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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第10章 1892(明治25)年夏至~1892(明治25)年立秋
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改軌論争(2)

「ああ、もう!」

 濡れた髪の水分をタオルで取りながら、私はいらいらしていた。

 こんなことになってしまったのは、皇太子殿下のせいだ。

 原さんの話をきっちり30分聞き終わった時に、皇太子殿下が、私を泳ぎに誘った。仕方ないので、大山さんに、“大隈さんと原さんに、お昼ご飯を出すように”と頼んで、前世(へいせい)の競泳用の水着デザインを参考に作ってもらった水着を着て、海に泳ぎに出た。髪の毛は豊田さん製のゴム紐を使ってまとめて、布の帽子の中に押し込んでいたのだけれど、それでも、海水で思いっきり濡れてしまった。井戸水を浴びて塩分を洗い落として、着物に着替えたけれど、この長い黒髪は、なかなか乾くものではない。ドライヤーなんてない時代だから、タオルで水分をできる限り取って、後は自然乾燥に任せるしかないのだ。

(水着も膝まであるから嫌だけど、泳ぐと、この髪を乾かすのが大変だから、それも嫌なんだよなあ……ああ、面倒くさい)

 ため息をつきながらも、一生懸命、髪の水分をタオルで取っていると、侍従さんが、昼食の準備ができたと私を呼びに来た。しょうがない、はしたないけれど、このまま出るしかない。

 お昼ご飯をさっと食べると、大隈さんと原さんから聞いた話で、疑問に思ったことを大山さんにぶつけて、少し話し合った。二人の話の要点は話さなかった。大山さんのことだから、応接間での大隈さんと原さんのプレゼンを、立ち聞きしていてもおかしくはないと思ったし、それに、

「梨花さまが泳ぎに行かれている間に、梨花さまの書かれた覚書を、拝見させていただきました」

と、最初からにっこり笑って言われてしまったからだ。流石、中央情報院総裁である。……一歩間違えれば、ストーカーだけれど。

「大山さん、原さんの話を聞いて思ったんだけど、“史実”での軌間の争いは、政治的な争いが相当絡んでいた感じがするの」

「“史実”での大隈さんの政党と、原の政党ですか」

「そう。だから、特に原さんの言葉は、今回に限っては、割り引いて考えないといけないかなって思う」

「よくお気づきになられました。(おい)もそう思います」

 大山さんは頷いた。

「そうよね……この時代、官営鉄道の駅が設置されることは、私の時代以上に、設置された地元にとっては発展のチャンスになると思うの。政治家が、駅を自分の政治力で設置させたと言えば、その地元の有権者は、その政治家に投票するよね。政権与党にとっては、いい票集めの手段になりうる……もしかして、原さんの立憲政友会って、“簡便な規格で、地方に鉄道を張り巡らす”という名目の下、鉄道敷設や駅の設置を有権者に対するエサにして、支持地盤を固めてたんじゃないかなって思う」

 私が言うと、大山さんが、

「そう考えた根拠は、何かおありですか?」

と尋ねた。

「私の時代でも、政治が鉄道路線や特急の停車駅に、ちょっかいを出すことがあったって、前世の祖父に聞いた」

 我が愛知県のお隣、岐阜県の岐阜羽島駅の設置時に、国会議員も巻き込んでごたごたがあった……祖父はそう言っていた。

「なるほど。原の政党のみならず、どの政治家もやりたがることでしょうね」

「しかも……賄賂がはびこる温床になりそうじゃない?」

「この論争がどんな結果になっても、そのようなことはさせませんが」

 大山さんはニヤリと笑った。どこか、凄みのある笑い方だ。

「しかし、もし軌間を広げるのであれば、どうなさいますか?予算の問題もありましょう」

「そうね……原さんは“10年で6000万円の予算があれば改軌はできると鉄道院は言ったが、大規模なレールの敷き直しが必要な作業、そんな金額で出来るはずもない。だからわたしは総理大臣になった時、その計画を中止させた”と言っていたけれど……」

「大正の御代で、その予算で出来ると、鉄道の所管部局が言ったのですか。確か、梨花さまは“授業”の時に、“第一次世界大戦の好景気とともに、インフレーションの傾向となり、物価も上昇した”とおっしゃっていましたね」

