母の覚悟、娘の覚悟(1)
1923(大正8)年10月18日木曜日午後4時5分、赤坂御用地内にある東京大宮御所。
「それで、いよいよ関東大震災の本震がやって来て、お庭に集まった皆さま、驚かれてしまったの」
大宮御所のお母様の居間で、私は10日前に東京に戻ったお母様と気楽にお喋りをしていた。今日は平日の午後、本来ならば私は皇居で勤務中なのだけれど、今は兄から“手紙をお母様に届けろ”という命令を受けている。皇族の会食や遊興を極力控えて費用を切り詰め、浮いた費用を関東大震災の罹災者への支援に充てるという宮内省からのお達しがあるため、いつもの“使い”の時とは違って、食事やおやつが出されることはないけれど、震災発生以降初めてゆっくり会うことのできたお母様とのお喋りはとても楽しく、時が経つのを忘れてしまう。
「それはそうですね。でも、地震のことを知っていた人は、そんなに驚かなかったんじゃないですか?」
楽しそうな声に釣り込まれるように、私がお母様に確認すると、
「そうですね。でも、日光でも揺れは大きかったですから、私も花松どのも、素直に驚いてしまいました。陸奥どのと西園寺どのは、揺れにも動じず端然と立っていらっしゃいましたから、流石だと思いましたけれど」
お母様はこう答えて、机の上にある紅茶を一口飲んだ。
「でもね、増宮さん、陸奥どのと西園寺どのの他にも、震災に動じない方がいらっしゃったのです。どなたか分かりますか?」
「うーん……乃木閣下でしょうか?」
乃木さんは希宮さまの輔導主任だから、彼女に従って日光にいたはずだ。私がお母様の質問に答えると、
「いいえ、乃木どのもうろたえていましたよ。希宮さんを抱きかかえて守るのがやっと、という感じでした」
お母様はこう言って微笑する。
「……分かりません。降参です、お母様。一体誰が動じていなかったのですか?」
私が首を左右に振って尋ねたところ、
「詠子さんですよ」
お母様は私の姪っ子の名を挙げて、クスっと笑った。
「ええ?!」
「本当ですよ。驚き慌てていた私たちに向かって、詠子さん、“うろたえるな!”と一喝なさったのです。それで皆さま我に返られて、落ち着きを取り戻したのですよ」
「はぁ……」
お母様の言葉が私には信じられなかった。私の弟・鞍馬宮輝仁さまの長女である詠子さまは、1919(大正4)年4月29日生まれだから、まだ5歳にもなっていない。その子供が、大地震にうろたえ騒ぐ大人たちを一喝する……そんなことがあっていいのだろうか。
「詠子さんは、年齢のわりに、しっかりなさっていますからね」
戸惑う私をなだめるかのように、お母様が優しい声で言った。「もう、ひらがなは、全部読み書きできますよ。日光では私がいろは歌を教えて、一緒に書いていました」
「そうですか……」
私の子供たちも、私の義理の両親に教わって、今の詠子さまと同じぐらいの年頃に、いろは歌を書いていた。なら、詠子さまが年齢に比して成長し過ぎているということはないか……と私が考えた瞬間、
「増宮さん、紅茶のおかわりはいかがですか?」
お母様が私のティーカップを見て尋ねる。「では、いただきます」と私が一礼すると、お母様は机の端に置いてあるベルを鳴らして廊下に控える女官さんを呼び、私の新しい紅茶を持ってくるように言いつけた。
「……そう言えば、お母様が紅茶をお飲みになるのは珍しいですね」
女官さんが立ち去った後、私はお母様に話しかけた。お母様の所に行った時に紅茶を出された記憶がなかったので口にした言葉だけれど、
「実は、先日、イギリスのエドワード皇太子殿下からいただいた紅茶なのです。地震のお見舞い、ということで……」
お母様からは意外な答えが返ってきた。
「エドワード皇太子からですか」
