櫓は立っているか(1)
1924(大正9)年1月15日火曜日午前5時47分、皇居・吹上御苑。
「どう、興仁?流れ星は見えました?」
夜明け前の暗い空の下、御苑の芝生の上に小型の望遠鏡を設置して西の空を覗いているのは、兄と節子さまの末っ子、倫宮興仁さまだ。私の長男の謙仁と同じ、学習院初等科6年生の倫宮さまに、母親の節子さまが後ろからそっと声を掛けた。
「分からないです……」
倫宮さまは覗き込んでいた望遠鏡から目を離すと、首を力無く左右に振った。
「探し方が悪いんじゃないかしら。興仁、お姉様にも望遠鏡を覗かせてちょうだい」
節子さまの隣に立つ兄夫妻の長女で、第一高等学校2年生の希宮珠子さまが言うと、倫宮さまは「はい、どうぞ、珠姉様」と姉に望遠鏡を譲る。希宮さまは望遠鏡のレンズを夜空のあちこちに向けて動かしていたけれど、やがて、
「ダメだわ、流れ星なんてちっとも見えない」
そう言って望遠鏡から離れた。
「兄上……これ、勘が外れたんじゃないの?」
私が眠い目をこすりながら、芝生の上に仰向けに寝ている兄に聞くと、
「……見える気がしたんだがなぁ、流れ星が」
兄は夜空を見つめたまま笑った。
今日は、午前5時50分に、“史実”で“丹沢地震”と呼ばれる地震が発生する。関東大震災の余震とされるこの地震で、“史実”では神奈川県を中心に家屋の倒壊や電話線の寸断、道路の地割れなどの被害が出て、19人の死者が出たそうだ。鉄道の線路も破壊され、鉄道の運行に一時支障が出たというから、ある程度の対策は立てなければならない。そこで、午前5時45分をめどに、東京府・神奈川県・埼玉県・千葉県・静岡県・山梨県を走る列車は、“臨時点検”を行うために最寄り駅で一時停止する処置を取った。また、その“点検”に必要だからということで、送電も午前5時45分からストップしていた。
そして、内大臣の私は、地震発生前のこの時間帯、皇居にいる。地震発生は午前5時50分なので、今日は地震発生と同時に盛岡町の家を出て皇居に向かおうと思っていたのだ。ところが、3日前の1月12日、梨花会が終わった直後、
――梨花、15日は地震の起きる前から皇居にいろ。“天体観測をする”と言って、地震が起きる時には、節子や子供たちを連れて御苑に出ているから、お前もそれに付き合え。
兄が私にこう命じた。それで私は午前5時前に参内し、兄一家の天体観測に付き合っていたのだ。
(だけど、これでよかったのかなぁ……)
私は暗い空を見上げてため息をついた。実は、鉄道と電気に関しては策を立てたけれど、一般市民に対する避難の呼び掛けは特にしていない。一応、昨日の新聞に、“明日は停電の始まる午前5時45分ごろに流星が見えるかもしれないから、天体観測と洒落こんでみてもいいかもしれない”という記事を掲載してみたけれど、“地震があるから避難しろ”とは言っていないのだ。関東大震災が起こって半年も経っていない時に、訓練と言う名目でも避難をするように呼び掛けてしまえば、関東一円の住民がパニックに陥ってしまう……梨花会での話し合いでそんな懸念を口にする人が多く、今回、避難の呼び掛けはしないことになったのだけれど……。
(やっぱり、避難を呼びかけた方が良かったかなぁ。でも、今更無理だから、運を天に任せるしか……)
暗い空を見つめながら悶々としていると、不意に兄が芝生から上体を起こし、
「来るっ!」
と叫んだ。
「来るって、お父様、流れ星?」
「違う、地震だ!」
兄はこう叫ぶと、のんびり問うた倫宮さまの身体をしっかり抱きかかえる。その途端、地面が突き上げるように揺れ始めた。「きゃあっ!」と悲鳴を上げた希宮さまの身体を、私と節子さまが折り重なるように抱き締めた。
「……揺れは収まったようだな」
1分ほど経ったところで、兄がほっと息をついた。
「そうね。去年の9月の地震ほどじゃないけど、大きい地震だったわ」
希宮さまから身体を離しながら私は兄に応じた。
「嘉仁さま、章子お姉さま、御学問所に行かれるでしょう?」
私たちと同じように、今回の地震のことを予め知らされていた節子さまが問うと、
「ああ。これほどの地震だ。去年の地震ほどではないだろうが、何かしらの被害は発生しているだろう。残念だが、天体観測はおしまいだな」
そう答えた兄は倫宮さまの頭を撫で、「すまんな、興仁」と末っ子に謝った。
「嘉仁さま、奥は私が守ります。嘉仁さまは御学問所へ」
離れた場所に待機していた侍従さんや女官さんたちが、「お上、ご無事ですか?!」「皇后陛下!」などと叫びながら、ようやくこちらに向かって駆けつけてくる。その叫び声の中で、節子さまの声が一際力強く響いた。
「ああ、頼んだぞ、節子」
兄は頷くと、私に視線を向けて「行くぞ」と声を掛けてスタスタと歩き出す。
「章子お姉さま、嘉仁さまをよろしくお願いします!」
背中に投げられた節子さまの声に、私は振り向いて頷くと、少し遠くなった兄の背に向かって走った。
1924(大正9)年1月15日火曜日午前10時10分、皇居・表御座所にある御学問所。
「それでは、現在分かっている状況につき、ご報告申し上げます」
御学問所には、内閣総理大臣の桂さんが来訪していた。黒いフロックコートを着た桂さんの顔色は、普段のそれと全く変わっていなかった。
「まず、東京から各地への通信機能は著しく低下しております。電話線が各所で切断されたためです。現在使用できる長距離電話線は、東京―大阪線、東京―新潟線のみです。また、東京市内も電話が通じなくなっております。それを前提として、報告をお聞きいただければと存じます」