「ということは、大正時代の6000万円って、今の6000万円よりは価値は低い……」

 腕を組んで宙を睨んでいた私は、あることを思い出した。

「そうだ、もしかしたら、あれが使えるんじゃ……?」

 そう言った瞬間に、侍従さんが廊下から、“大隈閣下と原閣下が、増宮さまの様子を見て参れと……”と、恐る恐る私に声を掛けた。私は慌てて応接室に向かった。


「ごめんなさい、こんな格好で……」

 大隈さんと原さんは、応接室に入った私をじっと見つめた。さっき髪を洗った時に、髪を結んだゴム紐も取ってしまったので、今の私の髪型は、私が大嫌いな、呪いの市松人形スタイルなのだ。

「ああ……はしたないし、しかも、こんな髪型で、本当にごめんなさい。この髪型が嫌で、いつも髪は結ぶのだけど……」

 すると、

「いや、初めて拝見しましたが……この髪型の方が、美しさが際立ちます」

原さんが突然、意味不明なことを言い始めた。

(は?!)

 いつも、私と大山さんしかいない所では、上から目線の物言いの原さんが、こんなことを言い始めたので、私は目を丸くした。これから雪が降るのではないだろうか。

「おお、原君、分かってくれるか。吾輩も常々、増宮さまにそのことを申し上げているのだが、一向に聞き入れていただけぬ」

 大隈さんも訳の分からないことを言う。

「二人とも、お世辞はやめてください」

 私は抗議したのだけれど、

「わたしは、本気で申し上げているのですが……」

「さよう、吾輩も」

原さんも大隈さんも、こう言いながら頷いている。

「あのねえ……」

 私は頭を抱えた。

――増宮さんが自分を美人ではないと思うのは、増宮さんの育った時代と、今の時代とで、美しさの基準が違うからです。

 お母様(おたたさま)には、今年の私の誕生日にそう言われたけれど、やっぱり、今生の自分の顔が美しいのかどうか、私にはよくわからない。

(髪を短く切ったら分かりそうだけれど、皆に反対されそうだからなあ……)

 と、

「梨花さま、お話を、始めていただいてよろしいですか」

私の後ろから、大山さんが声を掛けた。

「そうね、わかりました。みんな、椅子に座ってください」

 私は椅子に掛けて、大隈さんと原さんの話をまとめたメモを手に取った。

「ええと……まず、二人の話から、広軌と狭軌の特徴をまとめますね」

 メモを見ながら、私は手元の紙に、鉛筆を走らせた。

『広軌の方が、横方向からの力に強く、脱線しにくい』

『広軌の方が、車両を大きくでき、機関車のボイラーや火室を大型化できるので、馬力を出せて速度が上げられる。また、貨車も大きくできるので、より多くの荷物が運べる』

『狭軌の方が、より急カーブを曲がることが可能である』

『狭軌の方が、線路の面積が狭く、より簡便に建設が可能。建設費用も抑えられる』

「こんなところかしらね……字、読めるかな?汚かったら、綺麗に書き直します」

 一気に書いて、私は紙を3人に示した。

「いえ、これで十分です」

 大山さんが頷いてくれる。

「増宮さまは、日本語の横書きの文章を、左から右に書かれるのですか……」

 大隈さんが私の書いた文章を見て、目を見張った。

「ああ、二人とも、私の書いた文章を見るのは初めてでしたっけ……。確かに、今の新聞の見出しや広告は、横書きの時は右から左に書いていますね」

「英語やフランス語と同じような書き方ですか。いや、横書きならば、こちらの方が合理的かと」

 原さんはそう言って頷いている。

「それに、漢字の形が違う……」

 大隈さんが「広」という字を指さした。

「ああ……旧字体だと、こうですよね」

 私は紙の余白に「廣」と書いた。「華族女学校(がっこう)の試験の時は、きちんと旧字体で書くのだけれど、それ以外の時はつい、私の時代の書き方で書いてしまいます」

「いや……この簡略化された形もよいかもしれないが、それよりは漢字の種類を減らすべきです。今、漢字の種類は1万以上もあります。すべてが必要とされてしまえば、識字率の低下にもつながります。ある程度制限せねば……」

