1923(大正8)年9月6日午前9時
1923(大正8)年9月6日木曜日午前9時、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。
「奥大将、こんなにいるのか?」
5日ぶりに御学問所の自分の椅子に座った兄は、机の上に並べられた数十枚の名刺を一瞥すると、名刺を持ってきた侍従長の奥保鞏さんに聞いた。
「はい」
奥侍従長が、僅かに顔をしかめて頷いた。「恐らく、私がこの職に就いてから、最も多い数でございます」
「覚悟はしていましたけどねぇ……」
兄の横に立つ私は、それぞれの名刺に書かれた氏名と肩書を確認しながらため息をついた。枢密顧問官、宮内顧問官、国軍大将、公爵に侯爵……名刺に印刷されている氏名はどれも、この日本で高い地位を持つ人のものだ。彼らは全員、兄が観瀑亭から宮殿に戻ったことを受け、兄のご機嫌伺いにやってきたのだった。
「40人以上いますね。これ、全員に陛下が会ったら、とてもじゃないけど時間が足りませんよ」
名刺の多さを苦々しく思いながら言った私に、
「朝の段階でこれですから、恐らく、更に人数が増えるでしょう」
奥侍従長が冷静な予測を伝える。兄の顔が強張るのが分かった。
「これは、陛下に実際に会っていただく人の数を、制限するしかないですね……」
私の言葉に、
「そうするしかない。午前中には桂総理が報告に来る。この来客全員に会っていたら、報告を聞く暇が無くなる」
兄は顔をしかめて応じた。
「じゃあ、枢密院議長と、貴衆両院の議長と、大審院長は、陛下に会っていただくとして……」
「残りは、内府殿下と島村どのと私でさばきましょう。国軍関係は島村どの、外国大使と、内府殿下目当ての者は内府殿下が、残りは私という分担で……」
「……私が目当てのお客様、何人くらいいますか?」
「少なくとも、枢密顧問官の伊東巳代治どのと清浦どのと加藤どのはそうでしょう。広い意味で考えれば、伊藤どのと、枢密院議長の黒田どのもですが、このお2人には、陛下とご一緒に会っていただかなければ……」
(めんどくせぇ……兄上より私が目当てって、不敬極まりないじゃないの)
奥侍従長の話を聞きながら、私は心の中で悪態をついた。巳代治さんも清浦さんも加藤さんも……一体なぜ参内したのだろうか。ただ、彼らも高い地位にいる人たちだから、私が面会を断ると、後で面倒なことになってしまうだろう。それに、外国大使たちには会っておかないと、地震の後に一時流れた私の死亡説の信ぴょう性が増して、海外にそれが発信されてしまうかもしれない。私は政務の手伝いを大山さんに任せ、“ご機嫌伺い”のお客様たちに対応することになった。
表宮殿の小さな部屋を借りてお客様に会い、その合間に御学問所に戻って、兄と一緒に黒田さんと伊藤さん、渋沢さんに面会し、と、忙しく動いていると、午前10時過ぎ、
「この方はいかが致しますか?」
私が御学問所を出たその時に、侍従さんの1人が私に話しかけた。彼の手には、野党・立憲自由党総裁で、前内務大臣である原さんの名刺がある。
「原さんですか……どうしましょう。ちょっと、陛下にご相談して……」
私が侍従さんに返答した瞬間、私がついさっき閉めた御学問所の障子が開いて、
「さぁて、どうしようかな」
兄がニヤニヤしながらこう言った。
「このまま引き取らせるという手もあるが……」
「流石にそれはまずいって」
私は御学問所に再び入って障子を閉めると、兄に小声で言った。
「原さんは、兄上のことをすごく大事に思ってくれているのよ。そんな人に会わないなんて……」
「……と言ってもな」
兄は固い視線で私を見た。「長年、お前をぞんざいに扱ってきた男だ。そう思うと腹が立って……」
「日本の難題を解決するために、心を一にしないといけないでしょう。それを兄上が崩してどうするの」
すると、
「では、原を待たせて、お昼前にお2人で会うことにすればよいのではないでしょうか」
兄の政務を手伝っていた大山さんが、満面の笑みで提案した。
「い……今からお昼まで待たせたら、2時間ぐらい待つことになるじゃない。それはちょっと、原さんがかわいそうよ」
私は抗議したけれど、
「梨花……」