「!……分かった」
桂さんの言葉に兄は一瞬目を瞠ったけれど、すぐに表情を元に戻した。
「東京市内では、突然の地震に驚いた者が数名亡くなりました。また、崩れた家屋の下敷きになったり、避難しようとして2階から飛び降りたりして、数名が重傷を負っております。倒壊した家屋は東京市内で10棟、半壊した家屋は150棟に上っております」
「そんなにですか」
斎藤さんから事前に、“史実”の丹沢地震は、東京では殆ど被害は出なかったと聞いていたけれど、どう考えても、それより被害が大きくなっている。私が訝しげに反応すると、
「なるほど、この時の流れの関東大震災で、“史実”より多くの家屋が残ったからか」
兄が少しだけ顔をしかめて言った。「関東大震災では、“史実”より火災が広がらなかった。だから、もう1度大きな余震が来たら壊れてしまいそうな家屋が、“史実”より多く残ったのだろう。そういう家屋が今回の地震で壊れた。恐らくそういうことなのだろう」
(なるほどね……)
私が兄の言葉に密かに納得していると、「他にはどうだ?」と兄が桂さんに促す。
「小石川区で1か所断水が発生しましたが、水道・電気・ガスにそれ以外の問題は発生していません」
桂さんは兄に恭しく頭を下げて報告を再開し、
「東京市での目下の大問題は、内堀沿いの道路に広範囲に地割れが発生していることでございます」
容易ならざることを私たちに告げた。
「何?」
「桜田濠から日比谷濠、馬場先濠に沿った道路、2km余りにわたって大きな地割れが発生し、市電の線路もやられてしまいました。このため、三宅坂の参謀本部前から桜田門前、日比谷公園北東の交差点を経由して憲兵司令部前に至る内堀沿いの道路は、現在通行止めにしています。復旧には少なくとも1週間はかかると思われます」
桂さんの報告を聞いた私は、頭を思わず抱えたくなったのを必死に我慢した。参謀本部前から桜田門前を通り、日比谷公園北東の交差点を経て憲兵司令部前へと至る内堀沿いの道……それは私の通勤ルートの一部だ。関東大震災で壁や瓦の一部が崩壊した桜田門の様子に変わりが無いのを自動車の中から確認し、同じく関東大震災で傾いてしまった和田倉門の渡櫓が倒れずに立っているのを遠目で拝みながら皇居に入るのが、最近の私の朝のルーティンになっている。
(ってことは、朝に桜田門と和田倉門を見るのは、しばらくお預けかぁ……)
私がそう思った瞬間、
「市電がやられているということは、鉄道もやられているのではないか?」
兄が桂さんに問いを投げた。
「はい。東海道線は横浜より西で、線路の亀裂やトンネルの崩落が発生しています。また、山北の機関庫で、機関車の殆どが脱線し、戸塚駅でも停車中の列車が脱線したとのことです」
「!」
「東海道線は松田と下曽我の間で不通となっています。その他の個所でも、しばらくは単線での運行を余儀なくされそうです。また、甲武鉄道は武蔵境駅で上下線ともにホームが崩壊しました。東神奈川と八王子を結ぶ横浜鉄道では、長津田と原町田の間で線路が陥没し、復旧に1週間はかかる見込みとのことでございます」
「そうですか……」
思っていた以上に鉄道の被害が多い。私がうつむくと、
「東京帝国大学理科大学の今村教授によれば、震源は丹沢山中とのこと。従って、神奈川県では東京府より被害が大きいと思われますが、まだ詳しい情報は入ってきておりません。情報が入り次第、報告致します」
桂さんはこう言って報告を締めた。
「分かった。頼むぞ、桂総理」
兄が桂さんの目をしっかり見て言うと、桂さんは深く頭を下げ、御学問所を退出した。
午後になると、神奈川県の情報が入り始めた。横浜市では、東京市と同様に数名の死者と負傷者が発生し、30棟が全壊、100棟が半壊した。神奈川県の他の地域では、死者は合計8人、負傷者は約200人ということだったけれど、全壊した家屋は800棟、半壊した家屋は約3000棟になる見込みとのことだった。特に、神奈川県の西部では地割れがひどいところもあり、自動車や馬車が通れない道路も多数あるそうだ。
「……そりゃ、東京の中心部で地割れが起こるんだから、震源に近いところだともっとひどくなるわね」
「ああ。今はまだ内堀の周りの地割れのことしか情報が無いが、今後、下町、あるいは横浜方面での地割れの情報が入って来るかもしれないな。鉄道はだんだん復旧しているようだが……」
絶え間なくもたらされる情報を整理しながら、私と兄は御学問所で感想を言い合っていた。今回の地震は明らかに関東大震災より規模は小さいけれど、被害はやはり出てしまっている。関東大震災で受けたダメージから復興しようとしている関東の街に冷や水を浴びせるような地震の発生に、兄の顔は終始曇っていた。
午後5時に、宮内大臣の牧野さんが宮内省関係の建物の被害について報告にやって来た。2、3の宮邸で小さな破損が発生した以外は、特に大きな被害はなかったとのことで、私はほっと胸をなで下ろした。
私が皇居を出たのは牧野さんの報告が終わった直後、午後5時半過ぎのことだ。いつもの通勤路は通行止めで使えなくなっているので、私を迎えに来た川野さんが運転する自動車は、皇居の南側ではなく北側の道を通った。そのはずなのだけれど、辺りは夕闇に包まれていたので、どこを走っているのかよく分からないまま、私は盛岡町の自宅に到着した。