 原さんが、私の書いた文章を、まじまじと見つめている。

「漢字が1万以上もあるって……嘘でしょう?私が前世で習ったのは2000字ちょっとでしたよ。“常用漢字”って言っていましたけれど」

「“常用漢字”ですか……それは是非、制定すべきです。それから、官公庁の文章や、新聞の文章の言文一致……」

「おお、それはいい考えじゃ、原君。それも、日本国民の識字率の向上につながるのではないか?」

「ああ、それは是非……華族女学校(がっこう)での作文、文語体で書けという要求が多くなってきて、ちょっと辛くなっていて……」

 思わぬ論議で盛り上がる私たちに、

「皆様、話が逸れておりますよ」

大山さんが優しく声を掛けた。原さんと大隈さんは慌てて口を閉ざした。

「あ……、ごめん、大山さん。本筋に戻すよ」

「かしこまりました」

 大山さんは私に軽く頭を下げると、微笑した。

「さて、さっき書いた特徴を頭においてもらって、私が生きていたころの、未来の鉄道の話をするけれど……さて、大隈さん、質問です。今から約125年後、鉄道って、どのくらい建設されていると思う?」

「125年後、ですか……。6月に、鉄道敷設法で予定線が決まりましたが、それは敷設されているのでしょうな?」

「ごめんなさい、その予定線の内容、全く覚えていないのだけれど……」

「資料になるかと思いまして、その日の官報を持参しております、殿下」

 原さんが、鞄の中から官報を取り出した。1ページ目の冒頭から、“朕帝国議会の協賛を経たる鉄道敷設法を裁可し(ここ)(これ)を公布せしむ”と書かれている。

「ナイス、原さん!じゃあ、早速確認するけれど……あれ?」

 官報の内容を確認した私は、首を傾げた。

「どうなさいましたか?」

「大隈さん……予定線ってこれだけ?」

「これだけ、とは?」

「東京に限って言えば、山手線がないし、埼京線もないし、私鉄や地下鉄も全然ないわ。名古屋も、私鉄も地下鉄もないし……」

「お、お待ちください、増宮さま。地下鉄、というのは、地下鉄道、というものですか?ロンドンにあると、聞いたことがありますが……」

 私の言葉に、大隈さんが慌てた。

「ああ、地下鉄って、今の時代もあるんですね……私の時代では、東京には地下鉄が、網の目のように張り巡らされていました。駅の間はそうね、1.5kmぐらい……いや、もっと短かったかな?」

「な、なんですと……」

 大隈さんが口をぽかんと開けた。大山さんも驚いているようだ。原さんも動揺はしているようだけれど、他の二人より驚き方が少ないということは……。

(もしかしたら、“史実”の原さんが生きていた時代に、実際に東京に地下鉄が建設されていたか、建設計画ぐらいは立ちあがっていたのかな?)

「ちなみに、私鉄会社も何個かありました。名古屋にもあったし、東京と大阪にも、いくつか大きな私鉄会社があったはず。大都市圏では、そういった鉄道会社と、JR……多分、これが今の官営鉄道の後身の会社になるんだけど、その鉄道会社の線路がたくさんありました。ラッシュ……一番鉄道が混んでいる時間帯だと、2、3分おきに列車が来るんだけど、それでも混んでて乗れないし、乗れても押し合いへし合いで……」

「梨花さま、一体、どの位の混雑だったのでしょうか?」

 大山さんが質問する。

「うーん、そうねえ……4人乗りの馬車があるでしょう。あれに無理やり6人詰め込む……いや、8人?」

「それでは、席に座れない者も出てくるのでは?」

「始発駅以外で、席に座れたら奇跡よ。満員電車ってそういうものだから」

「それは……すさまじいですな」

 大山さんは、息を大きく吐いた。

「しょうがないわ。私が死ぬ寸前の日本の人口って、1億2千万人いたの。東京都……今の東京市と、多摩地域を合わせての人口は、約1千万人だったかな。神奈川、埼玉、千葉も人口が膨れ上がっていた。横浜が……350万人ぐらいだっけ?」

「なんと……今の我が国の人口が4000万人余りだが、その3倍と……」

 大隈さんが、目を丸くして呟いた。

「要するに、東京に勤務先がある人が、その周辺に住むようになるでしょう?東京がどんどん発展してくると、住宅地が足りなくなって、更に郊外に住居を構えることになるんです。この鎌倉のあたりだって、東京に勤めに出る人が、土地を買って住むケースが結構ありました。横須賀や藤沢あたりまで、東京に勤めに出る人が住んでいましたね」

「こ、この鎌倉に、ですか……?!」

 原さんが驚いている。流石に大正時代だと、鎌倉まではベッドタウン化は進んでいなかったようだ。

「それが可能になったのは、技術が進んで、列車がスピードアップできたから、かな。今の列車、明らかに、私の生きていた時代の電車より速度が遅いです。新橋―横浜間が、今、汽車で45分かかるけれど、私の時代、30分……かかったかな?」