兄は私をジッと見つめる。兄の唇のすき間から漏れ出るよからぬ気に背筋を凍らされた私は、くるりと回れ右して御学問所を出ると、侍従さんに兄の意思を伝えた。
そして、
「陛下には、この大地震にもかかわらず、お健やかであらせられ、誠に……誠に安堵いたしました……」
黒いフロックコートを着た原さんが、人払いされた御学問所に入ったのは、午前11時45分のことだった。上座にいる兄を見つめる原さんの目からは、涙が1粒こぼれ落ちた。
次に原さんは、兄から少し離れたところに立つ私に身体を向け、
「内府殿下にも、この大地震にもかかわらず、御無事で何よりでございました……」
そう言って、深々と一礼する。
すると、
「本当にそう思っているのか?」
兄が原さんを睨んだ。
「兄上!」
私は兄のそばへと駆けると、左腕を掴んだ。
「ダメよ!自分を慕ってくれている人に、そんな扱いをするなんて!」
「たとえ原が俺を慕っていたとしても、梨花を傷つけるのなら許さぬ」
兄はそう言うと、燃えるような瞳を原さんに向ける。
「陛下」
御学問所の隅に控えていた大山さんが、スッと1歩前に踏み出した。
「いくら何でも、最初からそのような態度を取られましたら、原が何も喋れなくなりましょう」
「そ、そうよ、大山さんの言う通りよ!だから落ち着いて、兄上!」
臣下の言葉に励まされ、私が必死に訴えると、
「……仕方ないな」
兄がそう言ってふっと息を吐く。原さんの身体は、小刻みに震えていた。
「……さて、一応聞いておこうか。立憲自由党の方は、この地震でどうなった?」
兄から質問された原さんは「はっ」と再び頭を下げ、
「本部は、外郭が一部破損した他は、概ね無事でございました。しかし、横浜にあった神奈川県支部は大破しました。死人が出なかったのが幸いでございますが……」
と、恭しく回答する。
「我ら立憲自由党の党員一同、全力で震災からの復興に取り組み、陛下の宸襟を安んじ奉る所存でございます」
続けて、しっかりした口調で言上した原さんに、
「それはありがたいのだが……原よ」
兄は視線を突き刺した。
「その復興の過程で、梨花をぞんざいに扱ったら許さないぞ。この妹は優しいから、貴様からの長年の侮辱にも黙って耐えていたが、俺はそうではない。梨花に何かしたら絶対に許さないから、覚悟しておけ」
「恐れながら」
物騒な通告をした兄に対し、原さんは一礼すると、兄をじっと見つめ返した。
「“史実”で死ぬはずだった2年前のあの日、内府殿下によって命を救われてから、わたしは陛下に対してはもちろんですが、内府殿下にも忠誠を誓っております。今ここで、内府殿下に、今までの不躾な行いを詫びて腹を切れと言われれば、即刻切腹する覚悟にて……」
「意味がまるで分からないし、自殺されると困るからやめてください」
私は横からツッコミを入れると、大きなため息をついた。
「それに、今ここで切腹されたら、全身麻酔をかけて開腹手術をして、傷ついた血管を結紮したり、損傷した腸管を切除したりして救命しないといけないじゃないですか……。やめてくださいよ、侍医の先生方だって、臨時診療所の業務で忙しいのに、切腹なんて馬鹿なことをして仕事を増やすのは……」
すると、
「ああ、何とありがたいお言葉か……」
原さんが突然、御学問所の床に両膝をついた。
「罪深きこのわたしに“自殺するな”と言ってくださるとは……。この大恩、決して忘れることなく、今後も内府殿下の御為、そして陛下の御為に励んで参ります!」
「あ、あの……原さん、分かりましたから。兄上も奥に戻らないといけないし、今日はとりあえず、この辺でっ!」
原さんの従順さが、芝居なのか本気なのか、全く分からない。長年、私に偉そうな態度を取っていた原さんにこんな風にへりくだられてしまうと、頭がエラーを吐き出しそうだ。私の言葉に応えた原さんは、立ち上がって兄に最敬礼すると、御学問所を退出していった。
「何だ、原に情けを掛けてやる必要などないのに」
原さんの姿が見えなくなると、つまらなそうに兄が言う。
「兄上が意地悪し過ぎなのよ。やめてよね、変なことを言うの」
「何が変なことだ。俺は梨花のためを思って……」
「だから……」
私と兄の間で言い争いが起きようとした時、「まぁまぁ」と大山さんが私たちの間に割って入った。
