1923(大正8)年9月4日午前8時42分
1923(大正8)年9月4日火曜日午前8時42分、皇居・観瀑亭の仮御座所。
「この度は、多喜子の出産に対し、格別のご配慮を賜り、誠に……誠に、ありがとうございました」
兄の前で平伏しているのは、私の末の妹・多喜子さまの夫である東小松宮輝久王殿下だ。昨日会った栽仁殿下と同じように、海兵大尉の夏の白い軍装に身を包んだ輝久殿下は、これ以上ないくらい身を小さくしていた。
「しかも、姉宮さ……じゃない、内府殿下を我が家に差し遣わしてくださるとは……戒厳令下の緊急事態とは言え、陛下の大事な内府殿下を我が家のために使ってしまいましたこと、誠に申し訳なく思います」
平伏したまま恐縮しきりの輝久殿下に、
「気にするな、輝久。この妹は、考えられる最善の手段を取っただけだ」
兄は穏やかに笑って返答する。
「し、しかし、栽仁から聞きましたが、内府殿下は我が家から皇居に戻られる途中で気を失われたとのこと。我が家にいらっしゃらなければ、そのようなことも無かったのではないかと思いますが……」
「あの、輝久殿下。倒れたのは不可抗力だから」
見かねた私は、横から輝久殿下の言葉を否定しにかかった。
「事前の説明なしで和田倉門を見るなんてことをしなければ、私が倒れることはなかったの。これは、大山さんの注意を完全に忘れていた私のせいだから、輝久殿下は全然気にしなくていいのよ」
「そうだ。お前のところに行こうと行くまいと、壊れた江戸城の遺構を章子が目の当たりにすれば、倒れてしまうのは自明の理なのだ。……普通の人間ならあり得ない話だがな。だから輝久、章子が倒れた件は気にするな」
「は、はぁ……では、もったいないことではございますが、陛下のお言葉通りにさせていただきます」
兄も強く言ったためか、輝久殿下はこう答えて一礼する。そんな彼に、
「そんなことより輝久、多喜子と子供には会ってやったのか?」
兄は身を乗り出すようにして尋ねた。
「はい。昨夜、日付が変わる頃でしたが……。多喜子も子供も元気で安堵いたしました。これも姉……内府殿下のおかげでございます」
「いつもみたいに“姉宮さま”でいいよ」
私は夫の親友に笑って言った。「あなたに“内府殿下”って言われちゃうと、何か調子が狂っちゃうし」
「そうだぞ、輝久。俺とお前とは義理の兄弟だし、お前から見れば、章子は義理の姉ではないか。だから遠慮なく、章子のことを“姉宮さま”と呼べばいい」
兄はにこやかに言ったけれど、輝久殿下はそれに「は、はぁ……」とぎこちなく応じる。それを見た私は、
(これ……去年の皇族会議のせいじゃん……)
とピンと来た。あの時の兄の怒りに、私はもちろんだけれど、出席していた男性皇族全員が怯えていた。輝久さまの記憶には、あの時の兄の恐ろしい姿がしっかり刻み込まれているのだろう。
(兄上さぁ、トラウマを植え付けてどうするのよ……)
私が心の中で兄に文句を言った時、
「ところで、輝久は今、国軍省の大臣官房にいるのだったな」
その兄は輝久殿下に話しかけた。
「はい、目下、使い走りのようなことをしております」
頭を下げた輝久殿下に、
「今は近代的な通信手段が無線しかない。戒厳司令部や内閣、それに各地方とも連絡を付けなければならないから苦労しているだろうな」
兄は更に話しかけ続ける。
「はい。昨日は俺も宇都宮まで使いに行きました」
輝久殿下は、意外にもしっかりした声で答えた。「しかし昨日の日中、東京への送電が再開されましたので、機械さえ復旧すれば、電話や電信も徐々に使えるようになると思われます。そうなれば、遠隔地との通信はかなり楽になるでしょう。ですが、東京と、神奈川の諸都市との通信は、復旧するのに時間がかかりそうです。電線や電話線が寸断されている所もありますので……」
