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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第75章 1923(大正8)年白露~1923(大正8)年冬至
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変わったもの、変わらないもの

 1923(大正8)年9月17日月曜日午前10時、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。

「帰着が遅れまして、誠に申し訳ありませんでした」

 兄に向かって最敬礼したのは、兄の侍従の1人、甘露寺(かんろじ)受長(おさなが)さんだ。兄の命を受け、積極的に関東大震災の被災地を回っている彼は、ここ数日、小田原方面へ慰問と視察に行っていた。

「いや、構わん。無事に戻って来てくれて何よりだ」

 甘露寺さんに微笑して頷いた兄は、

「戻るのが遅くなったのは、やはり天候が悪かったせいか?」

と甘露寺さんに優しく尋ねた。

「はい。豪雨で川が増水し、東海道線の渡し船での連絡が中止になりまして……帰りは軍艦に便乗させてもらって東京に戻りました」

「そうか。それは苦労を掛けたな」

「いえ、発災直後に比べましたら、移動は楽になってきています。東北方面への移動は容易になりましたし、西に行くのも、清水港まで船で出れば……」

 そこまで言った甘露寺さんは、兄の横に控えている私の顔に視線を注ぎ、

「あのー、内府殿下?お顔色が少しよろしくないように思うのですが……」

と私に聞いた。

「え、ええと……」

 まさか、舅との同居について思い悩んでいるとは言えない。私が言い淀んでいると、

「後で教えてやる、甘露寺」

兄がこう言ってニヤッと笑った。

「さて、報告してくれ。小田原方面はどんな様子だった?」

「……小田原町では、全世帯の6割が倒壊しました。小田原町には閑院宮(かんいんのみや)殿下の御別邸もございますが、そちらも全壊しております」

 甘露寺さんは軽く一礼すると、早速兄に報告を始める。

「6割が全壊……」

 呟いた兄が顔をしかめると、

「折からの防災訓練中に地震が発生しましたので、死傷者はほとんど無く、火災の発生も無かったそうですが……」

甘露寺さんはこう付け加えて、再び頭を下げる。

「やっぱり、震源に近いですからねぇ……」

 私は軽くため息をついてから、「片浦村(かたうらむら)にも行ったんですよね?」と甘露寺さんに尋ねた。

「はい。片浦村では、3か所で大規模な地滑りが発生しました。米神(こめかみ)という集落では、山の斜面に造られたみかん畑が地滑りを起こして人家を襲い、10名ほどが犠牲になりました。また、熱海線の根府川(ねぶかわ)駅では、駅舎の背後の斜面が崩れまして、駅舎や線路は土砂と共に海中に没しました。幸い、防災訓練中だったため、駅舎やホームに人はおらず、列車が地滑りに巻き込まれることもありませんでしたが、もし防災訓練により列車の運行が止まっていなかったら大惨事になっていたかもしれません」

「甘露寺の言う通りだ」

 兄はそう言って天を仰いだ。

「そして、根府川の集落では大規模な地滑りが発生して集落を襲い、300人ほどが土砂に飲み込まれて亡くなりました。この地滑りで、白糸川(しらいとがわ)に掛けられていた熱海線の橋梁も押し流されてしまっています。この他にも、熱海線の各所で線路沿いの崖が崩落しておりまして、熱海線の全線復旧には少なくとも1、2年はかかるのではないかということでした」

「痛ましいですね……。少しでも早く、片浦村や小田原町の人々の暮らしが正常に戻るといいですけれど……」

 甘露寺さんの報告を聞いた私はうなだれた。確かに、“史実”の記憶によって、多くの人々の命が救われた。けれど、建物や工作物の損壊は、全くと言っていいほど防げていないのだ。

「先日の豪雨では、神奈川県の大山町(おおやままち)曽我村(そがむら)で土砂災害が起こったそうだ。地震で地盤が緩んで、土砂災害が起こりやすくなっているのだろう。いつになれば被災地に通常の暮らしが戻って来るのか……」

 兄が再び顔をしかめて低い声で言った時、

「あの、陛下。小田原町や片浦村の様子を写真に撮って参りましたが、ご覧になりますか?」

甘露寺さんがこう申し出る。「ああ、頼む」と頷いた兄に、甘露寺さんは恭しく茶色の封筒を差し出した。どんな写真なのかと、私が兄の手元を覗き込もうとすると、

「あ、内府殿下、その写真は見てはなりません!」

甘露寺さんが血相を変えて私を止めた。

「いや、それはないでしょう、甘露寺さん。今見なくても、どうせ後で兄上から見せてもらうのですし」

 そう言いながら、私は兄が机の上に置いた写真の束を手に取る。一番上にあった写真は、どこかの川か池のほとりを写したものだ。岸にある石垣は無残に崩れ去り、木々は水面へと倒れ掛かり……ん?石垣?

