母の覚悟、娘の覚悟(3)
1923(大正8)年10月18日木曜日午後5時35分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「万智子、このまま、1人でおじい様の書斎に来なさい。いいね」
私と栽仁殿下の共用書斎に現れた私の義父・威仁親王殿下は、私の長女・万智子にこう言い残して共用書斎から出て行く。続いて共用書斎を出た長女の後ろから、私が足音を忍ばせて共用書斎を出ようとすると、
「梨花さん」
横から栽仁殿下が私の手を掴んだ。
「1人で、って……万智子は父上に言われただろう?」
「そうだけどさ」
たしなめる栽仁殿下に応じると、私は口を尖らせた。
「心配なのよ。万智子がお義父さまに何を言われるか……。万が一、万智子がひどいことを言われたら、フォローしないといけないし」
私はいったん口を閉じると、夫の目をジッと見つめ、
「栽さんは万智子のことが心配じゃないの?」
と尋ねた。
「それは心配だけれど……」
「じゃあ、一緒に万智子について行こうよ」
「それは、万智子を甘やかし過ぎというか、過保護じゃないかな」
「むー……」
私は顔をしかめるとうつむいた。確かに、夫の言う通りではある。万智子は12歳、そろそろ、大人からの干渉が煩わしくなる時期だろう。それなら敢えて、彼女を放っておくのもありかもしれないけれど……。
(でも、何かあった時に頼れるように、父親と母親が陰にいるべきかもしれないし……だけど、それが万智子に分かっちゃったら、万智子に両親への過度な依存心が生まれちゃうかもしれないし……あー、これ、どうしたらいいんだろう……)
前世で子育てをした経験があったら、どうすればいいのか分かるのかもしれないけれど、悲しいかな、子育ては今生が初体験だ。最適な答えを導き出せないでいると、
「書斎の外から、有栖川宮殿下と女王殿下のお話をそっと聞くぐらいなら、よろしいのではないでしょうか?」
我が臣下が微笑しながら提案した。
「そうか、その手があったわね。……行こう、栽さん」
私が夫の手を握ると、「しょうがないな」と言いながら彼は私の手を握り返す。大山さんと3人で足音を忍ばせながら義父の書斎の前までやって来ると、私たちは書斎のドアに身体を寄せ、中の様子を窺った。
『万智子、お前が臨時病院に入り込んだ経緯は金子から聞いた』
ドアの向こうから漏れ聞こえる義父の声は、思いのほか穏やかだった。どうやら、万智子をいきなり叱ることはないようだ。
『……しかし、そもそもの話として、だ。なぜ万智子は、無茶なことをしてまで、臨時病院を手伝いたいと思った?いや、明確な理由が無いなら無いでよいのだが……』
『私、医者になりたいのです』
祖父の質問に、万智子はハッキリと答えた。
『別に、母上と同じになりたいと思っている訳ではありません。でも私、人の役に立ちたいし、人を助けたいのです。だから、医者になりたいのです。もちろん、私にはまだ医療はできませんが、臨時病院のお手伝いが少しでもできたら、実際の医療の雰囲気を掴めて、将来に生かせると思いました』
万智子の声はここでいったん途切れ、
『お願いです、おじい様。私に、臨時病院のお手伝いをさせてください。もちろん、華族女学校の勉強の邪魔にならない範囲に留めます。けれど、私、将来の夢に少しでも近づきたいのです。……どうかお願いします、おじい様!』
続いて、大きな、そして熱っぽい彼女の声が聞こえた。
(万智子……)
義父の返答は、まだ聞こえてこない。ドアの向こうの沈黙が破れるのを、今か今かと待っていると、
『……万智子、お前の母上が、なぜ医師を目指したかは知っているか?』
義父の穏やかな声が響いた。
『いえ……』
『だろうね』
戸惑うような万智子の返事に、義父の声が重なる。『そういうことが言えない人だ、万智子の母上は。まして、身内が相手なら余計に、だろう』
(お義父さま?)