「そうだな。東京と京都・大阪をつなぐ東海道線も、線路や設備が壊れたところがあると聞く。逓信省が、東京と清水を連絡する船を運行し始めたと昨日報告を受けたが……。東西の運輸・通信が復旧するまでには、まだ時間がかかるだろうな」
「おっしゃる通りです。その東西の連絡経路にある神奈川の諸都市の復興は、東西連絡のためにも必須です。もちろん、この東京も復興させなければなりませんが」
「ああ。東京にも、未来を見据えて片付けなければならない課題が山積している。まずは罹災者の保護が急務だが、未来のことも考えなければ」
輝久殿下と話していた兄は、ふと微笑むと、
「良き軍人となったな、輝久は」
と言った。
「はっ……」
深々と頭を下げた輝久殿下に、
「これなら、多喜子を託すに申し分ない。先帝陛下もそうおっしゃるだろう」
兄は穏やかな声で言った。
「輝久、多喜子と子供のこと、よろしく頼むぞ」
「はい、今後も多喜子と子供を、しっかり守って参ります」
兄の言葉に、輝久殿下は力強く誓った。
1923(大正8)年9月4日火曜日午後4時50分、皇居・観瀑亭にある仮御座所。
「それでは、本日の状況につきまして、報告させていただきます」
午後の業務の最後、そう言って兄の前に平伏したのは、宮内大臣の牧野さんだ。仮御座所には私の他にも節子さま、そして大山さんがいる。観瀑亭にいるごく内輪の人間全員が、仮御座所に集合していた。
「ただいまの宮内省の業務は、おおよそ4つに分けられます。1つ目は、皇居や離宮・各宮邸の損傷の確認と修理。次に、震災による各地の被害状況の把握。3つ目は職員用の食料などの確保、そして被害地への慰問です。昨日まではこの4つに、東京を離れていらっしゃる各皇族方との連絡が大きな業務としてございましたが、本日、日光御用邸と千住郵便局の間の直通電話線が復旧しましたので、業務量は格段に減りました」
牧野さんはこう言って説明を始める。昨日、私が多喜子さまのところに行っていた間にあった出来事は、今日、兄から政務の合間に聞いたけれど、こうやって改めて牧野さんから全体像を聞くと、状況がよく整理できる。
「まず、東京府内の宮内省に関係する建築物の損傷の確認は、本日、各宮邸と帝室博物館以外で完了しました。宮殿での大きな破損は、奥御殿の廊下の一部の崩落です。他には、陛下の御湯殿の一部破損などもございますが、そちらは本日応急修理が完了しましたので、明日、電気の試験が終われば、両陛下には奥御殿にお戻りいただけるかと存じます」
「それはありがたいが……」
牧野さんの言葉を聞いた兄は眉をひそめた。「宮内省の職員たちの休養もきちんと考えてくれよ。職員の中には、表御殿に泊まり込んでいる者も多い。慣れない所で寝ると神経をすり減らしてしまうだろう」
「仰せの通り……それに関しまして、ご相談があるのですが」
「何だ?」
「奥御殿の廊下の崩落個所、それから、東車寄前の堤防下に、仮設の風呂を設置したいと考えています。もちろん、奥御殿の方は、瓦礫を片付けてからとなりますが……構いませんでしょうか?」
「いいぞ」
牧野さんの問いに兄は力強く答えた。「そういうことはどんどんやってくれ。この震災の後処理で、梨花の時代で言う“過労死”が発生してしまったら、震災の犠牲者が増えることになるからな」
「ありがたきお言葉……。では早速、そのようにさせていただきます」
一礼した牧野さんに頷くと、兄は私に目を向け、
「梨花、嬉しそうだな」
と笑う。
「お風呂に入るのは好きだからね」
私は自然に零れてしまった笑みを必死に抑えながら答えた。「盛岡町邸が無事なら、盛岡町邸のお風呂に入るけど、まだ安全の確認が取れていないから」
「そちらはもう数日お時間をください」
牧野さんが頭を下げた。「盛岡町邸の職員からは、“損傷はない”という報告が入っておりますが、目につきにくいところに損傷がある可能性はあります。それに、電気の試験もしておりませんから」
