出る強烈な殺気に、私の背筋は凍った。
「……い、いえ、冗談です。どうぞ中へ、陸奥さん」
脅しに屈した私が内大臣室のドアを開けると、
「ご聡明なお方とお話するのは、本当に楽しいですね」
陸奥さんは途端に殺気を消し、満面の笑みとともに内大臣室に入った。こうして、昼休みが終わるまで、陸奥さんに軍縮会議の見通しについての難題を吹っ掛けられ続けた私は、午後の政務の後、兄に付き合わされて乗馬をさせられたので、この日はとうとう、江戸城の遺構を確認する機会を得ることは叶わなかったのだった。