(あ、これ、小田原城の水堀と石垣じゃ……)

 気が付いた瞬間、激しい悲しみに私の身体が貫かれる。視界がだんだん暗くなり、意識を手放してしまいそうになった刹那、

「章子、しっかりしろ!」

兄の頼もしい両腕に、私の身体は後ろから支えられた。

「一体どうした?!」

「あ、兄上……この写真……」

「写真?」

「この写真、小田原城だよ……。小田原城の石垣が、崩れて、崩れて……」

 私が両手で自分の顔を覆うと、

「だから言ったんですよ。“内府殿下は見てはいけません”って……」

甘露寺さんが呆れたように言った。

和田倉門(わだくらもん)渡櫓(わたりやぐら)が傾いているのをご覧になって失神なさったんですから、小田原城の石垣が崩れている写真も危ないんじゃないかと思っていたら、案の定でしたよ。全く、城郭がお好きなところは昔から変わらないんですから」

「ご、ごめんなさい……」

 私は甘露寺さんに素直に謝った。子供時代には、私のことを怖がっていた甘露寺さんが、今は怖じ気づくことなく私にズケズケ物を言う。甘露寺さんが成長したのか、それとも、私が成長していないのか……。

 と、

「おい、章子、これを見てみろ」

机の上に置かれた写真の1枚をつまみ上げ、兄が私に声を掛けた。

「ちょっと兄上、小田原城の写真はダメだよ。たった今、甘露寺さんに言われたばかりじゃない……」

 兄の顔を見上げて止めたけれど、兄は意に介する様子もなく、「そら」と言いながら、私に写真を突きつける。その写真には、小田原城の二の丸の平櫓と、その周辺の石垣が健在である様子が写っていた。

「あれ、この二の丸平櫓の写真、地震の前に撮ったもの?」

「違いますよ」

 私の言葉を、甘露寺さんが即座に否定した。「この写真は全て、私が地震の後で撮ったものです。ほら、手前の石垣は少し崩れているでしょう?」

 言われて写真をよく見ると、確かに甘露寺さんの言う通り、石垣の一部が崩れている。しかし、それ以外に損傷は見当たらない。

(“史実”だと、二の丸平櫓は関東大震災で倒壊した……ということは!)

「二の丸の平櫓と言えば、お前が結婚する前、小田原町に資金を援助して耐震工事をさせたところだな」

 兄はそう言うと、私の頭を撫でた。「よかったな。工事をさせておいて。もし工事をしていなかったら、平櫓も他の石垣と同じように崩れていただろう」

「そうだね……。よかったよ。平櫓が残ってくれて……」

 しみじみと呟いた私の頭を撫でる兄を見て、

「陛下は相変わらずですね……」

甘露寺さんが再びため息をつく。

「何か言ったか、甘露寺?」

 兄が視線を上げて甘露寺さんを軽く睨むと、「な、何でもないです」と言って甘露寺さんは首を左右に振り、

「わ、私、下がります。あ、陛下、後で、内府殿下のお顔色がよくない理由、教えてくださいね!」

身体を兄から遠ざけながらサッと一礼して、素早く御学問所から出て行った。

「あいつ……上手く逃げたな」

 そう言って舌打ちした兄を、「まぁ、いいじゃない」と私はなだめる。

「兄上が心を許している人でしょ?こんな風に物を言い合える主君と臣下なんて、なかなかいないわよ」

「それはその通りだ。甘露寺だけではない。八郎も、南部も、従義(じゅうぎ)も、義恕(よしくみ)も、皆、俺のまことの心を打ち明けられる仲間だ」

 かつてご学友として共に東宮御学問所で学び、今では自分の侍従や侍従武官、そして迪宮(みちのみや)さまの侍従として勤務している友人たちの名を挙げると、

「しかしな、梨花。お前も、俺のまことの心を打ち明けられる妹なのだぞ」

兄は真剣な眼差しで私を見つめて言う。

「ありがと、兄上……ところでさ、このままだと話しづらいから、離れてもらっていいかな?」

 片腕で後ろから私を抱き締めたままの兄にお願いすると、

「ああ、すまん」

と言って、兄は私の身体から離れた。


 それから20分ほど、私と兄が御学問所で話していると、

「天皇陛下、内府殿下、よろしいでしょうか」

障子の向こうから我が臣下の声がした。「入っていいぞ」と兄が応じると、書類を手にした大山さんが静かに御学問所に入ってきた。

「ハワイ王国からの支援物資を載せた船が、横浜に入港しました。こちらが積み荷の一覧になります」

 大山さんはそう言うと、手にした書類を兄に提出する。書類に目を通し始めた兄の横から、私も書類を覗き込んだ。

「小麦に缶詰、毛布、医薬品か……リリウオカラニ女王陛下、いち早く必要なものを送ってきてくださったな。ご体調が優れないと聞くが……」

 兄は呟くと、書類を軽く押しいただくようにする。私が外遊した時にも拝謁したリリウオカラニ女王陛下は、現在80歳を超えている。最近は両膝の痛みのために歩ける距離が短くなり、王位継承者のカイウラニ王女殿下が、女王陛下の代わりに公式行事に出席することも多くなったそうだ。