数か月前に来日したお騒がせな皇太子殿下の顔を思い浮かべると、
「ええ。なんでも、詠子さんのところにも贈られたそうですよ」
お母様は私にこう教えてくれた。
(私の所には来てないなぁ……ま、あの人からの贈り物なんて、受け取りたくないけど)
私がそんな感想を抱いた瞬間、障子が廊下側からスッと開かれる。紅茶のおかわりがもう来たのかと思ったけれど、女官さんは何も持っておらず、顔も強張っていた。
「どうなさったの?」
穏やかな声で尋ねたお母様には応じず、女官さんは私の方を向くと、
「内府殿下、皇居より緊急の知らせです。万智子女王殿下の行方が知れなくなったと……」
思いがけない凶事を私に告げた。
1923(大正8)年10月18日木曜日午後4時45分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「内府殿下、お帰りなさいませ」
皇居に大宮御所から直接帰宅する旨の連絡を入れ、自動車で急いで帰宅すると、別当の金子堅太郎さんが私を出迎えてくれた。いつもは静かな自宅は、流石に今は騒然としていた。
「若宮殿下は、先ほど国軍省を発たれたとのこと。それから、大山閣下もこちらに向かわれています」
金子さんは私に緊張した声で告げる。栽仁殿下はともかく、大山さんは私の代わりに兄の政務の手伝いをしているはずだけど……と私が考えた時、
「おや、梨花さまとほぼ同時でしたか」
その大山さんの声が背後から突然聞こえたので、私は飛び上がりそうになった。
「お、大山さん、驚かさないで……何でいるのよ……」
私に引き続いて到着したらしい。後ろを振り向くと、大山さんが立っていて、
「陛下にお許しをいただきました。主君の一大事は、臣下の一大事でございますから」
落ち着き払った口調で私に言った。
「気持ちはありがたいけれど、驚かさないで欲しいなぁ……」
私はため息をつくと金子さんの方に向き直り、
「金子さん、万智子がいなくなった経緯、詳しく説明してください。万智子の姿を最後に確認したのはいつですか?」
と尋ねた。
「はい。華族女学校の授業が終わった後、午後3時頃に、女官と2人でご帰宅なさっています」
金子さんは私に頭を下げてから説明を始める。私が華族女学校に通っていた頃は、華族女学校の校舎は麹町区永田町にあったけれど、1912(明治45)年に本館が火事で全焼してしまったので、今は赤坂区の青山北町3丁目に移転している。人力車や馬車、あるいは自動車で送迎されている生徒が多いけれど、万智子は院の職員でもある女官さんに付き添われ、市電に乗って通学していた。
「ご帰宅後、ご自分のお部屋に入られた所までは確認しておりますが、3時45分ごろに、女官がお部屋に牛乳をお持ちしたところ、ドアをノックしても中からお返事が無く、お部屋に姿が無かった……と、こういう訳でございます」
「家の中は探してくれたんですよね?」
「はい、本館、別館を含め、敷地内は隈なく捜索しましたが、お姿が見えません。午後3時以降の人や車の出入りも調べましたが、不審な点は無く……」
(万智子……)
私は宮内官の制服のスカートを太ももの上から掴んだ。万智子は女王だから、皇族の中では位は低いけれど、私と栽仁殿下にとって大切な娘だ。そのかけがえのない娘が、突然いなくなってしまうなんて……。歯を食いしばったその時、
「つまりまだ、この敷地内にいる可能性もあるということですな」
大山さんがのんびりとした口調で言った。
「金子さん、一度、女王殿下のお部屋を見せてください」
「もちろんです。どうぞ」
金子さんはかつての上司に一礼すると、先に立って大山さんを案内する。私も金子さんと大山さんについて行くことにした。