「分かっていますよ。私はここにちゃんとねぐらがありますから、これ以上の贅沢は言いません」
盛岡町邸の話を続けてしまうと、牧野さんに妙なプレッシャーがかかってしまいそうなので、私はにこやかに笑ってから、「ところで、宮殿以外の損傷はどうなっているのですか?」と彼に尋ね、話題を変えにかかった。
「皇居の敷地内で全壊したのは馬車庫と物置1棟です。他に、皇宮警察の武道場と合宿所、厩舎が大きな損傷を受けています。それから……」
説明を再開した牧野さんは、私に不安げな視線を向ける。「どうした?」と問うた兄に、
「実は……昨日の件がございますので、内府殿下にこの報告をさせていただいてよいものか、迷っておりまして……」
牧野さんは答えると、再び私を心配そうに見つめた。
「ああ、なるほど……」
兄が軽く頷いたのと同時に、私と一緒に仮御座所に控えていた大山さんが、横から私の身体を抱き締めた。
「牧野さん、これなら大丈夫でしょう」
「ちょっと待って、私が明らかに大丈夫じゃないでしょう?!何で大山さんは私を抱き締めるの?!」
私が大山さんの腕の中でもがきながら抗議すると、
「何、予防措置でございますよ」
私の身体をきつく抱き締めたまま、我が臣下は悠然と言った。「梨花さまには刺激の強すぎる報告となりましょう。昨日のように気を失われてしまったら大変ですから、何があってもいいように、こうして俺が身体をお支えしているのでございます」
「あの……大丈夫よ……」
ここまで言われてしまえば、なぜ私が心配されているのかは嫌でも分かる。私は大きなため息をついた。
「覚悟はしてるから。破損したのが和田倉門だけで他は無事、なんて展開があり得ないことは分かってるから……だから、報告を続けてください、牧野さん」
「かしこまりました。では……」
牧野さんは頭を下げると、
「和田倉門の渡櫓が半壊しましたのは、昨日、内府殿下がご覧になった通りでございますが、和田倉門の他、坂下門、乾門、大手櫓門で壁や瓦が剥落し、石垣や塀なども10数か所で破損が見られます。全てを直すにはかなりの時間が掛かるものと思われます」
と、淡々と報告してくれた。
「で、ですよね……」
覚悟はしていたけれど、辛いものは辛い。私は悲しみを必死に堪えながら首を縦に振った。
「あ、あの、直しては欲しいですけれど、まずは罹災者の救援やインフラの整備が先なので……江戸城の遺構の修復はその後でいいです……。修復方法の検討も必要ですし……」
私が呟くように牧野さんにお願いすると、
「ああ、気を失われずに済んでようございました」
大山さんがクスクス笑いながら言う。私は顔を真っ赤にしてしまった。
「では、報告を続けますが……」
牧野さんは私を見てクスっと笑うと、兄に向き直り、
「大宮御所は物置1棟の半壊と塀の一部の崩落のみで、他の被害はありません」
と言って、報告を再開した。
「東宮御所は、御居間や御寝室のあたり、総計300坪ほどが大破しておりました。付属の皇孫御殿は無事でしたが」
「あの屋敷は古いからなぁ」
兄はそう応じるとため息をついた。「確か、維新の前に建てられた部分も多かったはずだ。裕仁が“東宮御所は新しく建てなくてもよい”と言ったから、改装しただけで渡したが……新しく建てた方がよかったかもしれないな。まぁ、結果論でしかないのだが」
兄は一通り呟いてから顔を上げ、「続けてくれ」と牧野さんを促す。
「……芝離宮では、職員の官舎2棟と倉庫、ポンプ置き場が倒壊しましたが、洋館・日本館は数か所に壁の亀裂が見られる他はおおむね無事でございます。浜離宮では馬繋が倒壊しましたが、洋館・日本館の損傷は軽微です」
牧野さんは兄に向かって言うと、