「陛下、流石にこのくらいでよいでしょう。もし、桂さんの次に、原が総理大臣になれば、今の調子では業務に支障をきたします」
大山さんの言葉に、
「む……確かにな」
と、兄は顔をしかめながら頷く。
「仕事ができる男ではあるのだ。……ただ、時々はこうして、注意喚起をしなければな」
「ええ、それは」
兄の不穏な言葉に、大山さんが相槌を打つ。兄と大山さんのやり取りを聞いた私は、原さんが内閣総理大臣に就任せず、兄の意地悪に遭わずに一生を終えることを、つい祈ってしまった。
1923(大正8)年9月6日木曜日午後7時30分、皇居・表御座所にある内大臣室。
「夜遅くに申し訳ありません、内府殿下」
私の前に立っているのは、山階宮菊麿王殿下の次男、山階芳麿伯爵だ。今日は背広服ではなく、黒いフロックコートを着ていた。
「大丈夫よ。ところで、どうしたの?」
椅子に座った私が尋ねると、
「はい、明日の午前中、家に戻ることになりましたので、ご挨拶を……」
芳麿さまはこう答えて頭を下げた。
「明日改めて、母と義姉と一緒に、天皇皇后両陛下にご挨拶する予定なのですが、内府殿下には大変お世話になりましたので、先にご挨拶をと思いまして」
「お世話になったのは私の方だけれど」
私は芳麿さまに苦笑いを向けた。「私が和田倉門の下で倒れた時、人を集めて医療棟まで私を運んでくれたんだってね。ありがとう。お礼を言うのが遅れてごめんなさいね」
「いえ、そんな……僕は当たり前のことをしただけですから……」
私の言葉に、芳麿さまは身体を小さくしてサッと一礼する。
(本当にいい青年ね、芳麿さまは……。うちの子たちのお手本にしたいなぁ……)
思わず、頬が緩みそうになったけれど、今は挨拶の最中なのだから、真面目にやらなくてはならない。私は咳払いをすると、
「ところで芳麿さま、宮内省のお手伝いは順調かしら?」
彼にこんな質問を投げた。
「はい!」
芳麿さまは目を輝かせた。
「今日の午前中は、皇后陛下付きの女官さんが帝大病院に慰問に行く時、自動車を運転したんです。僕が運転席に座っているのを見た女官さんが、目を丸くしていました。それから午後は、自動車で小金井村に行って、野菜を仕入れた後、それを日比谷公園の炊き出しに持って行って……」
芳麿さまはやや早口で喋ると、
「あの時……東小松宮妃殿下が産気づかれたという知らせを聞いた時、できることをやるんだ、と決心して、本当によかったです」
と言って、ニッコリ笑った。
「それは良かった」
私は頬が緩みそうになるのを必死に我慢しながら答えた。
「宮内省の職員さんたちの中にも、家の片付けや何かで休まないといけない人が結構いるみたいだから、臨時の職員さんが入ってくれるのは、福利厚生の面から考えると利益が大きいのよ。みんな、休みを取りやすくなるし……。ただ、芳麿さま、あなたの本分は学生なのだから、それは忘れないようにね」
「はい、分かっております。来月、大学が再開したら、また勉学に励む所存です」
「そうしてちょうだい」
そう言いながら私が頷いた時、
「ところで内府殿下、明日の朝、天皇陛下が行幸なさるとか」
芳麿さまが私に言った。
「ええ。馬で回るから、自動車の出番は無いけれど」
兄は明日の朝、ごく少数の供だけを連れて、東京市内を視察する予定だ。皇居の北にある神田区と麹町区にまたがる火災現場を視察した後で、浅草区と本所区の焼失区域を回る。そして、本所区の横網公園に設けられた避難者用の仮小屋と赤十字社の救護所を慰問して、皇居に戻ることになっていた。
「恐れながら、自動車庫の扉も復旧して、自動車も全て使えるのに、なぜ、自動車ではなく馬で移動されるのでしょうか?」
「ああ……それは色々事情があってね……」
私は今日の昼過ぎに行われた、兄と宮内大臣の牧野さん、戒厳司令官の山階宮菊麿王殿下との話し合いの内容を思い出しながら芳麿さまに答え始めた。
「宮内省の自動車は、当分は、罹災者たちが必要とする食料や生活必需品の運搬に使いたい……というのが、陛下の思し召しなのよ。だから、行幸にはなるべく自動車は使いたくない、と陛下はおっしゃるの。侍従さんや女官さんに慰問をしてもらう時は、一緒に食料も持っていくから、荷物がたくさん積める自動車を使ってもらうんだけどね」