子供たちの部屋は、私の出産の時に増築された分娩所の建物の中にある。万智子はその中の2間続きの洋室を、居間と寝室として使っていた。万智子の居間と寝室は、いつものように綺麗に片付けられていた。
「この部屋は、女王殿下のお姿が見えなくなった時のままですか?」
大山さんの言葉に、金子さんが黙って頷く。
「やっぱり、万智子はしっかりしてるわねぇ……部屋も綺麗に片付けて……」
私が娘の部屋を見渡しながら感想を口にすると、
「ところで金子さん、女王殿下はお帰りになってから、服は着替えられたのですかな?」
大山さんが金子さんに尋ねた。
「確か、今朝は、黒と水色の縞模様の着物に、紺色の女袴をお召しでしたが、お帰りになってすぐに服を着替えられることもありますので……」
「そうね」
今朝、食堂で顔を合わせた時の万智子の姿を思い出しながら、私は金子さんの答えに首を縦に振る。娘は学校から帰った後、“家事をするから”と言って、汚れてもいいような古い着物に着替えることもあるのだ。
すると、
「では、その衣紋掛けに掛かっているお着物は、今朝お召しになっておられたものですかな?」
そう言いながら、大山さんが私の後ろを指し示す。寝室の壁に、万智子の着物が衣紋掛け……和服用のハンガーに掛けられた状態で吊るされている。着物の柄は、今朝万智子が着ていた、黒と水色の縞模様だった。
「じゃあ、万智子は着替えてる……」
私が呟いた時、居間の方で物音がした。ハッとして目を向けると、万智子の弟たち……私の長男の謙仁と次男の禎仁が、部屋のドアから心配そうに私たちを見ていた。
「大山の爺、こんにちは」
謙仁がこちらにペコリと頭を下げると、
「金子の爺、姉上は見つかった?」
禎仁が金子さんのそばまでやって来て、金子さんを見上げながら尋ねた。
「いいえ、まだ見つけられておりません」
金子さんが首を横に振ると、
「そっか……。僕、姉上探すの、手伝おうか?」
禎仁は金子さんにこう申し出た。
「大丈夫ですよ。女王殿下は爺たちでお探し申し上げますから、謙仁王殿下と禎仁王殿下は、お部屋で宿題をなさってください」
金子さんが禎仁に優しく言うと、
「ところで……謙仁王殿下と禎仁王殿下は、学習院からお帰りになってから、女王殿下のお姿はご覧になっていらっしゃいませんか?」
大山さんも優しい声で謙仁と禎仁に聞いた。
「見てないです」
謙仁が短く答えると、
「うん、僕も。兄上と一緒に3時10分ぐらいに家に帰って、その後30分ぐらい、本館の周りで兄上と遊んでたけど、姉上には会わなかったな」
禎仁が兄の答えに補足するように言う。
「そう。……遊んでいる時に、怪しい人影は見なかった?」
「……気が付かなかったよ」
私の質問に、禎仁は一瞬考えてから答えた。
「さようでございますか」
大山さんが微笑して頷いた時、
「宮さまーっ!金子閣下―っ!どちらにいらっしゃいますかー?!」
千夏さんの大きな声が突然響き、室内にいる全員が驚いて動きを止めた。
「宮さ……」
「千夏さん、ここにいるわよ」
慌てて廊下に出た私は、千夏さんの叫び声を止めた。私の姿を見つけた千夏さんは、私めがけてまっしぐらに走ってくる。
「どうしたの、一体……」
私の問いには答えず、千夏さんは私の右手首をガシッと掴み、
「おいでください!」
と言いながら、私の手首を強く引っ張る。柔道をたしなんでいる千夏さんの強い力に逆らえるはずもなく、私は彼女の意のまま、引きずられるように廊下を歩く。連れて来られたのは玄関だ。そこには、国軍省から帰宅した夫と共に、思いがけない人物がいた。
「あ、あのさ、万智子が行方不明になったって聞いたから、急いで帰ってきたんだけど……」
戸惑う栽仁殿下のそばには、黄緑色の着物に深緑色の女袴を付けた万智子が立っていた。