義父は万智子に何を言いたいのだろうか。私が訝しく思っていると、
『万智子の母上が医師になろうと決心したのは、一言で言ってしまえば、天皇陛下と先帝陛下を病からお救いするためだ』
義父は万智子にこう言った。
『今も昔も、天皇陛下には幾人かの侍医が付き従っていて、お身体の診察や治療をしている。ところが、昔は、天皇陛下や皇太子殿下をはじめとする皇族の身体には、例え治療のためであっても、傷をつけてはいけないというしきたりがあった。昔と言っても、1000年や2000年の昔ではない。天皇陛下が今の万智子ぐらいのご年齢であらせられた頃には、そのしきたりは現役だった』
「……そう言えば、そうでしたな」
義父の言葉に、大山さんが頷いて小さな声で言った。「今は梨花さまのおかげで、粉々に破壊されたしきたりですが」
「閣下、静かにしてください。父上の声が聞こえなくなります」
ドアに身体をピッタリ寄せた栽仁殿下が小声で注意しながら睨むと、大山さんは軽く頭を下げて口を閉じる。そして私たちは、再び書斎の中に意識を集中させた。
『今から30年以上前……天皇陛下が皇太子でいらっしゃって、今の万智子と同じぐらいのご年齢であらせられた時、天皇陛下は万智子の母上とご一緒に、伊香保の御用邸に避暑に行かれた。その時、天皇陛下は高熱を出して倒れられた。侍医の見立てではマラリアではないか、ということだったが、診断をはっきりさせるためには、指の先を針で刺して血を数滴絞り出し、その血を顕微鏡で観察する必要があった。……指の先を針で刺すということは、天皇陛下の身体を傷つけるということになるね。侍医はしきたりのために検査ができず、皆が困ったその時、その頃は増宮さまとおっしゃった万智子の母上が、自分が天皇陛下の指に針を刺すと申し出たのだ。臣下が検査のために、皇族の身体に傷をつけるのが許されないのであれば、皇族である自分が検査のために、皇族の身体に傷をつけるのは許されるはず……確か、こういう理屈だったかな。そして、万智子の母上は、侍医からやり方を教わって、天皇陛下の指に針を刺して血を数滴取った。その血を顕微鏡で観察した結果、天皇陛下のご病気はマラリアであると確定し、特効薬のキニーネで天皇陛下はご快復された』
(そう言えば、そうだったわねぇ……)
今生での幼い頃の出来事を、私は義父の声とともに懐かしく思い出した。今生の父と兄が病気になった時に立ちはだかる非合理的なしきたり……父と兄を回復から遠ざけてしまうそのしきたりの存在を知って、私は、医者として、父と兄を助けたいと強く思ったのだ。
『その時、万智子の母上は、医師になることを決心した。医学の検査や治療の中には、患者を傷つけなければできないものがある。しきたりがあっても、皇族である自分が医師なら、相手が天皇陛下であっても十分に治療ができる。治療ができて、天皇陛下がお元気になられるのであれば、何と罵られても構わない。例え後の世に大悪人と名指しされて批判されても構わない……。私は直接聞いたわけではないけれど、万智子の母上はそのようなことを言っていたそうだ』
(……)
私はうつむいて、自分の右手をジッと見つめた。
『そして、万智子の母上は医師免許を取った。今よりも女性が医師になるのが大変な時代に、皇族の特権を使うことなく、試験を受け、自分の力だけで医師になった。それだけでも並々ならぬ決意が必要だったと思うが、それをやり遂げたのは、万智子の母上が、天皇陛下の命を預かるという強い覚悟を持っていたからだろう。今は殆ど医師の仕事はしていないけれど、天皇陛下をお助けするという覚悟は、昔と変わってないと私は思う』
穏やかな声で話し続けていた義父は、一度言葉を置いた。
『万智子。……別に、天皇陛下のお命を預かるという覚悟を持て、とは言わない。しかし、医師として、他人の命を預かるのは、生半可な覚悟でできることではない。……万智子、お前は、その覚悟を持っているのか?』
娘が息を呑む音が、ドアの向こうから聞こえた気がした。
『持っているというなら、医師を目指すことを、有栖川宮家の当主として認めよう。だが、その覚悟を持っていないのなら、医師を目指すのは認めない』
『おじい様……』
娘の喘ぐような声が聞こえる。思わずドアノブに伸ばそうとした私の手を、栽仁殿下が慌てて押さえた。
『……万智子、大事なことを伝えておこう』
ドアの向こうからは、義父の声が優しく伝わって来た。
『万智子の母上は、当代一の才女と言われているが、別に、娘の万智子が、母上と同じにならなくてもいいのだ。万智子には、万智子の母上にはない良いところがたくさんある。万智子、お前は母上と同じにならなくても、十分に素晴らしい私の孫だ。だから、本当に自分が医師になりたいかどうか、落ち着いてよく考えてごらん』
「……皆さま、離れてください」
義父の声が聞こえなくなった瞬間、大山さんが私と栽仁殿下に囁く。慌てて義父の書斎から離れ、私たちが廊下の陰に身を隠すと、万智子が書斎から出て、私たちがいる方とは反対側にある階段へと歩いていくのが見えた。
(終わったの……かしら?)