「なんですと?!そこまで、速度が上がるのですか!では、線路の幅も広いのでしょうな?」

 大隈さんが興奮しながら私に尋ねた。

「いいえ、今のまま」

「へ……?」

「大隈さん、線路の幅、今のままです。少なくとも、官営鉄道だった路線は」

 私は大隈さんに静かに告げた。


「そ、そんな馬鹿な!」

 大隈さんは、明らかに狼狽していた。

「と言われても……未来のJRの線路幅と、今の鉄道の線路の幅、どう見ても同じにしか見えないんですよ」

 私は少し困りながら、大隈さんに答えた。

「それで、速度の上昇が可能だったのですか?!」

「うん、可能だったんでしょう……。でしょう、としか言えないのだけれど、私の時代の電車、時速80kmとか100kmとかは出してましたしねえ……」

 私はあいまいに頷いた。機械の構造には全く詳しくないから、推測でしか言えないけれど……。

「列車の動力源のほとんどが、電気だったからかもしれません。そこで、モーターの技術革新が起きたのかもしれません。技術の発展の流れが、全然分からないから、推測での話になってしまうのだけれど……」

「電気が動力になるのですか。すると、蒸気で動く列車は?」

「滅多に走っていませんでした。たまに、観光客の誘致目的で走っていました」

「観光客を誘致するために、蒸気機関車を走らせる、ですか……。時代は変わるのですね」

 原さんが呟く。

「まあ、話はそれたけれど、レールが狭くても、技術の進歩があれば、速度は上げられる。これは“史実”で証明されています」

 私は、紙に書いた2番目の条項に、『但し、技術が“史実”並みに進歩すれば、レールが狭くても速度は上げられる(何年後かは分からない)』と付け加えた。

「次に、貨物についてだけど、これも、レールが広ければいいとは言えないはずよ」

「な、何ですと……?」

 大隈さんが驚いている。

「だって、荷物を運ぶには、貨車が必要でしょう?貨車の強度が弱ければ、レールが広くても、重いものは運べない。あと、レールの路盤が弱かったり、鉄橋の強度が弱かったりしてもダメ。運行している最中に、鉄橋やレールが崩壊したら大変でしょ?」

「確かに」

 大山さんが頷く。

「では、増宮さまは、現在の軌間のままでよろしい、とお考えでしょうか?」

 原さんが、ニッコリしながら私に言った。「それはそうでしょう。今必要なのは、軌間は狭いまま、簡便でもよいので、国の経費で鉄道を建設して、地方の発展を促すこと……」

 原さんが鋭い視線を私に飛ばした。

――当然、“史実”と同じ経過を辿らせるべきだ。そう言うのだ、主治医どの。

 眼光が、明らかに私にそう迫っている。

「あー、軌間について、私の考えを言え、と……?」

 白刃のような視線に耐えられなくて、私は、わざと原さんから目を逸らした。目を逸らした先にいる大山さんの顔が、少しだけ緊張している。

(あの、大山さん?お願いだから、殺気は出さないでね?秘密を知らない大隈さんもいるんだからね?)

 少しハラハラしながら、大山さんの顔の上に視線を留めていると、大山さんが私の方を振り向いた。そして、あの優しくて、暖かい目で私を見つめて、頷いてくれた。

(うん、頑張る……)

「あの、原さん?私、鉄道オタクではないし、経済感覚はずれているから、コスト面での論議は穴だらけだけど、それでもいいですか?」

 私は原さんに向き直ると、彼を正面から見据えて微笑した。

「おたく?」

「ごめんなさい、つい前世の言葉が。とにかく、鉄道には詳しくないけれど、それでもいいですか?」

「よろしゅうございますとも」

 原さんのこの表情は、完全に、自分の勝利を確信している感じだけど……。

「じゃあ、私の考えを言いますね……私は、主要路線は、レールの幅を広げるべきだと思います。というか、歴史上、レールの幅を広げ始めるのは、今しかないです」


※水着……本来ならば、現代の長いワンピースのような形状の水着(「風俗錦絵雑帖」の中の小国政作「大磯海水浴 富士遠景図」の女性が着ているもの)を着て海に入るのが普通のはずですが、これで遊泳はちょっと大変ではないかと思い、主人公にデザインを改造させました。ただ、このデザインの水着、明治時代基準だと、大人になったら「はしたない」と言われて着られなくなりそうですね。


※今の地下鉄銀座線を建設した「東京地下鉄道」が設立されたのは1920(大正9)年。したがって、原さんは東京の地下鉄建設計画については知っていたはずという設定です。


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