「お礼の電報と一緒に、女王陛下の御見舞いの電報も出そうよ、兄上。ハワイは日本と関係の深い国だしさ」

 私の提案に、兄が「そうだな」と首を縦に振る。同盟こそ結んではいないけれど、ハワイ王国には日本からの移民が多く住んでいる。それに、日本の古い軍艦を破格の安さでハワイ王国に譲渡したり、ハワイ王国からの軍事留学生を国軍で受け入れたりと、軍事的な交流も多くあるのだ。

「それでは、返礼の電報と共に、女王陛下のお見舞いの電報も出すよう、牧野さんと相談しておきましょうか」

「そうしてくれ」

 大山さんの進言に兄が頷く。そして兄は、

「ありがたいことだ。清やイギリス、新イスラエルなど、世界の国々が我が国に援助の手を差し伸べてくれている。義援金も寄せられているということだし……この真心を忘れないようにしなければな」

と言って、瞑目して軽く頭を下げた。

「そうねぇ……」

 兄に同意しようとしたけれど、私は縦に振ろうとした首の動きを止めた。思い出したくないことを思い出してしまったのだ。

「どうかなさいましたか、梨花さま?」

 私の表情の僅かな変化に気づいた大山さんが問う。ごまかしても、どうせすぐにバレてしまうので、

「おととい、明石さんに聞いた話を思い出したのよ……」

私はそう答えて両肩を落とした。

「新イスラエルのストラウス大統領と、清の梁啓超(りょうけいちょう)外務大臣が、震災直後、私に会いに日本に行こうとして周りに止められて、アメリカのウィルソン前大統領も、私に会いに日本に行こうとしたところを、マーシャル前副大統領に殴られて断念して……あのね、今、日本に来られても困るのよ!外賓をもてなす準備なんて、これっぽっちもできないんだから!」

 叫んだ私は、思わず右の拳で机を叩いた。

「しかも、私が死んだという噂がヨーロッパに広まったせいで、オーストリアのフランツ2世は日本に行こうとして周囲に止められて、ドイツの皇帝(バカイザー)は狂奔してポツダム駅まで行ったところで王宮に連れ戻されて……それでイタリアのトリノ伯(セクハラ野郎)アブルッツィ公(登山マニア)が私の後を追って自殺した、って……何なのよ!もう、何なのよ!私、生きてるじゃないの!ふざけんじゃないわよ!」

 一度口から飛び出た愚痴は、留まるところを知らない。私は机を力任せに叩き続けた。

「おまけに、お義父(とう)さまたちと盛岡町で同居するとか……はぁ、家に帰っても全然くつろげないじゃない!きっとあの人、私に毎日書道と和歌の課題を吹っ掛けてくるのよ!……あー、もう、そう考えるだけで胃が痛くなる……」

 そう言って机に突っ伏すと、

「そうかそうか、では、義兄上(あにうえ)に、梨花が泣き言を言っていたと教えようか」

兄が不吉極まりない言葉を口にした。

「やめてよ、そんなの……そんなことしたら、お義父(とう)さま、ますます面白がって、私に難題を吹っ掛けてくるに決まってるんだからぁ……」

 ニヤニヤ笑う兄にべそをかきながら抗議すると、

「分かった、分かった。……安心しろ。そんなことはしないよ」

兄は笑顔を崩さぬまま、私の頭を撫でた。

(いや、これ、絶対お義父(とう)さまに言うでしょ)

 心の中で兄にツッコミを入れた瞬間、

「まぁまぁ、梨花さま」

横から大山さんが苦笑しながら私をなだめにかかる。

「何も、悪いことばかりではないのですよ。梨花さまの世界的な知名度のおかげで、世界の人々は関東大震災に対して“史実”以上の援助をしてくれております。有栖川宮(ありすがわのみや)殿下が盛岡町にお住まいになれば、梨花さまのお子様方に書道を御指南なさるでしょうから、お子様方の書かれる文字は更に美しくなるでしょう。どうか、物事の良い面にも、目をお向けになりますように」

「それは……分かってるわよ……」

 我が臣下に答えると、私は大きなため息をついた。

「まぁ、“史実”と違って、小田原城の二の丸平櫓も震災を耐えきったし、それに何より、震災の死者数は”史実”より減っているし、悪いことばかりじゃないのよね。気持ちを切り替えて、やれることをやっていくしかないか」

 私がこう言うと、

「じゃあ、お前の泣き言、義兄上(あにうえ)に告げ口していいな?」

兄が私に悪戯っぽく尋ねる。

「だから、それはやめて」

 私が兄を睨みつけると、兄と大山さんの楽しげな笑い声が御学問所に響いた。

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