「なお、日光にご滞在中の皇太后陛下から本日ご連絡が入りまして、大宮御所は罹災者のために自由に使って構わないとの思し召しでございました。これを受けまして、大宮御所は宮内省職員の家族で罹災した者の避難所として使わせていただくこととしました」
と付け加え、深々と頭を下げた。
「芝離宮と浜離宮も、もし使えるのならば、同じように使って構わないぞ」
兄は穏やかな声で牧野さんに言った。「宮内省の職員の家族だけではなく、他の省庁の職員やその家族で罹災した者たちに提供してもよい。桂総理とも相談はしなければならないだろうが、検討してみてくれないか」
「ありがたき思し召し……感謝申し上げます。それでは、内閣と調整して、使用の検討をさせていただきます」
再び一礼した牧野さんに、兄は「よろしく頼むぞ」と声を掛けた。
「さて、職員の食料については、1か月ほどを優にしのげる量がございます。当初、宮城内に避難民を入れる可能性を考えて準備した影響でございますが……。罹災した職員の家族にも回す予定ですが、それでも余る分は、適宜、東京府や神奈川県、国軍が行っている炊き出しに提供いたします」
牧野さんの説明は、今度は食料事情に移る。備蓄食料がどれだけあるか……宮内省職員の大半が表宮殿に泊まり込み、食料を自分で調達できないこの状況下では非常に重要なことである。
すると、
「是非そうしてくれ。この災害下では、皆が助け合わなければならないからな」
と兄が言った。その横から、
「各病院や臨時救護所に慰問に行く者に持たせてもいいかもしれませんね」
兄と並んで上座にいる節子さまが提案した。
「衛生材料の方が喜ばれるでしょうけれど……」
提案した後、寂しそうに付け加えた節子さまに、
「いや、病院には食料も必要だよ」
私は即座に反論した。
「病院には入院患者もいるから、その人たちに食事を出さないといけない。それに、病院で働く人の食事だって必要よ。今、物資の流通は滞って、食料が手に入りにくくなっているだろうから、食料は持っていったら、きっと喜ばれると思う」
「じゃあ、医療機関を慰問する女官たちに、食料を持たせましょう」
私の言葉を聞いた節子さまは頷くと、
「本当は私も、慰問に行きたいけれど……」
そう言いながら悲しげに微笑む。
「それは俺もだ。苦しんでいる者たちを励ましたいが……牧野大臣、いつになれば俺は視察に出られる?」
「お気持ちは重々承知しておりますが、流石にまだ早すぎます」
身を乗り出そうとする兄に、牧野さんは静かに頭を左右に振った。
「せめて、犠牲者の遺体の収容が終わってからでないと……。本所区や浅草区の焼け跡では、今も捜索が続いておりますので……」
「……ああ、そうだな。今、俺が出て行っては、かえって懸命に働いている皆の邪魔になってしまう」
兄の瞳に、一瞬だけ暗い光が瞬く。けれど、次の瞬間、兄は姿勢を正し、
「悪かったな、牧野大臣。被災地の視察は適切な時期に行きたいから、今後も検討を頼む」
と、穏やかな表情で命じた。
「嘉仁さま……」
牧野さんが仮御座所を退出すると、節子さまが兄の手を握った。私も腰を少し浮かせ、すぐに動けるような体勢を取る。
「……済まないな、節子も梨花も」
兄は微笑むと、節子さまの手を握り返す。牧野さんが仮御座所を出た直後、再び兄の瞳に満ちた暗い光は、今は消え去っていた。
「大丈夫だ。辛いのは事実だが、問題はない。お前たちがいてくれればな」
兄は明るい瞳を節子さまに、次いで私に向けた。
「俺は天皇として、これ以上の犠牲者を出さないように、ここでできることをやっていくよ。この日本を、裕仁に少しでもいい形で引き継ぐためにな」
兄の言葉に、私は黙って頭を垂れる。気が付くと、大山さんの姿は仮御座所に無かった。その気配も消えていたけれど、それでもなぜか、私は大山さんの気配がどこかにあるような気がしてならなかった。
※芝離宮は実際には燃えてしまったので、洋館・日本館の被害は勝手に設定しています。ご了承ください。