「なるほど。他には何か、事情があるのですか?」
「本所や浅草の方で、まだ瓦礫を片付けられてなくて、自動車が通れない道があるの」
話を聞くのが上手だな、と思いながら、私は芳麿さまに言った。「“自動車が通れるように、瓦礫をどけましょうか”って、芳麿さまのお父様からも提案があったけれど、陛下が、“罹災者たちの生活復旧に必要な措置を優先させるように”とおっしゃったから、結局取りやめになったわ。私としては自動車の方がありがたいけれど、仕方ないかな」
「はぁ。……内府殿下は、明日の行幸に供奉されるのですか?」
「ついて行くつもりはなかったんだけど……ついて行くことになったわ」
芳麿さまの質問に、私は両肩を落とし、唇を突き出した。
「市街地で馬に乗るのが久しぶりでね……。今の芳麿さまより若い頃に1回乗っただけだから、ちゃんと馬に乗れるか不安なのよ。だから、供奉するのは遠慮しようとしたのだけれど、牧野さんにも、芳麿さまのお父様にも“それはダメ”と言われたわ」
「それはまた……どうしてですか?」
「大衆の前に姿をさらして、私が健在だということを示さないといけない、と言われたの」
そう答えると、私は思い切り顔をしかめた。「私が死んだ、という噂が、地震の後、東京市内で流れたんですって。全くもう……そんな噂を流してくれなんて、こっちは頼んですらいないのに、本当に迷惑な話よ。それで、馬に乗らなきゃいけないなんて……」
「確かにな」
突然、芳麿さまではない男性の声が内大臣室に響き、私は一瞬、身体を強張らせた。……いや、どう考えてもおかしい。まず、ドアをノックして、入っていいかどうかを中の人間に確かめるべきだ。それに、自分以外の客が先に部屋に入っていると分かったら、部屋の外で待っているか、出直すのが普通なのに……。
「あ~~に~~う~~え~~……」
私に断りなく内大臣室に入り、自然に会話に入ってきた兄を私は睨みつけた。
「せめて、ドアをノックしてよ!芳麿さまと話している最中だったのよ!」
「あー、それはそうだが」
怒る私に、兄は悪びれる様子もなく答え、
「しかし、兄としては気になるだろう。内大臣室から、大山大将や東條たちではない男の声がしたのだぞ?もしや、章子が誰かに難癖をつけられているのではないかと心配になって……」
真面目な表情で、とんでもない言葉を付け加えた。
「あのさぁ?!」
私は兄に詰め寄った。
「それ、過保護だってば!大体、私、芳麿さまと話してただけなのに、それが何でそんなに物騒な話になるのよ!」
かわいそうに、芳麿さまはこちらを見たまま立ち尽くしている。兄が前触れなく現れたのに、心の底から動揺しているのだろう。内大臣秘書官として勤務を始めたころの平塚さんのように、兄の姿を見て失神しないだけまだましである。
「本当か?」
「本当だってば!」
芳麿さまを一瞥した兄を私は再び睨んだ。私の視線を受け止めた兄は、数秒の間私と睨み合ったけれど、やがて、ふうっと息を吐き、
「……なら、章子の言うことが正しいのだろう。済まなかったな、芳麿、あらぬ疑いをかけてしまって」
と言って、芳麿さまに頭を下げた。
「い、いえ、あの……」
「多喜子が産気づいた時、章子を送ってくれてありがとう。それに、倒れた章子を助けてくれたのだ。そんな人間を疑うなど、わたしもどうかしている。許してくれ、芳麿」
「い、いや、僕が陛下を許すなどと、そんな恐れ多いこと……」
兄の態度に、芳麿さまは目を白黒させている。動揺しているのは明らかだったので、
「兄上、芳麿さまに、“今後も頑張れ”みたいなことを言って、とにかく話を終わらせて。芳麿さま、どう見ても戸惑っているから」
私は兄に慌てて囁いた。「あ、ああ」と頷いた兄は、咳払いをすると、
「芳麿」
穏やかな声で芳麿さまを呼ぶ。我に返ったように頭を下げた芳麿さまに、
「この急場に、宮内省の手伝いもしてくれていること、礼を言う。だが、大学が再開したら、学生の本分に則って、きちんと勉学に励めよ」
兄は非常に真っ当な言葉を掛けた。
「はい!」
元気よく返事して最敬礼した芳麿さまの様子を見て、
(これで何とか、形にはなったかしらね……)
私は胸をなで下ろした。