こちらに背を向けて去っていく娘の姿を見つめていると、
「嫁御寮どの、そこにいるのでしょう?」
書斎のドアが突然開き、そこから顔を出した義父が私を呼んだ。私が黙って義父の書斎に入ると、栽仁殿下と大山さんも私に続いて書斎に足を踏み入れた。
「ああ、栽仁と大山閣下もいたのですか」
つまらなそうに言った義父に向かって、
「あの……お手間を取らせてしまい、申し訳ございませんでした」
私が深く頭を下げて謝罪すると、
「なぜ嫁御寮どのは私に謝るのですか?」
彼は口調を変えずに私に尋ねた。
「いえ、その……お義父さまが万智子に言っていただいたことは、本当は、私が言うべきことだったと思うので……」
「嫁御寮どのは、あのようなことは言えないでしょう」
頭を下げたままの私に義父は言った。「自らを傷つけることがなくなっても、自分を誇るように聞こえてしまう話をするのは、嫁御寮どのは大の苦手だ。ま、それが可愛いのですが」
「……」
私が義父に返答できないでいると、
「栽仁、嫁御寮どの」
義父は夫と私を呼んだ。
「初めから親として完璧な人間などいません。皆、悩みながらも、親としての務めを果たしているのです。だから、迷った時は、経験者にいくらでも助けを求めてよいのですよ」
「……ありがとうございます」
栽仁殿下が父親に向かって頭を下げ、私も一緒に最敬礼をした時、
「きゃああああああああっ?!」
突然、千夏さんの凄まじい悲鳴が響き渡った。
「み、宮さまっ、宮さまーっ!ど、どちらにおいでですか?!て、天皇陛下から、天皇陛下から、お電話がーっ!」
動きが止まった私たちの頭の上を、千夏さんの大声が暴風のように駆け抜けていく。その内容で、何が起こったか、私は大体察してしまった。
「……、これ、兄上から直電が来たってことよね」
私が確認するように言うと、「ですな」と我が臣下が頷いた。
「陛下も、万智子女王殿下が行方知れずになったことはご存知ですからな。どんな経過になったのか、ご心配なのでしょう」
「……ってことは、大宮御所にも連絡を入れないとまずいわね。お母様も、万智子が行方不明になったって知っているし……」
「それはご連絡申し上げなければならないでしょう」
義父が私に厳しい口調で言った。「事態が解決したとお知らせ申し上げなければ、皇太后陛下がご心痛を受けることになります」
(ああ、そうだわ……)
今日、大宮御所で第一報を受けた時のことを私が思い出した瞬間、
「宮さまーっ!」
鼓膜をつんざくような千夏さんの声が、再び本館に響いた。
「ああ……とにかく、1つずつやらなきゃ。まず、兄上の電話に出て、それから、大宮御所に連絡を入れて……」
「だね」
「ですな」
指を折ってタスクを列挙する私に、栽仁殿下と大山さんが応じる。万智子が行方知れずになった騒動は表面上収まったけれど、大人たちの後処理は夜が更けるまで続いた。
※後日、別館にて……
金子「いいですか、禎仁王殿下!全ての敵地潜入計画においては、目的を果たした後、安全地帯まで脱出することが最も大事と言っていいのです!潜入には必ず脱出が伴う!禎仁王殿下の計画には、脱出という視点が欠けております!」
禎仁「うん、それは分かるけど、爺……これは罰なの?僕は兄上みたいに、お裁縫はしなくていいの?」
金子「もちろん、罰でございます。お兄上は将来海兵を目指されるとのこと。船乗りは皆、縫い繕いは自分でやるものと、国軍大臣の山本閣下はおっしゃっております。ですからお兄上には、掃除とともに裁縫をやっていただくことにしたのです。しかし、禎仁王殿下は海兵を目指されていないということですから、裁縫の代わりにこうしてお説教しているのです」
禎仁「お説教……?」
金子「さぁ、無駄話をしている場合ではないのです。禎仁王殿下の今回の計画の不行き届きな点を、徹底的に洗い出しますぞ!」
禎仁「は、はい」(これ、僕にとっては罰じゃなくてご褒美なんだけど、……言うのはやめとこう)




